86 檻の中の兄
今にも突き破りそうな勢いで、暴風が激しく窓を叩いた。
「始まったか・・」
「・・やっぱり、こうなっちゃうか」
二人は淡々とした声色で呟くと、カップを傾けた。
静かな一室。そこに茶器の擦れる音だけが響き、不思議と騒がしい窓の音は耳を掠めはしない。
ただ、先程まで窓から注がれていた陽光が陰り、部屋が薄暗くなった。
「・・はぁ。それにしても、このお茶、本当美味しいわぁ」
「だな。・・しかし、フィーが作っていたのは『緑茶』だったのか」
「あら?ジウは知っているの?」
「ん?グース。お前も知っているだろう?」
二人きりの一室。そこで寛ぐゼウスとグレース。
人前では、決して呼び合わない互いの愛称だが、二人だけになれば自然と呼び合う姿は微笑ましい程に仲睦まじい。
「皇国で飲んだじゃないか」
「皇国?・・あ。薬草茶!・・でも、全然違わない?」
「あぁ、そっか。グースはあの時、後学のためにと薬草茶を飲んでいたな。でも、皇国の茶と言えば寧ろこっちだぞ?」
「・・へぇ。そうなんだ」
「まぁ、皇国でも高価な贅沢品だし、こっちみたいに普段から飲むものじゃないらしいからな。だったら、手短に手に入る薬草茶の方が馴染みあるだろうけどな」
「ふーん。皇国には誰かさんのせいで二、三日しか滞在できなかったし、知らなかったわ」
「・・・・」
逃亡と追いかけっこ。壮大なのに、なんとも小さな理由で行われた世界紀行。
その、嫌味は何よりもゼウスに刺さるのだろう。
「・・フィーが茶葉造りで悩んでいるのは知っていたが、これならば力になれたのにな。申し訳ないことをしてしまった」
グレース言葉は流されたが、あまりに不自然な流し方。
目を逸らすゼウスをジトリと見つめるグレースだったが、呆れた溜息だけでとりあえずは見逃してくれるようだ。
「協力していた商人さんも、結構やり手みたいだったけど、情報はなかったのかしら?」
「んー・・。皇国はあまり国交を開いていないからな。情報も口伝のものが真実のように伝えられるほどに少ないし。さっき言ったみたいに、皇国でお茶といえば緑茶だが、実際に馴染みがあるのは薬草茶だ。そして、情報の多くは庶民だろう?高価な緑茶を語れる程に飲み馴染んではいないだろうし、しょうがないさ」
「そうね。こっちじゃ未に御伽噺のような内容が信じられているものね。人類滅亡を企む国だの、化物が跋扈する土地だの。魔物が徘徊し、悪意に満ち、草木さえ生えない、荒廃し禍々しい国。・・そんなわけないのに」
「作物を育て、家畜を飼う。時には空を見上げては想いを馳せ、花を愛で微笑む。私らとなんにも変わらない人間の住む国なんだけどな」
緑茶を啜り、思いを馳せる二人は、結婚前なのに長年連れ添った夫婦のように落ち着いた空気を持っていた。
「私の旅行記にも、そこらへんの真実を書いてはいるのだけど・・」
「・・・あぁ」
「どっかの小説などとは比べようもないくらいに売れているのだけど。・・やっぱり何処か本の中の物語なのでしょうね。そう簡単には浸透してくれていないもの」
「・・・・・」
「あ。そう言えば知ってた?フィリアちゃんって私の本を愛読書にしているんだって」
ゼウスは目を閉じ緑茶を静かに味わうように沈黙したが、その表情と魔力は不機嫌を何一つ誤魔化せていない。
「キラキラとした瞳で、サインを強請る愛らしさったらなかったわ」
「私だって・・売れてないわけじゃないし・・」
「あぁそうね。小説は鳴かず飛ばずだけども、冒険譚の方は人気だものね」
拗ねたようなゼウスの表情。
それもそうだろう。ゼウスが本腰を入れているのは小説であって、冒険譚の方ではなかった。
「あれは・・ほとんど、体験談じゃないか・・。それは、なんかさぁ・・」
実体験が冒険譚と称される程の人生とは・・。
フィリアが最も似たのは叔父ではなかろうか・・・。
とにかく、ゼウスにとってはフィクションの物語こそが本命であり、冒険譚の方は仕方なしに書いているものだった。
なのに、世間で売れるのは、冒険譚ばかり。それもかなりのヒット作。
登場人物の名前や設定こそ弄ってはいるが、それがゼウスの自叙伝であることを知る者は多い。
それでも、冒険譚と称さずにはいられないほど、フィクションのような内容。
そりゃ、読者も夢中になるはずだ。
只々、ゼウスの不本意だけが余計に増すばかり。
そして、グレースはそんなゼウスの微妙な憐憫をわかっていてからかっている。
というより、意図して嫌味を口にしている。
これまでの恨み辛みの意趣返し。しばらくは甘んじて受けるしかないだろう。
「ところで・・。グース。・・もう、出してくれないかな?」
「え?嫌よ」
にべもなく撥ね付ける様な拒否。
二の句さえ継がせない。
さっきから穏やかな会話と、お茶を嗜んでいた二人。
グレースは、さすが大公家と言える豪奢で柔らかなソファーに身を沈めている。
だが、ゼウスは優雅にお茶をすする様子とは裏腹に、難い鉄板の上で正座している。
正確には鉄板の上ではなく、鉄檻の中。
もっと正確に言うならばただの鉄でもない。
「いや・・流石に、もう、体調も悪いし・・」
「大丈夫よ。ルシアンもいるし」
その、ルシアンはゼウスではなくグレースのそばにいる。
グレースに頭を撫でられ、気持ちよさそうに目を細め、グレースの太ももに擦り寄るように頭を乗せる。
当然、ゼウスからは恨めしい視線が送られるが、ルシアンはなに食わぬ顔。
最早、主人が誰なのかわからない。
そして、ルシアンがこれだけ落ち着き払っているのだ。ゼウスに異常があるはずがない。
何故なら体調を崩すとしたらその原因は、その檻にあるのだから。
「それに、そこから出したら逃げるじゃない。だから、式まではそのままよ。お義母様からも決して逃がさないよう言付かってるんだから、我慢して」
実の母すらゼウスの味方ではない。寧ろ推奨していた。
ゼウスの味方は、リーシャのみ。だが、叔父としてカッコつけたい愚か者はそこを頼る事が出来ない。
「だからって、これはやり過ぎじゃないか?・・・てかこれ何なんだよ。全然魔力動かないんだけど」
「あ。やっぱ魔術使おうとしたんだ。脱走?抜け出ようとした?それとも壊そうとした?」
「あ、いや」
「ま。無駄だけどね。その檻、私お手製の特別製だもの。魔術も魔法もその中じゃ絶対に使えないから。並みの魔拘束じゃレオンハートの人は壊しちゃうでしょ?だから、仕組みから見直したの。それに合わせて設計も材質も厳選したし。私の自信作よ」
フィリアなんかも似たような理屈を発揮したりもするが、それとは雲泥の差。
めちゃくちゃ有用。ちゃんと役に立つ。かなりの有意義。
少なくともレオンハートに仕える家人たちにとっては感涙物だろう。
「隕鉄8割の贅沢品よ」
「8!?そんな希少素材を!?」
「何よ。ジウだけには言われたくないんだけど」
最もだ。
希少素材の価値を全くわかっていないのは寧ろゼウスの方が我がふりを見たほうがいい。
しかし隕鉄。わからなくもない。
言うまでもなく宇宙からの飛来物はとても希少なもの。
それを大人一人軽く収容出来る程の大きさの檻に惜しみなく使っている。
だが、それも用途を考えれば理にかなってはいる。
隕鉄は特殊金属であり、普通に採掘される鉄とは似て非なるものだ。
その特性は特に魔力に関連するものでは顕著で有用。
加工しだいでは、魔力の伝導性が最高値を叩き出したり、真逆に魔力の絶縁体にもなったりするような、魔術師を生かすことも殺すこともできる金属なのだ。
フィリアの前世でも希少価値があったりはしたが、今世においてその価値と有用性は比べようもない程に隔絶している。
過去には一塊の隕鉄をめぐって国が争った歴史もあるほどに、価値があるそれを、グレースは無骨な檻へと加工した。
この大きさの檻に8割も使ったのであれば、いったい城がいくつ買えるだろう。もしかしたら、小さな国程度ならば買えるかも知れない。
しかし、それでも、この人間離れした一族を見れば、賞賛すら送れる程の成果だと納得させられてしまう。
それも私見などではなく、多くの共通認識として、『正しい使い方』だと広く理解を得られることだろう。
「・・でも、所詮は素人仕事だからかな。強度にまだ不安が残るのよ。魔力関連には絶対的な強さがあるけど、風化や衝撃に対しては普通の鉄格子と大差ないのよね。魔術無効だから、防腐や耐久の術式も組めないし・・あ、だからといって、力ずくじゃ多分無理だから。魔術じゃなく、魔力そのものの阻害だから、魔力循環からの身体強化なんかも出来ないもの」
しれっと格子を握り、力を込めたゼウスだが、釘を刺されたことで、希望も儚く散った。
「そう言えば、フィーは大丈夫なのか?」
「・・一応、チェンジリングの話は伝えたわ。・・ニコライさんの事も」
「そうか・・」
「思った以上に冷静なものだったわよ。寧ろお義父様の身体のほうが気にかかって落ち着きがないくらい」
「まぁ、フィーはニコと面識も薄かっただろうからな。・・というか、フィーだけじゃなくリーシャ以外ニコはあまり関わろうとしなかったしな」
ゼウス、マーリン、アークとは幼馴染でもあり、それなりに親しい仲だったが、子供たちの世代にはあまり関わりがなかったサーシス。
レオンハートへの深い忠誠は疑いようもなかった為、あまり気にも留めていなかった。
リーシャについては、妹の事もあって、気にかけているだけだと思っていた。
だが、それはあまりに悲しい裏切りとなり、傍観していた事を悔やむばかりだった。
「それにしても。何よりも家族を心配するのはレオンハートでは珍しくないし、自身の事よりもお義父様を気にかけるなんて優しい子だとも思うけど・・。あの冷静さはそれだけじゃなく達観したようにも見えて、とても幼子には見えなかったわ。その前に商人との商談を見ていたから余計にかもしれないけど」
普段は、子供より子供っぽいフィリアだが、それ故に、違和感も大きいのだろう。
ゼウスなどもう慣れすぎたのか、それとも自身の非常識さ故にか、「そうか?」などと首を傾げるのみだが、グレースにしてみれば長く付き合ってきたレオンハートの中でも更に異質に感じられる存在だった。
まぁ、それもこれもフィリアが普段から自重しない結果ではあるのだが。
「というか、今日のリーシャは大人しいな。ここ最近は思春期特有の反抗期だったのに」
「・・・そうね・・」
この男は・・。と、呆れた視線を送るグレースだが、昔からの付き合いだ。今に始まった事じゃない。自身もかつては、この鈍さにやきもきしたと、リーシャに同情心が沸く。
グレースの過剰なまでのストレートさは、ゼウスが原因だったのではないだろうか。
普段の彼女からは、世界の果てまで想い人を追いかけるような異常さは感じない。それどころか実に常識的な人物だ。レオンハートのそばにあっては余計に際立ってそう言える。
故にそんな彼女に異常行動をさせる元凶は、レオンハート。それも最も近しいゼウスにあるのは自明の理だろう。
「・・リーシャちゃんなら、『蒲公英の丘』に向かったわよ」
「・・・話したのか」
「フィリアちゃんが知ったのに、リーシャちゃんが知らないなんて、可哀想じゃない。言ってしまえばフィリアちゃんよりもリーシャちゃんほうが当事者なのに」
グレースがフィリアにチェンジリング、つまりはフィリアの身に起きていた一連の事件の事を語ると、そこにリーシャがやってきた。
最初は、いつもの如くグレースへのやっかみでの突撃を敢行しようとしたのだが、部屋の前で聞こえてきた話に、青ざめるように部屋に入ってきて、詳細を求めた。
グレースの話を聞き終えると、その顔色は一層悪くなり、涙を流しフィリアを抱きしめた。
何度も何度も『ごめんなさい』と唱える、姉の頭をフィリアは優しく撫で続けた、『大好き』だと伝えながら。
リーシャは最愛の妹を傷つけていた原因が間接的であっても、姉である自分にあったのだと知り、大きなショックを受けた。
家族愛の強いレオンハートだ。その事実は余計に身を裂くような想いを抱かせたろう。
一頻りフィリアの胸で泣いたあと、リーシャは『麗しの氷華』の顔となった。
子供じみたこれまでの態度とは異なり、改めてグレースへ深い礼を見せ、『蒲公英の丘』へと向かうことを決めた。
その際にフィリアも同行すると立候補したが、当然のことながら許しはでない。
いつものようにマリアからの一言で制止された。
だが問題なのはそこからだった。
フィリアが渋々とは言え、素直に従うなど恐ろしすぎる。
案の定。フィリアはリーシャへの餞別という名の助力を申し出た。
こそこそとした様子で、まだ、フィリアの非常識さを理解していないグレースは特に注視することなかった為、そこから先を知ることはない。
「しかし・・そういう事ならば、こちらもケリをつけようか」
「・・アークリフト君には、報せなくてもいいの?」
「あいつも気づいてはいるさ。・・ただ、ティアラの事があり、ニコの事だ。正直、どうしたらいいかわからないのさ」
「レオンハートとは思えない程に、人間味があるのね」
レオンハートと言えば、『家族愛』の代名詞であり、比喩にさえ引用される一族。
その愛情は重く熱く、そして非情なものだ。
家族を傷つけられれば、それが例え親友であろうと、恋人であろうとも、そこに容赦などなく断罪する。
それも、受けた傷の報い以上の、過剰な制裁を与える。
時には、その結果、国一つを消したことさえ史実として残っている程。
そんな一族の長が、血の繋がりもない、一臣下に心を砕いているのだ。
それも、愛娘へ弓を引いた存在に対して。
「あいつにとっては、年の離れた私やマーリンなどよりもよっぽど、ニコとティアラの方が兄弟だっただろうからな」
「それでも。血のつながりはないわ」
「あぁ。そうだな・・」
レオンハートの長としては、あまりに人情味に溢れた優しさ。
その甘い優しさは、『大公』の名を頂くには、あまりに相応しくない。
他であれば美徳にもなるかもしれないが、『魔導王』には相応しくない。
悪癖やネタのようにさえ扱われる過剰な『家族愛』だが、実際はそれがあってこその『大公家』であり、それこそが、彼らに許された唯一の私的権利でもある。
言ってしまえば、それだけが彼らに背負わせた責務への報酬なのだ。報酬が揺らげばそこに伴う責務もまた揺らいでしまう。
「・・レオンハートとしては、あまり褒められたものではないかもしれないが、私たちはそんなアークの優しさを羨ましくも思うんだ。だから、こういう時の為に、私がいるんだ」
これもまた過保護な家族愛なのかもしれない。
だが、そのほうがレオンハートらしい。
「リリアも、アークと同じだろうし・・。マーリンは、アークと違ってレオンハートのそれだろうから過剰になるだろうな。私としてはそちらのほうが理解できるし、自身もそうだと思う」
グレースは何も言わないが、レオンハートとの付き合いは長い。
よくわかっている。
「だが、マーリンの元には父様がいる。私の傍にはグース、君がいる。・・アークたちを苦しめる事にはならないさ」
「自覚はあるんだ」
「自覚はあるが、こればかりは本能に近いからな。無意識でそうなってしまう」
要訳してしまえば、無意識で人を殺すと言ってしまっている。
なんかやってしまいましたか?などと・・実に不穏な無自覚系もあったものだ。
「でも、お義父様もレオンハートでしょう?大丈夫なの?」
「あぁ。あの人は、自身の兄の事もあって、レオンハートの『愛』に我を失うことはないさ」
「そうだったね・・・。・・あれ?でも、フィリアちゃんの誕生日に、戦術級の魔術を王族に使おうとしたとお義母様から聞いたけど?」
「・・・・」
そもそもそんな出来た大人がこの一族に本当にいるのだろうか。
いや、いざとなれば・・・・たぶん。きっと。・・・そうだといいなぁ。
その時、扉がノックされた。
返事をすると返ってきたのはマリアの声。
フィリアが来たようだ。
「こちらも断罪の時間だな」
ゼウスの重い声に、グレースもまた重く頷いた。
魔導王。レオンハート。
その膝下で度々行われた、フィリアへの犯行。
そんなものが、サーシス一人の犯行なはずがない。
裏切り者がいる。それもナンシー以外に。
「しつれいいたします」
そう言って見事なカテーシーを見せたフィリア。
その傍にはフィリアの側近が勢ぞろいだ。
マリア。ミリス。ロクサーヌ。ローグ。キース。アンヌ。
そして、何故かティーファまでも、アンヌに引っ付き同行している。
ただ、一つ。いや一人。いつもならフィリアのすぐ傍に控えているはずのミミだけが違う。
ミミは魔術で拘束され、ローグとキースに両脇から捕らえられていた。
窓からは眩しい程の陽光が射し込んできた。




