87 黒の本
先程までの厚い雲が嘘のように晴れ、雲一つない空。
高い陽が、少し早い夏の暑さを感じさせ、少し汗ばんでしまう程に照らす。
フィリアが普段使う演習場とは違う、訓練場。
造りもそうだが、そこに施された術式も、比べ物にならないほど手の込んだもの。
ここは、たとえ戦術級や殲滅級といった大規模魔術でさえ耐えられる耐久を持つ、世界一堅牢な魔術実験場。
あらゆる研究機関や魔術師、軍事関係、などあらゆる国家機関が喉から手が出るほどに欲しがる施設。
魔術の最、レオンハートの粋が詰め込まれた世界最強最高唯一の魔導特化施設。
しかしこの場所は秘匿こそされていないものの、公開もされていない。
都市伝説のように扱われる程度には一般ではない。
「おじさま。ここは?」
「フィーは初めてか。ここはレオンハート専用の魔術試験場だよ」
世界一を自他ともに認められる程に魔術に精通するレオンハート。
彼らが生み出す魔術は常に世界に変化をもたらしてきた。故にその内容は過敏なまでの精査を経て世間に公開する。
もちろんそれは、数多の検証があってのものだが、その段階を人目に曝すことは出来ない。
更には、実証実験を終えた魔術も数多あるが、それも未だ公開されているものは一部のみ。
その理由は簡単。世界への影響が大きすぎるからだ。その為、機会を伺っている魔術も多くある。
レオンハートは魔術の頂きにあるが、それはただその最先端を走るだけではなく。
魔力関連の統率と制御も行う必要がある。
そうでなければ、大きな変化は、様々な破滅を生んでしまう。だからこそ出来るだけ穏やかに衝撃を最小限に抑えるよう、過ぎた魔術の管理を行う。
当然、その為には、禁忌と言われるものにも精通していなければならない。
全ての『魔導』を、知っていてこそその管理が可能となる。
使うか使わないかは別にしても、統べらくこの世にある魔術に知らぬことは許されない。
それこそが『魔導王』とも呼ばれるレオンハートの、『世界』からの責務だ。
そして、当然そのほとんどは人目に触れる事はおろか、日の目を見ることもないものがほとんどで、知ることさえも極刑となるものも少なくない。
だからこそ、レオンハートは罪に問われることがない。
知ることさえも罪であるため、何が罪なのか悟らせないため、全ての罪が放免。
それはルネージュだけではなく、この世界の何処であっても関係なく。
それを『闇』だとも、逆に『秩序』だとも言われるだろう。
しかし、それを放棄することも、レオンハート以外が担う事も出来ないのだ。
そしてそんな、決して表に出ない世界の裏側。
その、深部たるブラックボックス。それこそがこの施設。
レオンハート私用の実験場とは言うが、世界の全てを握るようなこの施設は、国単位では御しきれない程の世界最重要施設の一つで、各国でもごく限られた立場の人間にしか知ることの許されないトップシークレット。
通称『心臓』。
公に出来ない魔術の最を封じ込んだ、パンドラの箱だ。
「マリアでさえもここの事は知らなかった筈」
ゼウスの言葉に、フィリアはマリアを振り返った。
マリアは息を呑んだように頷きを返した。ここまで緊張した様子のマリアを見るのは初めてだ。
「・・噂程度では聞き及んでおりましたが、実際に実在していたとは・・・」
「この場所を知らされるのは、レオンハート以外は限られた人間のみ。だから、五感を奪わせてもらったんだ」
ゼウスの書斎。そこでゼウスに移動すると告げられた。
だが、そこでゼウスはフィリア以外に魔術をかけた。
一応了承を得たあとではあったが、全ての五感を奪われた皆は、立っていることさえできないほどだった。不安や恐怖は大きかっただろう。
この場所を知られないため。そうゼウスは言った。
視覚のみならず、全ての感覚を奪うことから、それほどまでに重要な施設なのがわかる。
だが、侍女や近衛であるマリアたちはともかく、グレースにさえそれをかけたのだ。
本当に、ここはレオンハート以外を受け入れない場所なのだろう。
「マリアはリリアさんの側近だったが、それでは足りなかった。ここはレオンハートのみに開かれた秘所だ。その存在は、配偶者と側近にだけは知らされるが、それはあくまでレオンハートとの直接的な関係性でだ。レオンハートの嫁の側近では関係性が足りなかったんだ」
「では、リリア様は知っていらっしゃるのですね」
「あぁ。だが、それでも君たちと同じで、存在のみ。何処にあるかとか道筋はもちろん、この場所にどんな秘密があるのかも知らない。君たちも、余計なことはしないでくれ。この場所にあるのは秘匿物ばかりだ、知ることはもちろん、触れるだけ、察するだけでも、命がないと思ってくれ」
その言葉に再び息を呑む。
それも皆同時に呑んだため、大きく響くほどに。
「それも、機密性が高いため、君ら個人の命だけではなく、漏洩の可能性が僅かにでもあるものは、例え、一度挨拶を交わしただけの者でも容赦なく消される。・・当然ながら、君らの親類や友人は、ひとり残らず、消されるだろう。・・だから気を付けない」
気を付けるなどと軽い言葉で忠告される程度の話ではないが、そのせいで余計に生々しい恐怖がその場の面々を襲った。
「おじさま・・。こわいです」
震える小さなお姫様は、庇護欲をそそられる雰囲気をしていて。
ゼウスは耐え切れずフィリアを強く抱きしめた。
「フィー安心しなさい。フィーの家族が居なくなることはないからね」
・・そりゃぁ。レオンハートだもの・・。
執行対象ではなく、執行する側だもの・・。
これが、ボケではなく真剣な返しなのだから怖い。
ザ・レオンハートの家族愛。
暖かく、非情な愛。
だからこそ。そんなゼウスだからこそ、全力で頭をどつかれる。
「っ!?痛っ!!なんだよ!?」
「別に」
グレースよ。気持ちはすごくわかる。
その苛立ちも正しい。
ましてや、これから結婚式を控えた花嫁なのだから、この鈍い旦那の頭をどつくくらい正当だ。
寧ろ愛想を尽かされないだけ、感謝して欲しいくらいだ。
・・それにしてもグレースは、こんな男の何がそんなにいいのか。
本当にこんな男と添い遂げていいのか・・。後悔はしないか?
そんな納得いかない顔で睨んでも、ゼウスに正義はない。
「・・とにかく、ここはレオンハートの人間なら自由に使っていい場所だからフィーも、いつでも使いなさい。ただ、その際には決して他の者に知られないようにね。側近や伴侶がこの事を知っていて許されるのは、心配をかけない為というだけで、場所さえも教えられないから、その事も心得ておくように」
「はい。・・ですが、おじさま。なぜ、いま、ここに?」
この家のトップシークレット。
話を聞けば、この場には本来なら、レオンハート以外の立ち入りさえ歓迎されないように感じる。
それなのに、この場にはフィリアの側近が全員集合している。
グレースはレオンの妻になる人物だが、それでも、まだ戸籍上は違う。
それなのにこのタイミングなのは・・。
「それと・・てぃーは、いいのですか?」
「・・・・あ」
『あ』ってなんだ。『あ』って。
どこまでも抜けている一族。
世界のブラックボックスたる極秘事項を託していて本当に大丈夫なのか。
アンヌの影から顔を覗かせるティーファは、何のことか理解できていなようで首をかしげている。
後でフィリアを含めた全員から懇切丁寧に噛み砕いた説明をしてもらおう。
事は命に関わるのだ。ゼウスのうっかりでこんな可愛い命を散らしてしまうわけにはいかない。
「ティーファはあれだ・・あれ。フィリアの親友なのだろう?なら側近も同義だ」
そんな訳なかろう。
親友と側近がイコールなわけがなかろう。
伴侶でさえ存在しか知らされないような情報だとさっき自分で言っていたではないか・・。
唯一の救いは、ゼウスの様子からティーファの粛清は無さそうだということだろう。
ゼウスのせいでそんな事にでもなったら、あまりに不憫で報われない。
その場の冷めた視線を一身に浴びるゼウスは冷や汗が止まらない。
「テーファさんなら大丈夫でしょう。本来ならば偶然や事故であったとしても、関係ないですが、ティーファさんはトリー家のご息女ですので、特例的に許されるのではないでしょうか。ティーファ様の御父様という前例もございますし」
「さすがは、スチュアート!!」
気配すら消したようにゼウスの傍に控えていた男。
軍服を着てはいるが、その線は細く、軍人というより事務官のような男。
この施設に来る際にも着いてきて、フィリアは「誰だろう」と思っていた。
生まれてこの方、見たことのない男。
「さすが!じゃないでしょうが。・・スチュアートさん、すいません」
「いえ、いつもの事ですので。それに前例があるとは言え、ゼウス様が頭を下げるのは変わりませんので」
「え?」
「なんですか。その、「どうして」と言いたげな顔は。当然でしょう。前例はありますが、それとこれとは別問題ですよ。姫様の親友で、その上こんな幼い少女の命を危ぶめたのですから、謝罪と懇願は必須でしょう。・・まったく、トリー家の方でなければ、最悪の事態になっていたのですよ?心から反省してください。猛省してください」
一切の表情を変えることなく。
声色も一定で、感情が見えない。
だが、何故だろうなんとなく伝わる。
すごく既視感のある光景。
「ところで、おじさま。そのかたは、どなたですか?」
「え!?ゼウス、紹介もまだなの?」
「あ」
今度は問答無用でグレースの鉄拳がゼウスの鳩尾にめり込んだ。
声も上げれずその場に蹲るゼウスだが、二度目の「あ」にかける情はない。
下位の者は上位の者に対し、自発的に自己紹介をすることは失礼に当たる。
昨今では形骸化されつつあるような古いしきたりではあるが、社交界に生きる以上、弁えるべきマナーである。
ましてやレオンハートは大公の名を頂く、この国最上位の家格。弁えて然るべくだ。
そして、その場合、その上位者との仲介者が必要なのだ。
二人の間に立ち、下位の者を紹介する。それで初めて、相手に自己紹介することが許される。
その際に、決して、上位者が訪ねてはならない。
それは、はしたない行為であり。仲介者に対しても「役立たず」とレッテルを貼ったのと同じだ。
フィリアもまた、マーリンという教育者と、マリアという教育ママによってその辺に抜かりはない。
だが、この状況では、それを待てるわけないだろう。
今回ばかりは、フィリアが正しい。ゼウスの不手際でしかない。
「フィリアちゃんごめんね。本当ならゼウス叔父さんがちゃんと紹介すのが普通なのだけど、私から紹介させてもらうわね。彼は、ゼウス専属の執事で、ルネージュ王国魔導元帥補佐のスチュアートよ」
「奥様、ありがとうございます。・・姫様、ご紹介に預かりました。ゼウス様付きの侍従、スチュアート・ランツェルでございます。・・我が主人の、不手際。伏してお詫び申し上げます」
「よろしくおねがいいたします。わたくしは、ふぃりあです」
思わず背筋が伸びるような儀礼に、フィリアもカテーシーを返した。
流れるようで拙さのない、洗練された所作。
マーリンの指導はまさに完璧。
「姫様はもう立派なレディですね。所作もさる事ながら、先程の対応も、限界まで我が不遜の主を待っていただきありがとうございます」
「いえ、そんな・・」
謙遜まで子供とは思えない対応。
だが、スチュアートとしては、フィリアの大人びた対応よりも、こんな幼子さえ出来るマナーさえ足りてない我が主が情けなくて仕方ない。
その上、己が姪にまで気を使ってもらうなど情けない、と無表情の中でも、鳩尾を押さえ蹲るゼウスに向ける視線は一層感情を排した冷たいものになってしまう。
レオンハートには各自に一人は傍にいる、良心。
フィリアのマリア。ジキルドのリチャード。
そして、ゼウスのそれがスチュアートである。
「それで、さっきのしつもんなのですが・・」
その時ゼウスはグレースとスチュアートから足蹴にされた。
妻と侍従。最も信頼を置く二人から足蹴にされたゼウスにフィリアは言葉を失った。
雑な主人の扱い。だが、誰もそれを咎めなどしない。
盗み見る先、マリアの表情は一つも変わらない。
フィリアは気をつけようと心に誓った・・。
「ほら、フィリアちゃんに聞かれているんだから答えなさいよ」
「そうですよ。ゼウス様。早く答えて差し上げてください」
恨み言を噤み、顰めっ面で飲み込んだゼウスは、目だけで不満を訴えた後、フィリアに向き合った。
そして視線を向ける先、そこにはゼウス以上に不満を訴える目で拘束されたミミがいる。
手足の自由だけではなく口さえも自由のない状態で連行されてきたミミ。
フィリアたちもまた、ゼウスの視線を追って、ミミへ視線が集まった。




