76 おじさん幼女
暁色の夕空。
赤紫の薄雲の間に、まだ少ない星星が弱い光を携えている。
幻想的なまでの空を一望するように仰ぐフィリアは、深い・・それはそれは、深い息を吐いた。
「「「はぁーーーーーーーーー」」」
体の奥底から全てを吐き出すような息は、フィリアの一つだけではなく、その場の他二人も同様に吐いたもの。
毎度おなじみとなった、心のオアシス。フィリア温泉の露天風呂。
いつも本当に心身を癒してくれる。
そこに並んで溶けるように浸かる三人。
フィリア。ナンシー。グレース。
午前中から始まったはずの『お茶会』は、結局今まで続き、ようやく解放された三人。
こんな時は、温泉に浸かりたいと思ったフィリアは、二人も誘ったのだが、二つ返事・・いや、結構食い気味での返答だった。
結果、仲良く三人並んで深い息を長く吐いていた。
―――それにしても・・・
フィリアはチラリと盗み見るように、邪な視線を両隣に向けた。
―――いやー、眼福。眼福
最低。
変態。
人間のクズ。
忘れがちだが、フィリアの中身はアラサーのおっさん。
肉体的に幼いせいで発情こそしないものの、その下心は健在だ。
ツヤツヤの顔で満足気に笑む、気持ち悪い幼女の前には、妙齢のご婦人が二人。それも裸体を晒している。
・・・おまわりさん。こいつです。
しかも、片や男を誘惑することに特化した妖精。
グレースにしても、魔女補正のせいか、妖艶さが惜しげもなく発揮されている。
只でさえ目を奪われて然るべきと言えるような存在が、無防備にその身体を晒しているのだ。
フィリアが邪な感情を抱かないはずがない。
これまで、フィリアは家族としか湯船に浸かった事はない。遠くてマーリンだ。
レオンハートの者は贔屓目なしに眉目秀麗。その身体も身内とは言え目を惹かれる程に美しくはあった。
だが、それでもやっぱり近親者なのだろう。
フィリアが、そう言った感情を抱くことはなかった。
前世の記憶。伸之としての意識があっても、全くその気にはならない。
だが、今、共に浸かる二人は違った。
グレースはもちろんそうだが、ナンシーもまたフィリアとしては近親のカテゴリーではないらしい。
もしかしたら、初恋補正が働いているのかもしれない。
・・まぁそれにしても、最低な事には変わりがないが。
「それにしても、お義母様は相変わらずだわ・・」
「おばあさまがですか?」
返答はしっかり返すが、その視線が向く先は明らかに不純な欲望。
それはそうと。
フィリアには少々意外だったアンリの様子。
普段はお淑やかというか、のんびりとした穏やかなイメージがあったのだが、今日のアンリは実に力強かった。
それこそリリアと肩を並べるだけの有無を言わせない熱量だった。
今回、リーシャがいなかった為、少し甘く見ていたフィリアだったが、補うどころか遥かに上を行く役目を果たしていた。
特にその標的にされていたグレースはその熱を一身に受け続けていた。
魂の抜けた憐憫も仕方ないだろう。
「そうよ。お義母様は昔から、あんな感じ。さらに、今はリリアちゃんまで・・・。流石は現大公妃。そんなところまで先代を踏襲しているんだから・・・」
乾いた笑い声。
グレースの瞳は闇に堕ちている。
「・・なんで、私まで・・・」
血管さえ透き通るおっぱ―――・・・ナンシーが嘆き、呟いた。
これほどまでに自身を哀れみ、静かに一筋涙を流すナンシーは何か大切なものを奪われたようで、思わず目を逸らしてしまいたくなる。
・・・フィリア。逸らしなさい。
「諦めなさい。貴女もレオンハートなんでしょう?・・・それにしても、妖精がレオンハートなんて、時代も変わったね」
グレースはアンリの、フィリアはリリアの、それぞれ主導が違ったが、ナンシーはその双方、更にはアムル。三方からの熱量を受けることになった。
フィリアとグレースも満身創痍ではあるが、それでも本日一番の被害者はナンシーだろう。
「・・・反逆者の娘で、私自身も間諜まがいの事をしたのに、ですか」
「なんしー。まだそんなこと、いっているのですか」
「そうよ。諦めなさい。恨むならレオンハートの系譜に生まれたことを恨むのね」
最近のナンシーはジキルドへの恨みより、フィリアたちに対する負い目の方が強い気がする。
これも、あの洗脳のせいだろうか。
フィリアにはそこから見える黒幕に全く繋がるものがない為、深くは考察出来ないが、ゼウスやマーリンの様子から、あまりかかわり合いになりたくはないと本能的に感じていた。
「そういえば、おばさまとおじさまはどうしたんですか?」
午前中から名ばかりのお茶会に主席できたフィリア。
その理由の一つに今日、急遽授業が無くなったことがあった。
それも、実技、座学、その両方ともである。
そして、今日は一日ゼウスもマーリンも、その姿を見ていない。
「マーリンちゃんは、今日は研究室に篭もりっきりかな」
グレースが渡したエリクシール。
伝説級の秘薬。それ故にその効果も大きく、即座に投薬は出来なかった。
用法、用量。その適正を見極めたり、調整したりしなくてはならない
当然、本来なら一朝一夕で出来ることではないが、そこはレオンハート。それも薬師。マーリンの最も特化した分野。
不可能であろうはずがない。
今は、その為、自室に篭もりっきりになっているのだろう。
「ゼウスは・・・。頭を冷やしてもらっているわ」
「あたま?」
「・・・・・」
ナンシーが青ざめ息を呑んだが、決して、今朝、湖のほとりに騎士が鎖を打ち付けていたのを、目撃したからではない。
例えその鎖が、まっすぐ湖の底に向かっていたとしても、関係ない。
水泡が不自然に湧き上がっていたが、関係ない。
関係ないのだ。
「なんしー。かおいろわるいよ?」
そしてフィリアよ。
そういう事はきちんと顔を見て言いなさい。
「やっぱり、ようせいは、おんせんとか、いやだった?」
一応、食い気味の賛同ではあったが、フィリアはナンシー、ひいては妖精の統制に疎かった。
只でさえ、温泉は図らずも魔力を多分に含むと教えられた。
ひどい時は、魔術師でさえ湯あたりよりも、魔力酔いの症状が顕著に出るらしい。
その点、フィリアたちレオンハートは常に濃度の濃い魔力に慣れている。
些細な魔力の乱れにも敏感で面倒な体質だが、殊、魔力量や濃度に関しては全く影響することはない。
そして、それはリリアやグレースからもわかるが、高位の魔術師や魔女になればなるほど影響は薄くなる。
だが、ナンシーはレオンハートとは言え、妖精。
その身体の構造以前に、構成自体が魔力体である。
影響があって然るべきかもしれない。
「いえ。寧ろ妖精はこういった魔力の濃い場所の方が居心地がいいのですよ」
妖精の知識は、触り程度にしか学んでいないフィリアだったが、どうやらナンシーに無理はさせずに済んだらしい。
改めて、マーリンからもそうだが、リーシャからも妖精の事を学ぼうと、フィリアは決めた。
本も今まで童話にさえ妖精が出るものは少なかったが、今度からは意識して増やす考えだ。
優しく、真面目な考えで、好感は持てるのだが、いい加減、盗み見を辞めてほしい。
「ところで、フィリアちゃん」
「はい?」
「あのケーキはフィリアちゃんが作ったの?」
「あ。あのケーキとても美味しかったです。見た目も綺麗で、宝石箱のようでした」
フィリアの作ったケーキは実に好評だった。
光が消え、魂さえ抜けかかっていた二人の瞳に、再び生気が宿ったのは、フィリアの功績だった。
マリアたちから送られる冷たい視線ではなく、純粋な称賛が心地いい。
「はい。まだまだ、なっとくいくほどではなかったですが、うまくできたとおもいます」
だから、何の気兼ねもなく胸を張る。
スポンジはまだ課題があるが、その他は中々に上出来だと自負できるクオリティだった。
「それは、魔法で?」
「まほう?・・んー。まぜるのぐらいですかね」
ティーファにも手伝ってもらったが、それでも幼女二人では身体的問題で難しい事が多い。
ハンドミキサーなど無い。扇風機があったのだからもしかしたらとも思ったが、残念ながらなかった。
今度、作ろうか・・。などと不穏な考えは取り敢えず置いておいて、フィリアはそういった事に魔法を使った。
当然ながら、そんな細かな状況化の為に用意された魔術はなかったので、イメージだけで出来てしまう魔法を使った。
「そう。それなら良かった」
「?」
安堵したように息を吐き、くつろぐグレースに首をかしげた。
「魔法は便利だけど。魔法で全部やってしまうのは、あまり好きじゃないの。・・中にはそう言った魔女もいるし、フィリアちゃんの魔力量なら容易くそれができてしまうでしょ?でも、私の教え子になるなら、それだけはして欲しくなかったから」
なんとなく言わんとする事はわかる。
フィリアにしてみれば魔法も魔術も同じく夢の力だが。
魔術は、謂わば前世の科学技術だ。
人々を楽にするために研鑽されてきた『技術』。
だが、魔法は今世も前世も同じく、魔法。
なんでも思うがままに出来る、便利な力。
「力に溺れる、とまでは言わないけど。・・魔法で全てを叶えるのではなくて、少しの助力程度が、多分ちょうどいいのと思うの・・わかる、かしら?」
「・・はい。なんとなく」
上手くはフィリアも説明は出来ない。
でもきっとそれは道徳だとかモラルだとか、そういった不明確な感情倫理なのだろう。
前世では失われつつあったし、綺麗事として割り振られたものだが、フィリアは不愉快ではない。
「それに、魔法は、『呪い(まじない)』とも云われるもの。本来、多用するものではないしね」
「まじない・・」
字面でもわかる不穏な響き。
「魔法とは願うだけで事象が顕現する力でしょ。だから、『願い事』。つまりは『呪い(まじない)』が魔法の原点であり、本質なのよ」
「ねがうだけ・・ですか」
「そう。願うだけ。言ってしまえば『世界を消し去る』事さえ願えば叶うのよ?まぁその為の必要魔力は世界中の生物から搾り取っても全然足りないけどね」
例えが怖すぎる。
もっと軽い例えはなかったものだろうか。
だが、フィリアが思うのはそこではなかった。
「ねがうだけ・・・」
今までフィリアが使ってきた魔法。そのほとんどとは、全く異なっていた。
火は酸素で燃え。水は原子の運動で凍る。
そんな、理論や原理などそこには必要なかった。
魔術では、基礎であるはずの考えは、本来魔法には必要なかったのだ。
せいぜいは、いつもの浮遊や治癒の魔法ぐらい。
それらは、いまいち原理もなにも分かっていない。
それこそ、イメージ。願い、が大きく反映していた。
グレースがフィリアに対し深刻な様子で教師を引き受けたのも、そこに事情があるのだろう。
フィリアは初めて、好奇心だけではなく。
『魔法』という自身の力に目を向けた。
物語でも、架空でもない。
「フィリアちゃん!?」
「姫様!?」
「ふぇ?」
「「鼻血が!!」」
神妙な様子で受け止めていたはずのフィリア。
その小さな小鼻から赤い雫がたつたつと滴っていた。
「あー・・。ゆあたり・・かな?」
・・フィリアよ。
そんなに長時間浸かってはいないだろう。
それに、この温泉はフィリア監修の温泉。
そして当然、魔力酔いは無い。
ほんと・・・最低。




