62 蒲公英の丘
ノックの音は返答も待たずに扉を開けた。
それをベットの上から視線だけで向かえた。
「ナンシー。少しお邪魔するわね」
「・・・リーシャ様・・」
淑女の鏡と云われるだけの、優雅な所作。声のトーンも威厳がありながら、淑やかで柔らかい。
その姿は、普段のリーシャとは全くの別人だが、それと同時に非常にリーシャらしい姿でもあった。
隙もなく、完璧な姿。
端的に言うならば、戦闘態勢。完全武装。
盲目的な家族はともかく、この城でいるものでそれを知らないものはいない。
それは、当然ナンシーもである。
「お茶を淹れるわね」
そう言って手を挙げただけで、侍女たちが動き出す。
ナンシーも反射的に腰を浮かしたが、リーシャに視線のみで制された。
いや、それだけではない。
蛇に睨まれた蛙のように身を強ばらせ、意思に関係なく身体が震えだした。
「隣、失礼するわね」
「・・はい」
十歳とは思えぬ貫禄に、ナンシーは萎縮して、怯えていた。
「申し訳ありませんでした・・」
「とりあえず、本題はお茶の準備が出来てからにしましょうか。それまでは軽い雑談でもしましょう」
「・・・はい」
後ろめたさも当然ながらある。だがそれだけではない。
朗らかで柔らかなリーシャの雰囲気。でも、それは『麗しの氷華』、そのものだ。
この家の使用人であったナンシーにはその事がよくわかっていた。
「・・ところで、リーシャ様。・・学校はどうなさったのですか?」
「・・・さっ!本題に入りましょうか!!」
手のひら返しが早い。
淑女の鏡たる姿だが、目を逸らし、後ろめたさを隠せない様子は普段のリーシャそのままだ。
お茶の支度をする侍女たちのジト目が痛いほどに刺さる。
居心地の悪さを感じるリーシャだが、ナンシーはそんなリーシャの様子に少し緊張が和んだ。
「それにしても、ナンシーと話すのも久しぶりね。・・思ったより元気そうで安心したわ。・・でも、お祖父様を相手にするなんて無茶しすぎよ?」
「・・リーシャ様はご存知だったのですか?・・その・・」
「妖精のこと?」
「はい・・」
「貴女の事をお父様に推薦したのは私よ?気づかないわけ無いでしょ?当然お父様もね。・・まぁ、お父様の従兄弟っていうのは、初耳だったけど。どうりで、ナンシーに居心地の良さを感じる訳よね」
ふわりと甘い花の香りが広がった。
その香りに導かれ、リーシャのエスコートと共にテーブルへと場所を変えた。
「お父様との約束だった五年の洗濯係も、あと一年だったのに・・。そうすればナンシーを私の専属侍女に出来たのに・・」
「・・・お気遣い頂いたのに。申し訳ありません」
「あぁ。違うわよ?ナンシーが思っているような理由じゃないから、気にしないで」
「え?」
「いや、ほら・・いくらなんでもお父様の従兄弟であるナンシーを、娘の侍女にするなんて、出来ないわよ。本当ならお祖父様やお祖母様が貴女の後見となるのが普通でしょうけど、・・ナンシーもお祖父様に思うところがあるでしょうし、せめてお母様、大公妃の傍が妥協点でしょうね」
「私は・・罪を犯したのですよ・・。裏切ったのですよ・・」
「ナンシー。貴女も、レオンハートの者なのよ。ならば、その『愛』から逃れられないわ」
「・・・」
席に着くと同時に目の前に注がれた、フラワーティー。
ガラスのポットではオレンジの花びらが舞うように滞留していた。
「昨日、フィーが『魔力暴走』を引き起こして倒れたの」
「!?」
何の脈絡もない話の冒頭にナンシーは息を呑んだ。
「・・その反応。やっぱり、ナンシーはフィーを害する気なんてなかったのね」
優しく慈愛に満ちた、リリアによく似た微笑み。
それを向けられナンシーは反射的に顔を伏せてしまった。
「・・フィーが倒れたのは、『星を謳う者』の『観測』のせいらしいわ」
「・・それはまた・・。姫様にはいくらなんでも早すぎではありませんか?」
「そうねぇ。でも、私より適性があるから、仕方ないわね」
そう言って悪戯に微笑むリーシャは色香に満ちていた。
「フィーが選んだのは、『子馬座』の『星』だったわ」
「え・・それって・・」
「そう。『妖精の恋人』。ナンシーのお父様。ゼウロス様の『星』」
顔を上げたナンシーの表情は痛いほどに切なく。唇を噛み締めたものだった。
そんなナンシーを見て、リーシャは少し困ったように眉を下げたが、そこにあったのは哀れみではなく、慮る優しさの微笑みだった。
「それも、『物語』ではなく『記憶』を『観測』したらしいわ」
「!?・・パパ・・の」
「当然、全部ではないわ。『物語』でも飲み込むのは簡単じゃないのに、『記憶』だもの。それも初回。話を聞いた感じだと断片的にしか『観測』出来なかったみたいね。それも無理に思い出そうとすれば馴染まない情報量にひどく頭が痛くなるだろうし」
ナンシーは鳩尾のあたりを強く握った。
そこは妖精の心臓にも等しい魔力の源がある場所。
ゼウロスとアンヌの魔力が混じりあった、自身の魔力が生まれる場所。
「・・羨ましい?」
「・・はい。本音を言いますと・・。父の想いや、母との記憶を感じられるのは、やはり羨ましく思います」
「ナンシーもレオンハートだわ。・・望むなら『星を謳う者』を教わることもできるわよ?」
「・・いえ。妖精である私は自我が乱れやすく、感情に左右されます。リャナンシーである分、他の妖精よりはましかと思いますが、それでも直接、精神に影響を与える『星を謳う者』には、耐えられないでしょうから・・」
その上、実際に『記憶』を『観測』出来るとは限らない。寧ろ『物語』の方が普通で、『記憶』など希に起こる稀有な現象でしかない。それも幾度も馴染んだ者が行き着く末のようなもの、フィリアのように初回から『記憶』に触れる者など過去にいなかった。
だがきっと、ナンシーであれば『記憶』を『観測』出来る可能性は高い。
人の子であれば、親子であれど、魔力が変質して別人となるが、妖精であるナンシーの中にはゼウロスの魔力がそのまま流れている。
親和性や共感性が『記憶』を垣間見る要因の一つとして考えられている以上、製作者と同じ魔力を持つナンシーが『観測』する可能性は高い。
だが、その代償としてナンシーの人格は消失するだろう。
自我の強い者でも、少なくない影響を受けるのに、妖精たるナンシーでは万が一にも耐えられないだろう。
妖精は、精神体の存在。魔力と精神がその存在の全て。
その為、妖精は己が欲に忠実であり、僅かな気分の変化一つで気性が別人のように変わる。
リャナンシーは人を惑わす特性故に、その耐性が強いが、それはあくまで妖精にしてはの話。
急激に流れ込む感情の奔流に晒されては、一瞬のうちにかき消されるだろう。
「フィーが、明確に覚えているのは、花畑の『記憶』よ・・」
「花畑、ですか?」
リーシャは手元のカップを見つめ言葉を零した。
蜂蜜のような甘い香りを漂わせる、少し渋めのフラワーティー。
「ファミリアル領には多くの魔力溜りがあるわ」
『魔力溜り』とは、字のごとく、濃い魔力が滞留する場所。
他の場所とは違う濃度の魔力は、長く滞在すれば体調を害すが、多くの恵みも与えてくれる。
珍しくはないが、殊、この土地の魔力溜りは特に濃く、魔物さえ近づかない。
「その大体は、私たちレオンハートが、大公私有地として管理しているわ。そして、その証としてその場所には我が家の意象でもある『カレンデュラ』を一株だけ植えるの。すると時を待たずにその場所は一面の花畑となるわ。カレンデュラのみならず多くの花を咲かせ、美しく咲き誇る」
そこまで聞いてナンシーは察して手元のティーカップに視線を落とした。
薄オレンジに煌く水面は、目の前のリーシャと同じように、少し紅みを孕んだ蜂蜜色。黄金の煌き。
「貴女のお母様が生まれ、過ごし、ゼウロス様と出会い。お二人が共に眠られた場所よ」
ナンシーの目から涙が溢れた。嗚咽が漏れた。
その手は、宝物を扱うかのように、大事にカップを包み。決して零すことはない。
思い出した。いや、忘れたことなどない。
ナンシーにとって一番幸せに満ちていた時。
三人で並んで花畑に横になり、時折、父の奏でるヴァイオリンを子守唄に、身体の弱った母の膝で甘い香りに包まれながら微睡む。
優しく頭を撫でる感触と、慈しみに溢れた声で名前を囁く二人の微笑み。
短くも満ち足りていた幸せだった時の記憶。
遠く離れたラッカーの土地で一人残される前に、一度だけ訪れたあの花畑。
まだ、花は蕾だけで、父がたんぽぽが咲いていないのを寂しげに嘆いたのを覚えていた。
しかし、ナンシーは満開の花さえ霞むだけの、幸せを感じていた思い出。
「パパっ・・ママっ・・」
一度溢れた感情は止めることもできずに溢れ続けた。
「レオンハートの者が罪に問われるのは国賊とみなされた時だけ。例え殺人を侵そうが、盗みを働こうが、罪に問われる事はないわ。だからこそ私たちはそれを自らの意思で戒める必要があるわ。・・・ナンシー。貴女の事も同じよ。お祖父様が不問とされた時点で貴女の罪はないものとなったわ。・・・あとは、貴女次第」
「ふぐっ・・ひぐっ・・。リーシャ様・・お願いを・・一つだけ・・」
リーシャはそっとナンシーの傍により、背を優しく撫でた。
包み込むような優しさの中に、ナンシーは父と同じ匂いを感じた。
「・・今の時期だと、もう花は綿毛に変わってしまっているわよ?それでもいい?」
願いをナンシーの口から聞く前にその想いを正確に汲んだリーシャに、ナンシーはこくこくと頷いた。
「では、一緒にナンシーのお父様とお母様に会いに行きましょう」
名も無い花畑は、今では、カレンデュラよりもたんぽぽが多く群生している。
そこには、二つの石碑がある。
何も刻まれていない石碑。
しかし、その石碑はこの国特有の特殊なもの。
白い石肌には、たんぽぽが浮かび上がっている。
魔術加工によって花を美しい姿のまま、石材に混ぜ込むこの国の伝統技術。
それは、多くは故人の墓石に良く使う技法でもあった。
人々は誰と言わずもがなわかっていて、口にはしない。
その代わり、名も無い花畑。数多ある大公家私有地のひとつでしかないこの花畑を。
人は・・。
『蒲公英の丘』
と謳い。
恋人や夫婦の聖地と親しんでいた。




