59 妖精の恋人 Ⅰ
「君の名前を教えてくれないか?」
「・・貴方、何のつもり?」
腰ほどもある背の高い花畑の中、ふたりは出会った。
金糸の髪を束ねた美丈夫な男は目を奪わるように声をかけた。
しかし、その声をかけられた方はピンクの瞳を細め、剣呑な視線を男に向けた。
「何のつもりと聞かれても・・」
そう言って男は照れて頬を掻いた。
「そのぉ・・んー・・一目惚れ、かな」
「ふざけないで」
男の言葉は全く信じられていない。
それどころか益々の警戒心を抱かれてしまった。
彼女は色気に満ちていて、実に蠱惑な美女。
そんな言葉にも、同じような口説きにも慣れていそうだが、目の前の男からの言葉は全く信じられていないようだ。
「・・本気なのだけどなぁ」
「私が貴方を知らないとでも思ってるの?」
「おっと。これは名乗り遅れました。俺は―――」
「ゼウロス・レオンハート。よく知ってるわ」
男は満面の笑みを向け膝を付いた。
「お見知りおきを、麗しきリャナンシーの君」
―――・・なに、これ・・
場面は季節が変わり、花畑も青さを無くし、閑散とした枯れ枝ばかりになっていた。
「また、来たの?」
「ごめん。待たせたね」
「・・いや、待ってないのだけど」
「今日も綺麗だよ」
「・・全然会話が成り立たないわ・・・」
「俺との会話を楽しんでくれるのか!」
「なら、せめて人の話は聞きなさいよ!!」
秋の色濃い花畑の中、彼女は腰を下ろしていた。
そこに相変わらずのテンションでゼウロスはやって来て、隣に腰を降ろした。
「・・隣に座っていいなんて、許可していないのだけど」
「そうかい?なら・・」
「?」
立ち上がったゼウロスは彼女の後ろに回った。それを不審な目で追っていったが次の瞬間。
「ひゃっ!?」
「これならいいかい?」
背後に回ったゼウロスは彼女を後ろから抱くように腰を落とした。
ゼウロスの腕は彼女の腰に巻かれ、息遣いも耳を掠めるほどに近い。
「にゃ、にゃ、にゃにをっ。何をしているのよ!?」
「ん?何って。隣じゃ嫌だって言うから」
「隣に座るよりヒドイ状態なのだけど!?」
絶対にわざとだと確信できる悪戯な笑み。しかも腰に固定された腕は決して離れない。
さらに、ゼウロスは首筋に顔を埋めた。
「ひゃっ!?ちょっ、ちょっと!?」
「はぁ・・。久々だから補充させて」
「久々ってっ、三日しか空いてないじゃない!!」
「・・・ダメかい?」
「・・ぅぐっ」
捨てられた子犬のように見つめられ、言葉につまらせた。
他の男なら上手く手玉に取れるのに、ゼウロスに対しては上手く出来なかった。
「・・・貴方。本当に『誘惑』が効いていなのか、疑わしくなってくるわ」
「君の魅力の虜ではあるよ」
「・・・そういう意味じゃないのだけど・・」
「寧ろ他の男たちに嫉妬さえ覚えるよ。君の『誘惑』にかかれるなんて・・。羨ましい限りだ」
「・・・あぁ、そう・・」
ゼウロスの不満気な主張に、彼女は明らかに引いていた。
しかし、それでもその身を離すことなく、寧ろ諦めたように身を預けた。
「それで?今日は、ヴァイオリンは弾かないの?・・こんな体制で」
「君が望むなら」
「いや・・別に望んでなんかいないのだけど・・」
当然ゼウロスにその声は届かない。
それどころか、立ち上がることもなく、腰に巻かれた腕に力が込められた。
「しかし、こんなにも君に惹かれているのに、なんでか、演奏の腕は上がらないな」
「知らないわよ。・・そもそもリャナンシーが『音楽』の才能を与えるなんて特性、当の私たちだって知らないのだけど」
「・・きっと君たちの美しさを称えるには、普通の言葉じゃ足りなかったのだろうね」
「・・よくも毎度毎度そんな歯の浮くような台詞をいえるわね」
「ん?別に我が家では普通だよ?」
「・・そうだったわ」
「それに・・俺らは人より与えられた時間が短いからな。その時の気持ちを出来るだけ言葉と行動で示す本能があるのかもな」
その時ゼウロスの腕は無意識に握り締められた。
悠久の時を生きる妖精と、短命な魔導王。
「今日もありがとう。綺麗だよ」
「・・別に、貴方の為じゃないのだけど」
天邪鬼な返答。その証拠にゼウロスの腕を掴むその手は優しく引き寄せを増した。
「え?始めて出会ったままの姿なのは、俺が『綺麗だ』と褒めたからだと思っていたのに」
「っ!?」
「・・じゃぁなんでいつも、角も尻尾も羽も隠しているんだ?」
「あ、貴方の、た、為、じゃ、ないわ!!こ、これは・・その・・えっと、そうよ!リャナンシーとして人を惑わすためよ!!」
「むー。俺以外を惑わそうなんていけない子だ。・・でもそうだな。俺なら君がどんな姿でも惚れるだろうし」
「なっ!?」
「・・残念ながら、関係無かったか」
「・・・関係、無くも、無い・・」
ゼウロスの腕の中、膝を抱えるように俯く彼女。
最後の呟きはゼウロスにも届かない程に、小さく。風に掻き消えた。
「他の女性たちはそうだったんだけどなぁ」
「・・は?」
「あぁ。今まで他の女性たちは、俺が一つ褒めるとそれを大事にしていたからな。髪飾りを褒めれば、その髪飾りを必ず身に付け、それにあった装いを選ぶし。お茶を褒めれば茶器から見直して、流派まで作ってたし」
「・・・・・」
「だから、女性とはそういうものだと思っ!?痛っ!?」
ゼウロスの顔面に彼女の後頭部がクリーンヒットした。
しかもそれは狙ったもの。明らかに勢いをつけて頭を振った。
「何っ!?何、何!?」
「うるさい!離して!!このタラシ!!女の敵!!!!」
腰に固定された腕は離されることはないが、彼女はそれでもゼウロスの腕の中で大いに暴れ、抗っていた。
―――リャナンシーとレオンハート?・・これは何なんだ?
乾燥した空気が肌を刺すほどに冷え込んだ花畑。
そこに澄んで通る旋律。美しく弾むようであり、歌うような弦の音。
彼女は、その旋律の先を見つめ、柔らかな表情を向けていた。
「・・んー。まだ、音が振れるなぁ」
「そう?十分綺麗な演奏だったと思うのだけど?」
ゼウロスはヴァイオリンを顎から外し、彼女の隣に並んで腰を降ろした。
「『誘惑』だけじゃなく『音楽の才』も無効化してしまうのかな」
「あら。利用価値のない女は捨てられるのかしら。貴方にそんな下心があったなんて残念だわ」
「確かに、下心は大いにあるけどね」
そう言ってゼウロスは頬に口付けた。
彼女はそれに応えるように、ゼウロスの肩に頭を預けた。
「・・大丈夫なの?」
「ん?何がだい?」
「毎日、変わらず来てくれるのは嬉しいのだけど・・今は忙しいのでしょう?」
「・・心配をかけてしまって、ごめんな」
「・・いえ・・」
「でも、忙しいからといって君に会えないのでは本末転倒だろう?」
ゼウロスは肩を抱き寄せ、彼女もそれに身を委ねた。
「私にも・・何か・・」
彼女は体を起こしゼウロスに向き合い、強い眼差しを向けた。
「ゼウロス。私に出来ることがあれば何でも言って。私だって・・・って、何よ、その顔」
訝しむように眉を潜めたその視線の先、ゼウロスは悪戯な笑みを浮かべていた。
明らかに悪い予感しかせず、少しずつ身を引くが、間髪入れずゼウロスの腕が彼女の腰を引き寄せた。
「ねぇ」
「な、何?」
「今、『何でも』って言った?」
「え?・・えぇ。・・・っ!?あっ!?違うわよ!?何でもっていうのは」
「何をお願いしようかなぁ~」
「ダメだからね!!『何でも』って『何でも』じゃないからねっ!?」
必死な彼女を誂うように陽気なゼウロス。
「なぁ」
「待って!!何事にも順序があると思うの。それに心の準備も・・。と、とにかく」
「君の名前を教えてくれないか?」
「え?・・・」
二人は時を止めたように見つめ合った。
「妖精にとって『名前』がどういったものかは、わかってる」
「・・・」
「・・やっぱり、駄目かい?」
ゼウロスの言葉に彼女は顔を伏せたが、首を横に振って否定を示した。
安堵したように微笑むゼウロスだが、怯えたように震える彼女の様子は変わらない。
「―――いの・・」
「ん?」
「・・無いの・・名前・・」
「え?・・でも妖精は『真名』を必ず持っていて、それが存在を固定しているんじゃないのか?だからこそ『真名』を知られれば全てを支配されてしまうって。・・それが理由で名前を教えてくれなかったんじゃなかったのか?」
「・・・ごめんなさい。黙っていて・・こんな私じゃ」
「なんだぁ」
大きな安堵の溜息に彼女は驚き顔を上げた。
そこには憂いから解放されたように微笑むゼウロスの顔が目の前にあった。
「『なんだぁ』って・・。いいの?私、『名無し』なのよ?」
「てっきり俺は、君を奴隷にするようなヒドイ男だと思われているのだと思っていたよ。・・いや、そういった願望を抱いたことがないと言ったら嘘になるが・・」
「・・最低」
「・・・とにかく、そうじゃなかったのなら良かったよ。それに、『名無し』と蔑すむような慣習は人間にはないよ」
「でも、貴方は・・『魔導師』でしょ・・・」
「それで、俺が嫌うと思っていたの?」
「・・・」
「残念ながら、俺は君の事を、何があっても手放すつもりがないね」
喉を引きつらせ涙を流した彼女の顎を押し上げ、ゼウロスは唇を重ねた。
そして彼女はゼウロスの首に腕を回し、ゼウロスの首筋に顔を埋めた。ゼウロスはそんな彼女をあやす様に頭を撫でた。
「というか、今じゃ『魔術師』にだってそんな慣習残ってないよ。『奴隷制度』だってかなり昔に廃止されたし、そもそも魔術師に成れないだけで蔑まれたのなんて百年以上前の黒歴史だよ」
「・・・そうなの?」
「君が俺よりかなりの年上だということはわかったよ」
「・・・こんなお婆ちゃんは、嫌?」
ゼウロスはフッと笑みを零すと、彼女を力強く、包み込むように抱き寄せた。
「君じゃないと嫌だ」
ゼウロスは鼻を擽る彼女の髪に誘わられ、顔を埋めた。
「今度生まれるジキルドの子だけどな」
「うん」
「俺の愛称から『ゼウス』という名前になったんだ」
「素敵な名前」
思わず頬が綻んでしまう。
「それでだけど・・君にも愛称で呼んで欲しいんだ。家族だけの愛称で」
「・・・ふふ。紛らわしくなりそうね」
彼女の声も明るく、震えた涙の声はもうない。
「それと・・君の名前も、俺が付けていいかな?」
「妖精に『名付け』なんて。私は一生貴方のものになってしまうわね」
彼女の声には誂うような明るさだけで、嫌がる様子はない。
「何か希望はあるかい?」
「そうねぇ・・。・・ルーティ、キャトレイ、コンテリィナ―――」
その後も永遠続く名前たち。
ゼウロスは言葉を失い、動きも止まってしまっていた。
「―――サディフィル、ルルファ」
「・・・」
「これらは嫌ね」
「・・・な、んで」
「何で嫌なのかって?それとも、何で『知っている』のかって?」
「・・・」
「過去の女の名前で呼ばれるのなんて嫌よ」
「はい・・」
ゼウロスがいつも彼女に向けるのは笑顔ばかり、だが、これまでこれほど引き攣った笑みは無かった。
「でも、それなら俺だって君の昔の男と同じ名前では呼びたくない」
「あぁ。それなら大丈夫よ。私、今まで誰にもとり憑いた事ないもの」
「え?・・リャナンシーなのに?」
「そう。リャナンシーなのに」
朗々と名が挙がったゼウロスより、淫魔とさえ呼ばれるリャナンシーの方が清い事にゼウロスはバツが悪くなり視線を外した、それを彼女は意地悪に見つめた。
「リャナンシーは男の精気を吸って始めて『格』を得るの。『名無し』の私はそれをしてなかったって事。そもそもそれで得られる『真名』だって、その男の過去の女や妄想の女の名前がほとんどなのだもの、嫌になっちゃうわよね」
「・・なんだか自分が酷く汚れているように思えるよ」
「あら。私はそんな貴方も素敵だと思うわよ?」
落ち込むゼウロスの姿さえ愛おしく、腕の力を強めた。
「・・『蒲公英』が芽吹いたのは俺の方だったな」
「ん?たんぽぽ?・・春にはこの花畑にもいっぱい咲くけど?」
「いや。・・なんでもない」
その時のゼウロスの表情を彼女は知らない。
覚悟を決めたような真剣な表情を。
「なぁ。『アンヌ』なんてどうだ?」
「名前?・・もしかしてリャナンシーだから?」
「え?安直かな?」
「『真名』なのよ?知られてはいけないのよ?・・普段はなんて呼ぶつもり?まさか『ナンシー』じゃないでしょうね?」
「・・・あぁ。確かに・・」
「まぁ、でも、『愛しの君』って言うのは嫌いじゃないわ。『妖精の恋人』には相応しい名前だもの」
「『俺の』、『愛おしい人』ね」
そこで二人は少し身を離し、見つめ合った。
「始めて出会ったあの日からずっと、愛してるよ。アンヌ。」
「私も、愛してるわ。ゼウス」
ふたりの影は再び重なった。
―――これって、『妖精の恋人』の・・。魔術の・・中・・?




