第六章
漆黒の闇が、辺りを覆う。
何も見えず、何も聞こえず。無明無音の暗黒は、人の気配どころか、生きているものの気配すらもがない。まるで墓場のような雰囲気が、じっとりと流れているだけだ。
だが、不意に柔らかな光がその中に灯る。
光の中心には、一人の女がいた。
年の頃は二十代前半、といったところだろうか。深い橙色の長髪と藍色がかかった瞳を持つ女は、自分をで守るようにその髪を周囲に取り巻かせていた。
目鼻立ちのすっきりとした女は、誰もが振り向くような美貌を誇っているが、今は石像のように眼を閉ざしている。が、細く息を吐き出しながら女は眼を開き、肌に張り付いた着物の上半分をゆるりとした動きで脱ぎ捨て、その肌を露わにする。
と、同時に、女は側に置いてある甲冑に手を伸ばしかけるが、胸の中央付近に出来たひび割れと切り裂かれた左肩を認め、ギリギリと奥歯を噛みしめた。
「おのれ……沙羯羅龍王と天王め……」
藍色の瞳の中には、憎悪と怒りが渦巻いている。
それが女の美貌を一層際立たせ、その姿すらもが美しいと思う者が大半だろう。けれども、自分の容姿に絶対の自信を持っている女にとって、そんな感情など役に立たないどうでも良い事柄でしかない。
今の女の中を支配しているものは、負の感情だけだ。
それだけに身を焦がしながら、女はガツリと甲冑を叩きつけた。
「見ておるが良い。必ずや貴様らの首を跳ね、帝釈天様の御前に届けてくれる」
怨嗟の声は闇に溶け込むと、女の周囲がゆらりと歪む。
その途端、ズキリ、と左肩に走った痛みに、女は小さく舌を打ち付けていた。
「くそっ、邪神共が……必ずやこの報い受けさせ、殺してくれるわ」
左肩から胸にかけてぱっくりと裂けた傷口は、どす黒く固まった血が凝固しているが、それを撫で付ければ血は瞬く間に消え去り、醜い疵痕となって女の白い肌を穢しているかのように残っていた。
その痕を見た瞬間、女は眦をつり上げて般若のごとき表情を浮かべる。
「おのれ……よもやあの小僧が、天王であったとは……しかし、このままですむと思うなよ、邪神共」
痛みよりも、屈辱が勝るのだろう。女は赤い紅唇から呪詛を紡ぐようにそう呟き、その疵痕に指を這わせた。
こんなはずではなかった。
自分の取った行動は間違いなく沙羯羅龍王達を圧倒していた。だというのに、土壇場で借り物の身体が自分に反発し、あろうことか自分を押さえつけて己の命ごと絶とうなどとは、女にとっては計算違いも甚だしい出来事が起きたのだ。
たかが人間ごときが、神である自分の力を追い払うなど、本来ならば有り得ない事だというのに……見くびっていた、という事になるのであろうか。だが、それを認める事など出来ずに、女は綺麗に整えられた指先を軽く噛みしめ、これから先の事を考える。
沙羯羅龍王と阿修羅王の首を引っ提げ、それを自身の主である天帝帝釈天に献上する。そして、それを機に、認めてもらいたかった人物へと、自分は堂々と胸を張って報告に行くはずであったのに……。
ぎちり、と女の前歯が指先を噛みちぎる。プツリと浮き出た血の雫にすら気にも留めることなく、女は自分自身を落ち着かせるように息を吸い込んだ。
そんな時だ。女の瞳が訝しげに細められ、光へと引き寄せられるようにその視線を誘導される。
周囲を僅かに照らすだけで会った光の球が、突如激しい光芒を放ち一人の青年の姿を映し出した。
「……これはこれは。北方将軍毘沙門天殿が自らお出ましになるとは」
揶揄も露わな口調ではあるが、女のその瞳の奥には僅かな恐怖と苦々しさとが明滅している。
今最も会いたくはない存在。毘沙門天の姿は、女にとっては邪険に扱っても仕方がないほどの事だが、それを無視する事など出来ないほどの圧迫感を放っていた。
「このような所にまで来るとは、何用だ?」
『用件、と言うほどのものではない。
ただ、貴様が何をしているのか気になったのでな』
何の感慨もなく、平淡な口調で毘沙門天はそう言い放ち、毘沙門天は冷ややかに女の姿を眺める。
左肩から腹にかけての疵痕を認めながらも、毘沙門天は事務的なまでの口調で女に疑問を投げつけた。
『本気で沙羯羅龍王を殺すつもりか?摩利支天』
「そのつもりだが」
『無駄な事は止めておく事だな。
貴様を人界に送り込んだのは、今だ覚醒しておらぬ神達が側にいなかったからだ』
淡々と、それでもはっきりとした毘沙門天の断言に、女、摩利支天の柳眉が逆立つ。
言われたくもない事を口にされれば、摩利支天のプライドが著しく傷つけられるのは眼に見えている。だというのに、毘沙門天はそんなものを紙切れのごとく踏みつけ、傷口に塩を塗るように言葉を重ねた。
『沙羯羅龍王を殺すどころか、八部衆の一人、天王を目覚めさせたのだ。これ以上奴らの覚醒につながる事は控え、その責を背負い、早く天界に戻れ』
「黙れ!私はまだ負けたわけではない!」
『ならば、その傷はどう説明する気だ?』
痛烈な皮肉に、摩利支天は顔を朱に染めて毘沙門天を睨み付ける。
射殺しそうなほどの視線だというのに、毘沙門天はそんなものに気を留める事なく冷徹な口調で再度の忠告を与えた。
『無理な事は止めておく事だな。龍牙刀が今だ完全に元の形に戻っていないとはいえ、沙羯羅龍王だけではなく、阿修羅王に天王。そして、残りの八部衆がそろうのは時間の問題としか言えぬ。
これ以上は、貴様一人ではこの件をどうにかする事は無理な事柄だぞ』
「黙れ!それをお主に言われる筋合いはない!毘沙門天、私は帝釈天様へと奴らの首を献上すると言ったはずだぞ。
今だそれが果たされておらぬ以上、おめおめと天界に帰ると思うのか!」
『なるほど、戻るつもりは毛頭ない。そう言いたいのだな』
「そうだ」
きっぱりとした摩利支天の口調に、一瞬だが毘沙門天の顔に冷笑が浮かぶ。
だが、それに気付く事なく、摩利支天は忌々しげに脱ぎ捨ててあった上着を取ると、これ以上は疵口を見せまいとするようにさっさとそれを着てしまう。
感情の起伏が少なく、冷徹な判断を下す毘沙門天は、帝釈天の右腕としてその辣腕を振るっている。四天王の長であると同時に、帝釈天の考えをいち早く読み取る事の出来る存在は、摩利支天が知る中でも毘沙門天を入れて二人しか存在しない。
とはいえ、帝釈天の命を直接的に指示する事が出来るのは毘沙門天だけであり、他の四天王も毘沙門天に強く意見を言えたとしても、その考えを諾として頷かない限りは兵を一人たりとも動かす事は出来ない。それ程の実力者であるからこそ、摩利支天は反発の声をあげるだけしか出来ず、荒々しい動きでそれらを追い払うようにして腕を横凪に振り付けて、毘沙門天に視線を固定させた。
冷静すぎる表情の毘沙門天の姿は、今の摩利支天にとっては感情を逆なでするものでしかなかった。
その様子に、毘沙門天は僅かに肩をすくめたように摩利支天は見えたが、それを肯定するように毘沙門天は切り捨てるような言葉を吐き出した。
『ならば、好きにするのだな。
我々四天王、そしてその配下は、お主に手を貸すつもりなどない』
「……それだけを言うために、ここまで来たというのか?」
『そうなるな』
今度こそ、隠す事のない冷たい笑みが毘沙門天の顔に張り付く。
忌ま忌ましさを隠そうともしない摩利支天の様子を数瞬だけ眺めた毘沙門天は、用件が済んだとばかりに現れた時同様に眩しい光を放つ中へと消え去った。
それを見届け、ギュッと握りしめた摩利支天の拳が、感情の発露をどこかに求めるように小刻みに揺れ動いた。
侮蔑と皮肉に溢れた毘沙門天の態度が、摩利支天の自尊心をズタズタに引き裂き、その怒りの矛先が全て目覚めた八部衆達に向けられる。
「おのれ……」
もはや、殺すだけでは飽き足らない。
生きたまま八部衆達の四肢を引きちぎり、その血と命をもってでしか、摩利支天は自分の感情を抑えつける事が出来ずにいる。
もしも、おめおめと天界に戻ったとしても、人界に来る前に築いていた自分自身の地位が崩れるだけではなく、嘲笑と小馬鹿にした視線が待ち受けているだろう。
なんとしても、沙羯羅龍王達の首をはねなければならない。
僅かな焦りと、それ以上の憎悪に摩利支天は身を震わせた。