92 天使と悪魔
黒馬が消えると同時に、天上の星も光をゆっくりフェードアウトさせた。
宵の天蓋に灯りが灯るように満天の星空が還ってくる。
ピシピシ――
ギギギ――
罅が入り、軋むような音。
その音は天輪と大翼から鳴っていた。
更には、舞い落ちる羽の量も多量に増え始めた。
そして遂に。
カシャーーンッ
甲高く弾ける音。
ガラスや陶器が割れたような激しく、騒がしい音を響かせ、崩壊を始めた。
天輪は罅割れが広がり、元々支えもなかったのだが、崩壊と同時に摂理に従って重力に従ってゆっくりと落ちていく。
大翼も同様に罅をきっかけに細かく弾け割れていく。
真珠のような色合いと煌きを持ってはいたが、それでも柔らかな羽毛に覆われた大翼に見えていた。しかし、今はガラス細工のように無機物な崩壊を見せている。
そして、天輪も大翼も、ゆっくりと落ちていくのだが、その破片は落ちる最中、見る見る小さくなり、黄金色の粒子となって消えてしまう。
「ヒメっ!!」
「「「「「姫様」」」」」
さらに、崩壊はそんな目に見えるものだけではなかった。
小さな身体が揺れ、糸が切れたようにバランスを崩した。
力なく、前から倒れこむようにフィリアは、頭から落下して――――
ふわりと香る柔らかな青葉の匂いに、優しく包まれた。
心安らぐ暖かさ。慣れ親しんだ感覚と温もり。
「フィー。大丈夫か?」
その声も、耳慣れたものな筈なのに、何故だか今は縋りたくなるような想いを抱かせる。
「・・えへへ。・・りあ、なしでの『星を謳う者』は、やっぱり、たいへんでした」
力なく笑うフィリアの顔色はとてもいいものではなかった。
だが悲哀を抱くようなものでもない。
「急激に大きな魔力を動かしたせいで身体がびっくりしたのだろうな。・・一人でよく頑張ったな」
確実に、魔術一つだけの疲弊では無いだろうに、そこはスルーのようだ。
優しく愛おしげに抱き抱えるゼウスに、フィリアは素直に身体を預けた。
正直、頭を動かすのさえ億劫なほどに体が怠い。
「・・全く。フィリアちゃんだけで良かったのに。どうしてわざわざ貴方まで浮かせなきゃならないのよ」
そう呟く、グレースは透き通った水晶の枝を二人に向け構えたまま、呆れた息を漏らしていた。
「フフ。何を言ってんだ。ここで颯爽と現れてこそ、かっこいいんだろうが。私はフィーに惚れ直してもらいたいんだ!」
――そもそも惚れてませんけどねぇ
フィリアは心の内で訂正するも、声には出さず、反応すらしない。
話すのも億劫なのもそうだが、それ以前に血縁者内に愛情表現のツッコミを入れたところで、暖簾に腕押しだと悟ってしまっているからだ。
まぁ・・フィリア自身もその中の一人だというのに、何故だか自覚が薄い。
ゼウスは文字通り空中でフィリアを受け止めた。
フィリアにとっては慣れた感覚だし、周りの者たちも感覚的に麻痺しているが、本来宙に浮くのはフィリアの専売特許と言ってもいいほどに誰も扱えないものだ。
理論も原理も何もわからない事象は魔術で再現はできない。
故にこれは魔法。グレースによる、奇跡の一つ。
しかし、そんなグレースも自身の体だけを浮かすことはできない。
魔法はイメージ。その為、どうしてもイメージしづらく、安定性に欠ける。だからこそ、目視できる対象のみにしか扱えない。
グレース自身が空から降りてきた時も、彼女は大きな鎌に腰掛けていた。それは彼女自身ではなく鎌の方に魔法をかけていた為。
つまり何が言いたいのかというと。
すっごく規格外の事であるという事。
皆が安堵の息を漏らしているが、慣れすぎて感覚がおかしい。
確かに。
都市伝説にすらなるような秘密施設。精霊信仰が主のこの土地で神にも等しい大精霊様。初めてで魔導王の十八番である結界魔術の成功。神秘に溢れた天使降臨。黄金の花紋の具現化。これまで見た事のないような『星を謳う者』の演出。
何をとっても、異常。
だが、そのぶっ飛んだ規格外が今尚続いているというのに・・。
人の慣れは怖い・・。いや、この場合、悪いのはフィリアの普段の素行か・・。
だが、それは日頃のフィリアを知っていてこその慣れである。
普段のそれを知らぬならそこに安堵は生まれない。
グレースの浮遊もそうだが、最も驚くのは何気ないように行われたフィリアの浮遊。
誘われるよう、地面に落ちるミミを掬い止めたフィリアの浮遊。
それは、普段のフィリアにしてみれば何ら珍しくない、寧ろ普段の方が目を引くようなこと。
しかし。無詠唱。優しく抱きとめる繊細な魔力操作。咄嗟に行える程の練度。
息をするように。己が身体の一部のように。自然で流れるようなその一連。
それは、本来なら他の事象を凌ぐ程に驚くべき事である。
だからこそ、フィリアの普段の素行に慣れていない者と慣れた者の反応は顕著だった。
取り分け、スチュアートなどは目を見開いてはいたが、執事というプロ意識のおかげで過度な反応はどうにか取り繕えてはいたし、グレースも驚きはしても、ここ数日で毒され・・耐性が幾分か出来ていた。
フィリアを抱き抱えたゼウスはゆっくりと高度を下げ、静かに地面に下ろされた。
繊細な手腕は、グレースの実力を一端でも垣間見せた。
「・・それにしても、ミミだけではなく、他の者たちも影響があったとは・・」
「・・はい。私たちも、驚いております。・・恐らくほとんど影響がない程度のものではあったでしょうが、これまで同様、無自覚であったならば、どうなっていたかわかりません」
フィリアの放った『妖精の恋人』。
その効果はミミだけではなく、その場にいた者全てにあった。
意識を失う程に深い精神汚染にあっていたミミほどではないにしろ、皆、一概に。
それも、フィリアの側近は特に色濃く。
逆にゼウスたちにはほとんどそれが無かった。
「・・恐らくだが、長くこの城に居る者ほどその影響が大きかったのではないか?私やフィーは体質上、精神に影響がないに等しいが、マリアたちに比べスチュアートの影響がほとんど皆無なのは、スチュアートがほとんど王城に詰め、こちらに帰って来るのが稀だった為じゃないか?」
「その原因はゼウス様ですが?」
全ての仕事を押し付けてゼウスは甥姪の元に入り浸る。
レオンハートのお家芸『逃亡』である。
そして、なれば、そこに割が食う者がいるのも必至。
スチュアートの声はわかりやすく底冷えたものだった。
「・・・グ、グレースの影響が薄いのも、最近こちらに来たばかりだからだろう」
「それも、ゼウスのせいだけどね?」
世界中を漫遊していた婚約者を追い、各地を転々としていたグレース。
これはレオンハートの質ではない。ゼウス個人の悪癖だ。
ゼウスに最も振り回された者。
グレースの声は明るく穏やかなものであるが故に、余計に怖い。
二人からの視線を背に浴びるゼウスの冷や汗は止まらない。
どうにか、このあと逃亡を・・と企ててはいるが、恐らくは叶わぬだろう。
ガキャーーン
唐突に響いた甲高い金属音。
億劫そうに視線だけを振り向かせたゼウスのすぐ背後に鋭い刀身があった。
だが、その剣は阻まれ、カタカタと音を鳴らすのみでそれ以上届くことはない。
「アンネ・・っ」
「二度も許すと思ったの?・・舐めすぎじゃない?」
ゼウスの背後に向かう刃。それを受け止めたのは小柄で、愛らしい容姿のアンネ。
庇護欲をそそられる様な容姿で人気も高い彼女だが、その実、彼女程守られる必要がない女性も珍しい。
ゼウスとグレースの愛弟子。史上最年少で魔導師と認められ、自陣営からも戦闘狂と呼ばれる。
近衛最強の騎士。
微笑みを蓄えた小花のような愛らしい様子とは裏腹に、どんなに力を込めようとその狂刃がその狂気を果たすことができない程に不動。
震えたように音を鳴らすのは狂刃ばかりで、アンネの剣は微動だにさえしない。
「事を急きすぎだな」
ゼウスは流し目のように冷たい視線を送った。
狂刃の正体はフィリアの近衛。キース。
目を剥き、歯を食いしばり。醜く歪んだ表情で剣を振るっていた。
だが、アンネに対して明らかに力負けている。込めすぎた力に腕がプルプルと震え、青筋も浮かんでいる。
アンネの方は、涼しい顔で、微笑みすら蓄えているのに・・。
「・・仕方ないだろう?こんな力技で術を解かれるなんて予想外すぎたからねぇ」
そう言ってキースは笑ってみせようとしたが、その口端は引きつったようになって、上手く笑えていない。
だからこそ、それを阻んだ原因であるアンネに向ける視線には一層忌々しさが増した。
それを受けたアンネは一層微笑んで小さく目礼を向けた。
「お久しぶりですね」
思わず愛好を崩したくなるような愛らしさ。
だが、その瞳にあるのは焦熱の敵意。灰すら残さぬ程の炎に焦れるような感覚を覚え、キースの額に汗が滲んでしまう。
彼女は、確実に『正体』に気づいている。
その事実に余計、忌々しさがますが、微動だにさえしない鍔迫り合いに引き攣る笑みが余計引き攣るばかりだった。
「十年ぶりですか・・『肆ノ葉』」
「・・嫌だねぇ。アンヌと呼んでくれと言ったじゃないか。それかお揃いでアンでもいいんだよぉ?」
「前にもお断りしたはずですよ。・・それに、今ではその呼び名は特別なものとなりましたので、貴方のような『悪魔』風情に対して呼びかけることなど決してありえませんから」
レオンハートの血族と認められたナンシー、その母の名となれば特別なもの。
ましてやゼウロスの妻。今ではゼウロスへ対する遺恨など残っている者が皆無の中、そこにあるのは敬意。なればその妻にも同等の敬意を向けられる。
例え、妖精であっても。
故にレオンハートに刃を向けるような存在に、その名を使うなどありえなかった。
「あくま?」
そこに無垢な声が挟まった。
重い瞼が半分落ちた、眠たげな幼女。
声も呟いたように小さく、聞き逃しそうなほど弱々しいもの。だが、そこにある好奇心だけは普段通りの純粋なまでの感情。
思わず微笑んでしまいそうなほどに、和んだフィリアの様子。実際ゼウスはフィリアの頬に優しく触れ柔らかな表情となった。
「『悪魔』というのは、『堕ちた精霊』とも呼ばれる精霊の一種のことだよ」
あまりに穏やかなリズムに、キースは居心地の悪さを覚える。
だが、気にできるだけの余裕はない。少しでも気を抜けば目の前の一見愛らしい狂戦士によって一刀両断されてしまう。
「ようせいとは、ちがうのですか?」
「違うね。確かに妖精は精霊が堕落したものとも言われるけど、実際は『受肉した精霊』という解釈の方が近いね。そして、精霊とは現象や事象であって、生物じゃないんだ。だけど妖精は精神体ではあっても類分は生物に属するんだ」
側近の裏切り。ミミの時にも心痛な表情を見せた幼い主。
ミミ程の関係性は構築出来ていないとはわかっている。しかし、それにしてもあまりに無反応。
そして、穏やかなのはゼウスとフィリアだけじゃない。
普段なら焦った様子の側近たちも落ち着いた様子で傍観している。
唯一人。アンネに全てを託して。
「高位の精霊は姿形だけでなく自我をも持つんだが、そこには人間とは違う考えや常識があるんだ。精霊にとっては何でもない事が、人間にとって災厄となる事も少なくはない。人間と精霊の価値観の相違と言うだけだが、そんだけの理由で簡単には肯定出来ないのが現実。・・だから大きな災禍となった存在を畏怖から『悪魔』と呼んでいるんだ。・・そもそも精霊には、善も悪もないのだけど、そんな事で恨まずにいられるほど人間は高尚ではないからね」
普段なら見慣れた講義だが、今はすぐ後ろで剣が火花を散らすように交わっている。
あまりに不自然で、おかしな状況。
「・・そんなに落ち着かれちゃ、いささか侵害なんだけど」
不敵に笑ってはいるが、その内には確かな焦りや憤りが多分に孕んでいた。
「・・姫様の『星』が暴いた幻夢はミミだけじゃなく、私たち全員に纏わりついていた。と言う事実には流石に驚きましたよ。・・貴方もそのせいで『憑依』が不安定になって焦ったからこその凶行でしょう?」
「そうだねぇ。こんな力技で術が剥がされるなんて、焦っても仕方ないだろう?・・でも、そこじゃないんだけどねぇ。・・信頼の側近たる近衛騎士が主に剣を向けたんだよ?もっと何かあるんじゃない?」
それに対しアンネから返って来たのはクスリとした小さな嘲笑。
疑問を投げかけたキースだったが、その答えは明確。本人もそれに気づきながら、軽口のように口にしただけ。
この状況。近衛騎士が剣を抜くことさえ想定内だったのだろう。
その上『憑依』という言葉にさえ反応が薄い。フィリアは反応を僅かにも見せたが、それはキースという存在に対しての疑問ではなく『悪魔』という新たな好奇心に向けたもの。
全てが想定内。
つまりは――
「僕は、嵌められたのかねぇ・・いつからだい?」
「そもそもの話。これまで全く干渉出来なかったのに、急に『憑依』なんてこと出来たこと自体おかしいと思わなかったんですか?ミミ一人に対しても毒を盛って時間をかけて、それでも完全に操れず、誘導するぐらいしか出来なかったのに。近衛の騎士を乗っ取れるなんて、あり得ると?『悪魔』とは狡猾であると言われているのに貴方は随分と短慮ですね」
キースは身体の感覚を冷めたように意識した。
「・・じゃぁ、この身体は」
「キースは元々、魔術師志望だったんですよ。専攻は『降霊術』で実力も中々のものですよ。・・まぁ、この土地では残念ながら実力不足ではありましたが、それでも魔術師の基準はみたしていたんです。だけど、魔術師で燻るよりも、得意の『降霊術』を駆使して騎士になったほうが色々と可能性があったという事で騎士になったんですよ。事実、キースは近衛騎士にまで出世しましたしね。・・つまりは、『降霊術』の使い手であるキースは『憑依』にもなれているので、精神耐性や魔力耐性が高いだけの他の者たちよりも、難易度は格段に高いんですよ。――キース自信が意図的に招かない限りは、ね」
「そういう事です。・・なっ!?」
キースの口が勝手に喋り、それに驚きの声を上げ、張りぼての笑みさえ消えてしまった。
「キース。姫様たちに危害を加えそうでしたよ」
「すみません。流石に『悪魔』ともなると『微精霊』などとは格が違うので、手間取ってしまいました。・・姫様、ゼウス様。ご迷惑をおかけしました」
アンネは苦言を呈するが、その表情は拗ねた子供のようで、余裕しかない。
ゼウスも微笑んでキースに頷くのみで、特に咎めるつもりはないようだ。
だが――
「――どくを、もった?」
地を這うような、低く、ドスが効いた、しかし幼い声。
背筋が凍り、空気が一気に重力を増したかのような恐怖。
キンッ
「くっ!?」
金属とも違う甲高い耳鳴りが響いた瞬間。
キースの首筋にチクリとした痛みが走った。
反射的に飛び退くように後ろへと距離をとったキース。
アンネとの鍔迫り合いによる牽制など些事でしかない程の死の予感。
距離を置くことで出来る隙よりも、その場に留まる恐怖の方が勝った。
離れても襲う動悸と緊張。
首筋を伝う血。
先程まで自身がいた場所には、先端が鋭利に尖った翡翠の一塊が浮かんでいた。
「あなたが?わたくしのみみに?」
蒼く揺らめく瞳。怒りか魔力か、立ち上る陽炎。
それに何より、息苦しい程の威圧感。
「お前はそれでも『精霊』か?・・ティアの名を持つこの子を甘く見過ぎだぞ」
ゼウスのその言葉にキース、いや。悪魔は、今度こそ目を見開いて声を失った。
距離を取った故に、より正確に『見えて』しまった。
トートの大樹のような魔力。
だがそれを飲み込んでしまいそうな程の大瀑布――否。全てを認識出来ないほどの魔力。
その中心に居るのは――フィリア。
『星屑』
一瞬の光と共にフィリアの周囲に現れた無数の宝具。剣、槍、斧・・。
乳白、紅蓮、瑠璃などの宝石で創られた煌く宝石星。
首筋を傷つけた翡翠の一塊も再構築されるように翡翠の砂塵を纏いながらその姿をひと振りの細剣に変えていった。
そしてそれらはフィリアの周囲に浮かび、真っ直ぐと悪魔に切っ先を向けた。




