3 初めての魔法
物音ひとつない夜の静けさは、明かりのない暗闇を十全に補って余りある。
唯一部屋に差し込む月明かりも寝台まで届かぬ斜光となって差し込むだけで闇を晴らすことはできなかった。
室内には交代の不眠番がいつも側にいる。
世話係二人もどちらかが付いていつでも傍に居てくれる。
だが今はそのどちらも傍には居ない。
いつも賑わっている人の気配もない。
扉の向こうにはちゃんと人の気配が感じられるが、暗い室内には小さな赤子一人っきり。
しかし、それも暫しの時の事だろう。
いつも傍には終始必ず誰かしらがいる。
それも、一人二人ではない。
この部屋で集会でも開いているのかと思える程に人の出入りが激しかった。
深夜ともなれば流石に人の数はなくなるが、それでも無人となる事などほぼなかった。
故にこのたった数分に満たない僅かな時間すらも希で、深夜でもここまで静かなことはない。
その為、今しかないとして喜々と行動を起こしてしまった。
―――えぇっと・・手を挙げて・・。あれかな。漫画みたいに手のひらから出る感じ、かな?
昼間の衝撃。
唐突に目の前に現れたワクワク不思議現象。
『魔法』
興奮からか目が冴えまくって普段ならほとんど眠って過ごす一日だったのに、この日は一睡もできなかった。
ようやく眠ったのは気絶するかのように本人の意思完全無視での強制シャットアウトのみ。
だが、それでも今現在。眠気など皆無で驚く程に目が冴えていた。
その上、何を思ったのか、機を謀る事を思いついてしまった。
自身の周りから人が完全に居なくなることはない。
その事はこの赤子自身が誰よりもわかっていた。
目覚めれば必ず誰かが声をかけ。グズれば直ぐさまあやされる様に抱き上げられるのだ。
その事に鬱陶しさよりも安堵を感じ始めていた本人なのだから、その事は身を持ってこれ以上ないほどに知っていた。
それでも。いや、だからこそ知っていた。
極たまに。短い時間であれば隙がたまにある。
本当にたまにだがその隙がある事を。
だからそこをじっと逃さぬように待つ計画を考えついてしまったのだ。
・・もはや嫌な予感しかしない。
その為、今度は眠れない事を逆手にとって寝ないという方向にシフトした。
そんな、馬鹿で浅慮な計画を考え実行したのだ。
しかも、運がいいのか。この小学生みたいな計画はその機会を掴んでしまった。
今のこの時間もきちんと寝たふりをして得た機会。
何度か本当に船を漕いではいたが、なんとか乗り越え、耐え抜き、そして、僅かな達成感さえ感じている。
なんというか・・。
正直、人目のある中で行動に移さなかった事や、自身が赤子であるという認識。
最低限の分別は出来たのだなと、低すぎるハードルの安堵はできた。
しかしそんな安堵も虚しい努力の方向性なのだと思うと・・。
・・至極残念で仕方ない。
―――あ、そういえば何か言ってたな・・なんだっけ。・・呪文とか必要なのかな。んー。でもまだ発音はできないし・・・ま、要は試しだ!取り敢えずやってみて。それからだな!!
まだ言葉は拙く聞き取ることさえも難しい。
口周りの発達も未だ届かず、精々が単音を発する程度しかできない。
当然そんな現状で言葉を紡ぐことなどできるわけがない。
しかし楽観というかなんというか・・。
赤子の思考には諦めるなんて考えがよぎる事さえもない。
その理由は至極簡単。
『魔法が使いたいから』
それだけである。
単純明快で、単細胞な残念思考。
だがそれを地でいってしまう。
しかも、そんな事が上手くいってしまう事も屡々なのだから余計にタチが悪い。
・・そう。上手くいってしまうのだ。
―――炎よ出ろ!!
心の中で呟き、手を掲げる。
魔法の在る物語。
その多くに云われている事があった。
『魔法とはイメージが大事』。
創作物の中でしか知らない力。
それなのに決まりごとのように数多の物語において必ずその文言は書かれ語られていた。
古今東西。新しきも古くも。
どの物語にも明確な表現と共に書かれたその極意は真理で在るかのようであった。
そしてそれはあながち間違っていなかったようだ。
結果から言えば出来た。
出来過ぎなほどに出来てしまった。
確証を持って流した体を巡る感覚を手のひらへ。
火の玉のイメージは理屈も原理もわからないと、そもそもの前提的に色々言いたいがそれは置いといても、前世の感覚から遠く、イメージしづらく難しかった。
故に持ったイメージはキャンプファイヤー。
蝋燭やライター。せめて焚き火程度など・・。
他にも選択肢はいくらでもあったろうに、何を思ったのかイメージしたのは、業火に盛るキャンプファイヤー。
それも高校時代に軽いボヤ騒ぎになった、行き過ぎた悪ふざけの産物のそれ。
『炎』
そう。『火』ではなく何故かの『炎』。
―――やばっ!!
結果。天井が焼けたのは当然の結果である。
慌てて手を引いても、その手からは止めどなく炎が吐かれ続けていた。
当たり前ではあるが、この赤子は止める術など知るはずもない。
消そうと懸命に振り回す手。
だがその指向性が変わっては部屋の被害を増やすばかり。
焦りからの混乱。それは例え一瞬のことであったとしても惨事を招くに十分である。
しかし、それでも悲しきかな猪突猛進の玄人。
対応の反射は早かった。
野生の勘でもあるのかと思える程の自己防衛機能。
即座に手のひらに流れる感覚を切った。
しかもそれは意識的に対処したというよりも咄嗟の判断でしかなかった。
だがそれが正解だったのか。
そこで炎の噴出は止まった。
―――よかった・・
腹の底から安堵の息が漏れ、胸をなで下ろした。
何も解決などしていない。
当然、何もよくなどない。
安堵から冷静になればその事実が眼前に否応なく示されているのだから・・・。
煌々と揺らめく炎に満たされた部屋。
まだ自由に身体を動かせない赤子は仰向けに寝たきりの態勢。
故に視界に映るは天井なのだが、そこにさえ揺らめく紅色の波が視界いっぱいに広がりながら怪しく蠢いている。
しかも少し視線を巡らせれば自身の周り。寝台の上にも火が踊り、自身の身さえもを飲み込もうとジワジワ侵食してきている。
―――みっ、水――!!!
焦り、慌てふためく赤子。
咄嗟の反射で手から水を出した。
魔法による『水』の生成。
初めて魔法を使えたばかりなのに瞬時の対応が新たな魔法。
規格外などとは褒め言葉でしかない。
単なる、非常識の問題児である。
今し方まで未知だった力。
その二度目を直様行える臨機応変さや飲み込みの速さは素直に称賛できるものである。
だが、その力で今惨事を起こしたばかりなのになんの躊躇も無いとはこれ如何に・・。
チョロチョロ・・
しかも、その水量では明らかに足りない。
先程は非常識なイメージで火の海を作り出した癖に。
水の魔法。
そのイメージはジョウロ。
「なあぁぁぁぁぁぁ!?!?」
何故か今度は常識的な範疇。
しかし今ではない。
今、必要とされているのは寧ろ行き過ぎたイメージであって、良識的なものではない。
いや、良識的であるのはいいことだ。
正しいことではあるのだ。
だが、なんでだろう・・何かが飲み込むのを妨げている・・。
極めて極端な落差。
案の定、その魔法の効果は精々ベット上の進行を少し遅らせる程度のものでしかない様子。
しかも本人の未だ未発達の視野には正確に把握できていないであろうが、炎の進行は当然ベット上だけのものではない。
もうすでに部屋は炎の海に沈んでいる。
その中心にあるベットは、そんな焔の海に浮かぶ船のような状態だ。
熱波や肌を焼く熱さもあるはずではあったが、本人はそれどころではないせいか気づいてすらいない。
それどころか背筋に嫌な汗をかき肝を冷やしているのだから
バンッ
「****ッ!?」
その時、慌てた声と共に部屋の扉が勢いよく弾かれた。
叫ぶようになにか言葉を発している。
すると、蒼い光が溢れ赤子の身を包み込んだ。
身を包むその光は徐々に形を成していく。
透明度の高いそれに体は沈むように包まれていく。
―――・・水・・の中?・・
時折、くぐもって耳に届くのはコポコポといった水音。
そして包まれた感覚もまた水に潜った時の心地よい浮遊感。
―――・・息が出来る・・・
明らかに水中を漂う感覚。
しかし、それでも。苦しくなることはない。
呼吸にも違和感一つない。
むしろ先程まで気づかぬとも身を焼いていた熱波から解放されて、更には余分な熱を冷まし、心地いい。
その感覚の元を辿ろうと視線を巡らせた。
形を成した水。
それは女性の姿を模していた。
色彩は乏しい。
透明な中に薄く青の光が滲んでいるだけ。
表情がわかりにくいのは何も幼い視覚故のせいではない。
もともとそういった仕様なのだろう。
細かな造形は無く。浅い凹凸のみ。
それでも、なんとなく。薄く、微笑みを向けられたような気がした。
まるで妊婦のように腹部に赤子を内包して、更にはその腹部を大事に抱えている
そんな水の婦人は嫋かに腕を広げると部屋中に霧のような飛沫を分散した。
シャワーやスプリンクラーみたいだなぁ、などと脳天気に傍観してしまっているのはあまりの事に情報の整理が追いつかない故だろうか。
天井や壁。
部屋中に広がっていた炎は、急速に力を失い、鳴りを潜めるように小さくなっていく。
白い霞が漂い、赤い光も眠るように消えていった。
只々、常闇と静寂だけが鎮座し、淡くなった月明かりのみが室内を覗く。
青白い月光は淡く滲んで水の婦人を、より神秘的に飾った。
水の婦人は腕をゆっくりと戻し、また凹凸のない顔で慈愛に満ちた微笑みを浮かべて赤子に向けた。
次の瞬間。
水に包まれる感覚とは違う感覚の包容に抱かれた。
慣れ親しんだ、よく知る匂いと暖かさ。
その持ち主である世話係の女性は今にも泣きそうに、肩を震わせていた。
彼女の手には短い枝のような杖が握られ、さらにその先端は水の婦人と同じ色彩の光が蒼く点っていた。
その光は徐々に光を失い、遂には完全に消えた。
それと共に水の婦人も朝霧が吹かれるように薄くなり消えていった。
世話係の女性は苦しいほどに抱きしめてきたが抵抗はできなかった。
それどころかたまに漏れる喉の音に彼女の堪えているものを邪魔してはいけない気持ちになり、声すらも漏らさないようにした。
要は、只々申し訳なさに苛まれながら甘んじているのだ。
流石に自分が原因で心配をかけ、今の状態だという事くらいは分かっているようで安心した。
この赤子であればもしくはそんな事にさえ気づかないのではないだろうかと思うのは仕方ないだろう。
―――・・ごめんなさい・・・
素直な謝罪。
残念ながらまだそれを伝える言葉は紡げないが、その気持ちだけでもあってよかった。
彼女に伝わってはいないだろうが、それでも。
少しでも後悔や自責の念を抱いてくれればいい。
そしてこれからは自重していく事だろう。
―――・・あ
部屋の隅で燻る赤い光を見つけた。
―――水よ
その晩。火事現場と共に城の一部が洪水によって半壊した。
証拠隠滅をも意識せず行なった今回のイメージは当然ジョウロではない。
きちんと先の事から改善して。
ダムの放流となった。
謝罪の念。
その舌の根も乾かぬうちに起こした惨事。
違う。
確かに非常識を望みはしたが。
そうではないのだ・・。
今回の事でわかったが血流似た感覚。
その正体は魔力と言うものだと確証を持つには十分な惨事であった。
あれほどに見ぬふりをしていたくせに、現実を受け止められない複雑な心情とはいったいなんだったのか・・。
その上、魔法も使えることがわかってしまった。
こんな非常識の権化には絶対に与えてはいけない力なのに・・。
その上この事件をきっかけに二度とこのような事が起きないようにという。一見殊勝な心構え。
実際は只々はた迷惑なだけの前置きで、懲りずにも魔法と魔力の鍛錬を頑張ることを張り切って決めてしまった。
もちろんバレないようにとは強く決心した。
だが、そもそもそれ以前の問題である。
さらにはこの赤子の狂人さがわかった今。
果たしてこの非常識で残念な問題児にそれは可能なのだろうか。
甚だ疑問である。
というか無理だろう。
確信さえ持てる。
そもそも魔法の鍛錬とはなんなのだ。
魔力の鍛錬とはなんなのだ。
そんなの、嫌な予感しかしないじゃないか。
その期待は残念ながら当然の如く裏切られる事はなかった。
案の定この問題児が行き着いた答え。
要は実践である。
・・全く懲りていない。
少しは反省してくれないだろうか・・。
だが本人的にはきちんと改善しているつもりらしいのが更に腹立つ。
―――火は云うもがな、水もなぁ・・。土はそもそも部屋から動けないし・・やっぱ風とかかなぁ・・
そんな事を真剣に悩んではいるが、そもそもの方向が間違っている。
配慮への安堵など当然ない。
不安しか湧かない。
風から浮かぶイメージ。
その候補は扇風機、竜巻、台風、かまいたち。
明らかに狂気を滲ませている。
何故にその候補なのか。
そもそもなんでそれらを同列に並べることが出来るのか。
理解できない。
しかも、最後まで扇風機とかまいたちでどっちにするか悩んでいたのだから正気を疑う。
何処に何を悩む必要があったというのか・・。
その上・・。
―――その次こそ・・火かな・・
諸行無常。
この馬鹿は、全く懲りていない。
言うまでもなく。
後日の室内は、言葉通りの意味で嵐が去った後の惨状となった。




