その婚約破棄で迷惑する人間のことは考えなかったのですか?
ある王国で王太子の婚約破棄騒動が起こった。
経緯をたどればくだらない話であるが、元々王太子は婚約に乗り気ではなく、王命なので仕方ないといった雰囲気がありありの政略結婚。
婚約者である侯爵令嬢のジェシカもそれは感じていたものの、王国の将来のためにと、王太子に認めてもらえるよう精一杯努力を重ねていた。
しかし、とある男爵令嬢が王太子と恋仲になったことで、状況は大きく変わった。
いつしか王太子は、男爵令嬢を正妃にと願い、遂には嫉妬により婚約者が男爵令嬢を害さんとしたという殺人未遂の嫌疑をかけ、婚約破棄の上、国外追放を命じるという暴挙に出たのである。
夜会で謂れのないイジメや暴力を行っていたと、一方的な断罪を受けたジェシカであったが、この断罪計画を事前に察知していた彼女は、執事のエディーに命じ、自身の身の潔白と王太子の不貞の証拠を集めさせていた。
更に言うと、このエディーという男。有能な上に、ジェシカのためなら命も惜しまぬというほど、彼女に忠誠を誓っており、相手がおバカだったこともあって、証拠集めは何の支障もなく、これでもかというくらいに集まった。
その後、国王の裁定により、婚約は王太子の有責により破棄。その身は王位継承権剥奪の上、子爵への臣籍降下と相成った。
それから数日、ジェシカは人生で始めて自由を謳歌していた。
今まで己の意思とは関係なく縛られていた鎖から解き放たれ、晴れて自由の身になったことに喜びを隠せないでいたのである。
「ロバート、おはよう。今日もいい天気ね」
「ああジェシカ様、おはようございます。何のご用でしょうか。まさか満面の笑みで俺のことをバカにしに来たんですか?」
そう、彼女は自由を謳歌していた。
敵意すら感じられる義弟ロバートの視線を浴びるまでは……
「ロバート……どうした……の? ジェシカ様なんて他人行儀な言い方して。いつもは『姉さん』って呼んでるのに……」
二人は義理の関係とはいえ、仲の良い姉弟であった。
王太子妃になるため努力する姉と、侯爵になるため勉学に励む弟。
進む道は違えども、互いに互いの努力する姿勢を尊重し、良い関係を築いていたと思っていた、義弟の冷たい視線に驚きつつも、様子を覗えば何やら荷造りを行っているようだ。
「何よその荷物。どこか旅行でも行くの?」
「旅行……まあ旅と言えばそうですかね。もうここに戻ってくることのない、片道切符の旅ですがね」
義姉と目を合わせることもなく、淡々と語る義弟の口ぶりに、普段とは違う何かを感じたジェシカ。
「ちょっと……片道切符ってどういうことよ」
「どういうことも何も、侯爵様との養子縁組の解消を申し出ましたので、邸を出ていくのですよ」
突然の告白に、何よそれ聞いてないと慌てふためくジェシカであるが、ロバートは何を今更といった感じで、動揺する義姉の様子に気を止める素振りもなく、ただ事実のみを明確に伝える。
「この家の継承権はジェシカ様に戻ったのです。なれば、私が侯爵家に居る必要が無くなった。ただそれだけですよ」
ジェシカは侯爵の唯一の子であったが、王命で王太子と婚約を結んでいたため、遠縁である伯爵家の三男だったロバートが後継者として、養子入りしていた。
「すでに私は侯爵家の人間ではなく、元の伯爵家の三男です。ジェシカ様を姉様と呼ぶことは出来ません」
しかし婚約は解消したことで、侯爵家の継承権はジェシカの手に戻ったので、ロバートはこの家を出ていくと言う。
「王太子殿下……ああ、すでに廃嫡されて子爵様になられたんでしたっけ? あの方が馬鹿なおかげで、全ては冤罪と証明され、婚約は解消。改めてジェシカ様は侯爵家の継嗣に戻られた。違いますか?」
ロバートが事実を再確認するようになぞるその声は、好意的な感情を一切感じさせない、冷たく沈んだ声色である。
「だって……仕方ないじゃない……ああでもしなければ、私が無実の罪を着せられたのよ」
「ジェシカ様、勘違いしないでください。婚約解消となったことを責めるつもりは毛頭ありません。あのような頭ユルユル男に嫁がされることについては、私も思うところがありましたので」
だが、事情はどうにせよ、王太子の婚約者でなくなった以上、ジェシカが侯爵家を継ぐことになる。そうなれば自分は不要なので、出ていくのは自明の理であると、改めてロバートが言う。
「待ってよ。何も出ていかなくたって……ロバートがそのまま跡を継げばいいじゃない。私は修道院行きでも平民に下っても構わないのよ」
「馬鹿を言わないでください。今回の婚約解消、ジェシカ様には全く瑕疵が無いのです。私が跡を継いで、正当な後継者にそのような処遇をすれば、侯爵家が周囲に何と言われるかくらい、想像がつくでしょう」
ロバートの発言は正論である。
ジェシカの婚約解消は、傍目にはイレギュラーなのだから、ロバートを後継者のままとするのも、やり方次第ではどうにでも出来るところではあるが、少なからず揉めるのは目に見えているし、何より彼本人がそれを望んでいないのだ。
「ロバート様、ジェシカお嬢様をあまり責めないでください」
「エディー……お前いつから俺に指図出来る立場になったんだ……」
上手く言葉を伝えられないジェシカに代わって、エディーが宥めるが、ロバートは殺気混じりでこれを断ち切る。
ロバートと義姉の仲は良好であり、甲斐甲斐しく世話をする執事にも常に好意的であったが、初めて見せられる殺気に、ヒュッと息を呑むエディー。
「待ってロバート。エディーは私の指示に従っただけなの。彼は何も悪くないから、そんな目で見ないでちょうだい」
「ふう……美しい主従の信頼関係ですね。その信頼のわずかばかりでも俺に分けてくれれば、こんな感情を抱かずに済んだのですがね……」
そう言うと、ロバートは己の想いを吐露し始める。
曰く、なぜこうなる前に相談してくれなかったのだと。
「俺は言いましたよね。王太子との関係で悩みがあるなら、いつでも相談に乗るよって。大丈夫大丈夫って一度も話してくれなかったけど」
「それは……貴男に迷惑かけたくなかったから……」
「違いますよね。俺のことも疑っておられたんですよね?」
件の男爵令嬢は王太子のみならず、その側近達も籠絡していた。
ロバートも身分的に王太子に近い立場にいたので、当然のように彼女からのアプローチがあったが、彼は毅然とこれを突っぱね、王太子にも苦言を呈していた。
もっとも、その諫言を疎んじた王太子に程なく遠ざけられてしまったので、あまり抑止力にはならなかったが……
「俺が王太子に苦言を呈していたのは、何度も申し上げましたよね? 俺はジェシカ様の味方だと。でも貴女は俺が王太子とどこかで通じているのではないかと、真意を話してくれることは無かった……」
「そういうつもりじゃ無かったのよ……ホントに迷惑かけたくなかっただけで……」
「いや、十分迷惑かかってますよ。現にこうして、俺は侯爵家の跡取りではなくなったのですから」
ジェシカを責めるような発言に、先程はお嬢様のせいではないと言ったではありませんかとエディーが食ってかかる。
「俺のことはどうでもいい。養子なんて、いつ立場を追われたっておかしくない存在だからな。だが……シェリーにはどう申し開きするつもりだ」
ロバートが一人の女性の名を挙げると、ジェシカもエディーも「あっ!」と、思い出したかのように目を見開き、彼の言葉の真意に気づく。
「はぁ……婚約破棄にばかり気を取られて、ホントに思い至らなかったんですね。王国一のご令嬢が聞いて呆れますよ」
シェリーはロバートの婚約者で、伯爵家の令嬢。
侯爵家の女主人になるべく迎え入れる約束なので、跡継ぎではなくなるロバートとは、当然破談である。
「彼女もね、侯爵夫人になるために、それはもう努力していたんですよ。でもその道は断たれた。ねぇ? 婚約破棄出来て良かったですね。義妹になるはずだった女性の未来を潰して楽しいですか?」
侮蔑の視線を二人に向けながら、ロバートはありったけの嫌味をぶつけていく。
「ロバート様! いくらなんでもそんな言い方はあんまりです!」
「黙れよクソが。テメェさっきからしゃしゃり出てきて何様だ? もう女侯爵の配偶者気取りか?」
言外にジェシカとデキていると罵られ、憤慨するエディーであるが、ロバートはそれに臆することなく言葉を続ける。
「別にお前が誰と結婚しようと、俺にはどうでもいい話だ。だが……あの婚約破棄のやり方が、ホントに正しかったか考えたのか? 侯爵閣下にも、俺にも、家人の誰にも言わず秘密裏に進めて、後始末がどうなるか考えなかったのか!」
婚約を継続できないほど、王太子に瑕疵がある証拠が揃っているならば、なぜ侯爵に申し上げて、正規のルートで婚約解消を申し出なかったのか。
事前に話をしてくれれば、俺もシェリーも心の準備が出来たし、シェリーの生家にも話を通しておいたのに、なぜ言わなかったのか。
相談さえあれば、シェリーや彼女の両親と、先々のことを示し合わせることも出来たのに、突然の出来事に否応なく破談という結果になったこと、シェリーの努力が無に帰してしまったことに、ロバートの怒りは集約されていた。
「アンタ達の身勝手で、周りが大迷惑しているのに何故気づかない! それだけの才と知性を持っていながら、何故他人の気持ちを考えなかった!」
思いの丈を全てぶつけ、もうこれ以上話すことはないと、荷物をまとめたケースを一つ持って、ロバートが邸を立ち去ろうとする。
その荷物は侯爵令息として暮らした男にしてはあまりにも量が少ないが、元は侯爵家の金で買ったものばかりだから、必要最低限の衣類や身の回りの物以外は置いていくというのだ。
「待ってよロバート……ここを出ていって、どこへ行くと言うのよ……」
「行き先は特に決めてはいませんが、少なくとも国外には行こうと思います」
あてなど無いが、侯爵家で学んだ知識があれば、どこかで役場の職員でもやって食いつなぐことくらいはできるでしょうと語るロバート。
「そんな……だったら、わざわざ出ていかなくたって、この家で働けばいいじゃない。貴男なら相応の地位に就けるだけの実力があるもの」
「無理です」
ジェシカの哀願は明確に拒否される。
「俺のジェシカ様に対する信頼はゼロ、いやマイナスです。いつまた俺の知らないうちに話が進められるかと考えたら、貴女を主として仕えるなど有り得ない」
ましてや王都であろうと、侯爵領であろうと、自分を知る者が大勢いる。
事情を知らぬ者には、跡継ぎの座を追い出された無能者と嘲られ、事情を知る者には、不遇の青年と憐れみの目を向けられるのは確実。
ロバートはそれほどプライドの高い男ではないが、己の好むと好まざるとにかかわらず、好奇の目を向けられるのは、到底受け入れられないと即答する。
「ではジェシカ様、長い間お世話になりました。もう二度と会うことも無いでしょうが、お元気で」
ジェシカ達の反応を気にすることもなく、ロバートは一礼をして二人の前から立ち去っていく。
「待ってよロバート……行かないでよ……私が悪かったから……謝るから戻ってきてよ……」
ジェシカの悔恨は、届いて欲しい人の耳にもう届くことはなかった。
お読みいただきありがとうございました。
義姉が婚約破棄されて、義弟に「じゃあ僕と結婚しよ」みたいな展開に、「ん? 義弟だってそれなりの地位なんだから、婚約者いるんじゃね?」と思い、だったらどうなるかと考えて書きました。
(決してそういう展開を否定する意図はありません。むしろ好きなジャンルです)