59 妖精の恋人 Ⅱ
「兄さん!何を考えているんだ!!」
「・・ジキルド。・・あまり大声を上げるな、気づかれるだろう」
深夜の静まり返った廊下、ゼウロスはそんな闇の中に紛れていた。
「ふざけるな!こんな夜更けにこそこそと・・。まるで・・夜逃げみたいじゃないか・・」
「・・みたいというか・・まさにそうなんだけどな・・」
「兄さん!!」
ゼウロスの格好は地味で装飾もない、人ごみに紛れる事を想定した外套と帽子。
そしてその手に持たれた荷物は鞄一つの最低限なもの。
ジキルドはそんな兄を睨むように見つめ行く手を遮り、ゼウロスは軽口を叩きながらもも苦虫を噛み潰したようなバツの悪い顔をしていた。
「・・すまないなジキルド・・。あとは頼んだな・・」
「分かっているんですか・・。今少しずつ、時代が変わって来てはいます・・ですが、それでも・・」
「ジキルド・・お前は知っているのだな・・」
酷く顰めた表情でジキルドは俯き視線を逸らした。
そんなジキルドの態度にゼウロスは苦笑を溢し、ジキルドの頭へ触れるように手を置いた。
その瞬間、ジキルドの瞳から涙が溢れた。
その髪越しに感じる手の感触と温もりは、ひどく懐かしいものだった。
物心付く頃にはもうすでに馴染んでいた感覚。
少し年の離れた兄は、いつもこうして折に触れては優しく甘やかしてくれた。
雨に濡れ涙が目立たない時も、星を見上げ興奮した時も、埋もれる程小さな表彰をもらった時も。
・・いや、慣れる程に日常的に、その暖かい温もりを感じていた。
「・・私は、兄さんを、殺したくない・・」
「・・・」
余裕の見えたゼウロスも、この時ばかりは、後悔を色濃く滲ませ、表情を歪ませた。
下唇を噛み、目から溢れそうな熱を押し込めた。
自身に泣く資格などないと、心を諌めて・・。
只々、消え入りそうに「すまない」とだけ、呟いた。
「・・家族を・・捨てるのですか・・」
「ジキルド・・。俺は今でも家族を愛してるさ・・。ただ、それ以上に大切にしたい人ができたんだ」
「人のことを『蒲公英』だ、なんだと言っておきながら・・。自分のほうじゃないか」
そっと上げた視線の先、ゼウロスは朗らかで幸せに満たされた微笑みをジキルドに向けていた。
「・・実際がどうだとしても、兄さんは五大公の後継。妖精の方が国の要人を拐かしたとして彼女に裁が下りますよ」
「『彼女』って・・会ったのか?」
「・・彼女ほうから、挨拶に来てくれました」
「そうか・・。会ったのがジキルドで良かったよ」
「ですね。父様にでも会ってしまっていたら、その場で滅せられていたでしょうから」
「何か、言っていたか・・?」
「・・自分が望んだことだと。・・兄さんは止めたが自分がそれを望み、兄さんがそれを汲んでくれたと・・」
ゼウロスは呆れたように溜息を零した。
「いい人を見つけましたね」
「あぁ。最高の女だ」
幸せを噛みしめるようなゼウロスにジキルドも笑みが溢れるが、直ぐに表情を引き締め真剣な眼差しでゼウロスを射抜いた。
「・・ですが『妖精』です。表向きには人権もありますが、実際はそんなものあってないようなものです。・・恐らく大した調べもなく国賊とされます。その上、そこで兄さんが敵対するとなれば、慣例に従って、レオンハートが責任を持って出陣します。・・兄さんや私はまだしも、『妖精』に対するレオンハートの蔑視は特に酷いですよ。温情や猶予なんてものはまずありえないと思ってください」
「わかってるさ・・」
「いくら兄さんでも、レオンハート全員を相手取って、生き残れはしないですよ・・」
「だろうな・・。だが、それでも、彼女だけは守り抜くさ」
明確な死刑宣告を受けながらもゼウロスの表情は穏やかで、それ以上の忠告をジキルドは飲み込んだ。
「・・・全く。『蒲公英が芽吹く』とは厄介ですね」
「そうだな。・・・ジキルド。あとは頼んだぞ」
「兄さん・・いや、ゼウス。次期大公として『身内殺し』の咎は私が背負おう」
「ありがとう」
常闇に消える背中をジキルドは瞬きもせずに見送った。
その姿を、決して忘れぬよう焼き付けるように。
―――これは、多分・・お祖父様とナンシーのっ!?・・痛っ・・
空は白んでいるが、まだ太陽さえ顔を見せない程に早い時間。
だが、港町にとっては最も賑やかな時間帯でもある。
少し離れた埠頭。
そこは漁港とは違い、客船の往来を目的とした場所のため、人の往来もまだ少ないが、それでも市場の喧騒が漏れ聞こえる。
その一角。海を眺め髪を靡かせる妖艶でありながら、どこか童女のような無垢さを持った女性。
アンヌがトラベルバックに腰を下ろし、そこにいた。
「・・?・・あらゼウス。早かったわね」
埠頭にたどり着いたゼウロスは、アンヌの姿に目を奪われていた。
立ち尽くすゼウロスに気づいたアンヌは振り向き、花が舞うような笑みをゼウロスに送った。
ゼウロスはその美しさに再び息を呑んだ。
「綺麗だ。ナンシー・・痛っ」
「ナンシーと呼ばないで!!誰が聞いているかわからないじゃない!!」
「ごめん・・」
飛んできたトラベルバックを顔面で受け止めたゼウロスは、本当に悪気があるのか、満面の笑みをアンヌに向けた。
そして、胸に飛び込んできたアンヌを抱き止めた。
「それで?これからどうするのかしら」
「フォーンを目指そうと思う。あそこなら妖精も暮らしやすいし、卑下する人間もいない」
「わかったわ。貴方がいればどこでもいいわ」
ゼウロスの腕の中から離れたアンヌは地面に転がったトラベルバックを拾いゼウロスと並んで目の前の大きな船を見上げた。
「ただ、フォーンまでの直通は無くてな・・最低でも四回は乗り継がなければならない。だが、恐らくそんな猶予はないだろうから、少し寄り道をしてラッカーに向かおう」
「ラッカー?」
「あぁ。最近開拓され始めたばかりの新天地だ。移民ばかりで素性を隠すにはちょうどいいだろうし、なにより未開拓の地だ。コソコソ身を隠すよりはいいだろう?」
まだ乗船は始まっていない。
二人はそれを待つため、乗船手続きされる桟橋近くで海を眺め寄り添いあった。
「・・母さんも、行ったことない場所なのかしら」
「母さん?」
アンヌの小さな呟きさえもゼウロスはきちんと聞き取った。
「えぇ。未開の地ならばあるいは知らないかもなと」
「いや、そうではなく。・・『母さん』とは、誰のことだ?そのような人が居たのなら挨拶もなしに去ることはできないだろう」
「ありがとう。でも、もうこの世にいないから」
「あぁ・・そりゃそうだな、ごめん」
アンヌは悠久の時を生きる存在。
出会いと別れを、本当の意味で知っている。
「・・何か勘違いしてない?」
「ん?」
「別に比喩ではなく実の母よ?」
きょとんとしたゼウロス。
ゼウロスは「母のような存在」が居たのだと思っていたのだが、そうではなく実の母だと言われた。
「え?でも、リャナンシー・・」
「そもそもあの花畑に人なんて滅多にこないわ」
アンヌは蠱惑な仕草で唇に指を当てると『貴方だけだわ』と悪戯に微笑んでみせた。
「『転生術』って知ってる?」
「あぁ」
「私の母はね、それで私を生んだの。魔獣に襲われたか、魔術師に狙われたか、それはわからないけど命からがらあの花畑まで逃げ延びたの。でも、その存在はいつ掻き消えてもおかしくないほどに弱っていたわ。その為、『転生術』で私を生み出したの」
顰めた表情のゼウロスだがアンヌから目を離すことはない。
「でもね、母さんはあまりに致命傷だったの。本来なら、そこで『記憶継承』して完了なのだけど、『記憶継承』が出来るだけの余力はもう残ってなかったわ。それでも無理に術を行使したのだけど、記憶の継承は中途半端にしかされなかった」
「・・・」
「おかげで母とは違う自我を私は持ったわ。ま、そのせいで『真名』も失ってしまったのだけどね」
「じゃぁ・・『母さん』というのは」
「えぇ。言うなれば・・そうねぇ。私の素体とでも言える存在かしらね。私が目覚めて直ぐに消えてしまったし、受け継いだ記憶も断片的で、同じ存在とはどうしても思えないのだけどね」
そこでアンヌは頭をゼウロスの肩へ預けた。
「でもね・・。その断片的な記憶の中に色々な景色があるの。この国のものなのか、それとも他国のものなのかは分からないのだけど・・憧れてはいたの。『記憶継承』が不完全だった為にリャナンシーとしての本能を忌諱する心が芽生えてしまって、人と関わることから避けて、あの花畑に引き篭っていたのだけど、それでも、いつかは、自分の目でいろいろな景色を見たかったの」
「これからたくさん見よう。一緒に」
そう言って微笑み合う二人。
いつの間にか陽が顔をだし、人も増えてきた。
乗船の手続き準備のため、乗組員も行き交い始めた。
―――がっ!?痛いっ!!頭が割れそう!!
鬱蒼とした森の入口。
その傍に、ようやく出来た我が家。
小さいが、それでも自分たちの要望を反映した理想の家。
「どうだ!!中々立派に出来たぞ!!庭も広いし、ここに花畑を作ろう」
「ゼウス・・私のためなのは嬉しいのだけど・・・。流石に三日で作るなんて無茶よ」
―――っ・・・痛い・・・痛い・・・
「ナンシー・・」
「私は大丈夫だから・・そんな顔しないで」
―――・・誰か・・・助け・・・
「ゼウス!!お前を殺す」
「・・・ありがとな、最愛の弟よ」
―――・・・・助け・・て・・・
『アンヌ・・君を・・・愛してる・・』
「フィーっ!!」
不明瞭な音が次第に鮮明になってきた。
身体の冷えた感覚も、鈍いながらも感じる。
そして、いつもの何倍も重い瞼を薄く開いた。
ぼやけた視界。
はっきりしない思考。
それでも自身の状態はなんとなく理解できた。
フィリアは魔法陣の描かれた地面に倒れていた。
そして視界を巡らせれば、自身と同じように地面に横たわる一匹の黒猫。
「り、あ・・」
絞り出すような声、喉が焼かれたように空気は重かった。
『・・起きた、だね。・・良かった』
リアの声も弱く、力のないものだった。
―――力が・・入らない・・
フィリアは全身に力を込めようとするが、それは全く叶わず、地面から起き上がれない。
しかし、思考も鈍くフィルターがかかったようで、それ以上を考えるのを辞めた。
だが、頬に感じる気持ちの悪い感覚には意識が向いた。
「な、みだ・・?」
地面を湿らせ、頬にまとわりついた泥。
その根源は、未だ止まらず溢れる涙だった。
魔法陣から溢れる光が終息し、ようやくジキルドたちがフィリアに駆け寄った。




