2 目覚め
二羽の白い鳥が舞い、その影が馴染む同色の積乱雲。
抜けた先には目の冴えるような青空が広がり。
更にその先、そこに臨めるのは濃淡に色彩豊かな深緑の山々。
そして、幾数もの大小様々な湖達。
湖は澄み渡り、水の底など何の違和感を覚えることもない程に容易く見える。
それも、少し角度を変えただけで空を写す鏡面となり空と湖、その境界を曖昧とする。
汚れ一つ無い、清く美しい湖。
その湖上には賑やかに栄えた都市があり、中心には流線型の高く聳えたる蒼城がある。
美しく荘厳な蒼城。
その城は太陽の光を纒い、湖面からの揺らめく反射によって更なる神秘的な魅力を醸している。
目の前を金色の筋が箒星のように尾を引きながら様々な軌跡を描いていた。
金色の大輪花。
暗闇の中、描かれた金の花は線香花火のように弾けながらも箒星自身の軌跡を損わせることなどない。
寧ろ、その軌跡と共に更なる輝きを増していく。
煌びやかで美しい金の軌跡。
目が奪われる程に美しく、その軌跡は次第に遠ざかっていく。
それを名残惜しく感じながら、微睡む心地に身を預けていた。
―――ん
そして、静かに瞼を震わした。
―――ん?
思ったように体が動かせない。
体が重い。
しかもそれは、例えや比喩などではなく。
事実として鉛のように重く、そして鈍かった。
寝ぼけたようにはっきりしない思考の片隅。
それでもなんとなく自力での解決に見切りは付けられていた。
その為、誰かに助けを求めるべく声を上げたのだ。
「ん。ばぁー。あー」
―――・・・・・ん?
確かに言葉を紡いだ、筈、だった。
微睡んでいた思考がゆっくりと浮上してきた。
―――・・・
―――へ?・・・・
「んっぎゃーーーーーーーーーーーっ!?」
驚愕。
声が出しにくいだけではない。
言葉も紡げはしなかった。
だが、いや、しかしそうではない。
そういう問題ではないのだ。
発声云々以前の問題。
か細く震えくぐもった高音。
声と呼ぶには至らない程に不安定な音。
当然、知己である筈の自身の声ではない。
どう聞き間違っても同じではない。
決して似ても似つかない声。
それなのに、その音を発したのは確実に自分自身なのだ。
声帯の震え、息の通る感覚。
たったそれだけ。でもたったそれだけの事が何よりも雄弁に証明していた。
自身の身に何が起こっているのか。
理解が及ばない現状。
視界はボヤけて明瞭ではない。体は鉛のようで自由に動かない。
その上、言葉さえ紡ぐ事が叶わない。
耳に届く音は遠く、やっと届いたのは自身が発した筈の高音。
それはまるで、赤子のような声音。
―――・・・赤ちゃん?・・いやいやないない。たぶん体調でも崩したんだ。きっとそうだ。うん。そうに違いない。聞いたことあるもん。動けない程とか口も聞けない程とかっていう症状。耳がおかしいのもその一つだ。うん。そうだ。そういえば最近引越しやら引き継ぎやらと新生活に向けて忙しかったしな。うん。・・・ここってどこだろう?電車の中?・・でもこの感触シーツかな?じゃぁ病院?うわぁ。電車の中でぶっ倒れたのかなぁ・・
駆け巡るように目を覚ました思考だったが、驚きや焦りはすぐさま冷静さに押し込めた。
自身に言い聞かせるようにして混乱から目をそらしたようにも見えたが、おかげで落ち着きを取り戻せた。
あとは現状を冷静に分析し、把握する事が先決だと切り替える事も出来る。
だが、そんな安直さは再びの混乱を前にいとも崩れた。
思考停止。
それもその筈。
何しろありえない感覚なのだから。
ぼやけた視界に急に現れた影。その次の瞬間には体が浮いたのだ。
いや、正しくはその影に優しく体を抱き上げられたのだ。
その感覚は懐かしいもので、潜在意識下には確かに覚えはあった。
でも、それは何十年も前の事の筈。
もはや記憶さえ曖昧な程に昔の。幼き時分の頃の感覚。
恐怖しか沸かない。
成人男性を子でもあやすかのように抱き上げられた現実に身が震える。
その瞬間、その感情は塞き止められる事なく素直なままに溢れた。
何故だか感情の制御が出来ない。
耳をつんざめく音はやはり自身の声なのだろう。
喉が痛い。
しかしそれでも抑えられない。
頬を伝うのが涙だと理解しながらも、それを止めることもできない。
そんな自身の戸惑いと裏腹に影はなんの戸惑いも感じられない。
ただ心なしか抱き方に包容力を増した。
その影は柔らかな香りがして、触れる身体は柔らかく暖かい。
母を思い出すような安心感がそこにはあり、泣き叫び震える程の恐怖を溶かしてしまう。
ぼやけた視界。色彩もモノトーンで何もわからない筈の視界。
だが、鼻先に触れる程にまで寄せた影の表情は朧げながらも認識出来た。
それは、優しく微笑む年若い女性だった。
朧げな輪郭の中でも分かるほどに慈愛に満ちた表情。
絶句した。
「**********」
くぐもった声は何を言っているのか聞き取る事はできない。
水中で音を聞くような感覚。
それでも。そんな中でもわかる程に明らかな女性の声。
そこで改めて感じる匂いや感触。間違いなく女性のそれだ。
冷静であろうとした思考は今や思考停止をしてアラートをかき鳴らしている。
四捨五入で三十路の男が目測二十代の年若い女性にあやされるように抱き上げられる。
一体どんな状況だというのだろう。
意味不明。理解不能。「はいそうですか」などと簡単に受け入れられる訳が無い。
混乱必至でしかない。
いつの間に泣き止んでいたのか。
女性の安心感溢れる包容力故か。
それとも何一つ着いて行けていない思考の混乱からか。
どちらにしたって、その手柄は目の前の女性のものであるのは確かだ。
そして、重い瞼は抵抗を許さず静かに重さを増していった。
様々な思考と共に意識を手放す事しかできずに。
―――意味わかんないよ・・
幾度目覚めようと変わらぬ現実。
最初は夢を見ているのだと思った。
だがその夢は覚める兆しを見せない。
その中で泣き喚いたのも一度や二度ではない。
アラサーのガン泣き。
正直、その羞恥は思考を取り戻す助力となってくれはした。
だがそれを前向きには捉えられない。
身を持ってわかったのは、どうやら感情の制御が現状困難という事。
そして、僅かな感情の起伏さえ過剰に出てしまうと考えたあたりから状況を把握出来始めた。
掻い摘んで言うと、どうやら生まれ変わったらしい。
正直、本人さえ意味が分からないと言葉を失った現実。
・・・まぁ、言葉は発せないのだが。
最後の記憶は電車の中。
そこで急死したのか。それとも朦朧とした意識となって別の場所で死んだのか。病院へ搬送され力及ばずだったのか、それとも意識が長く戻らなかったのか。
記憶を一部。具体的にはあの日からの記憶を失っていて。全く違うところで死んだのかとも思ったが、そこまでの記憶は明瞭であるためあまり可能性はなさそうだ。
だからおそらくはあの日、電車の中で何かがあって。それが死因となったのだという結論に至った。
この結論にさえ、至り、向き合うまでにかなりの葛藤と時間がかかった。
当然、未だに納得はもちろん受け入れきれてさえいない。
夢のスタートラインに立てるという矢先の事。
様々な準備や浮ついた様な予定も立てていたのだ。
当然やり残した事など多すぎるし、未練が残らないはずがない。
家族に外国へ行く前に会う約束をしていたし、その他にも別れの挨拶をするはずだった何人もの友人や知人に予定を取ってもらっていた。
それなのに海の向こうどころか今生の別れとなった。
自身の死。それは、受け入れ難い現実だった。
まだまだこれからなのに・・。と嘆き。
結果、年若い女性にあやされた事も少なくない。
これほど複雑怪奇な心情は、なんとも形容しがたい。
しかしそれと同時に自身の死という信じがたい真実は今のこの現状を客観視させる一助となってくれてもいた。
今の自身は生まれたての赤子なのだと納得はできないにしても受け止めることはできた。
現実離れしたこの状況を混乱から抑制出来たのはそんな感情や思考が入り乱れた複雑な内心故だったのだろう。
もがく様な思考や想いを抱えながら、一口ずつ飲み込み少しずつ置かれた状況に馴染む。
簡単なことではないが少し経つと大きく感情を揺らすことも減ってきた。
残してきた者達を想い、哀郷の念に押しつぶされそうになる事もある。
後一歩。叶えられずに終わった夢に涙が伝うこともある。
それでも少しずつ慣れて馴染む。
それは適応なのか防衛なのかは分からないけれども。
赤子の肉体。それを理解した瞬間は納得と複雑な思いだった。
だがそれさえ分かってしまえば、順応こそ容易くはないが対応自体は早くできるようになった。
動けない事も、五感が鈍い事も、理由が明確になれば不思議と不都合にはならなかった。
それどころか僅かな進歩にさえ感動や達成感が沸く程。
その最たるものは抱き上げられることである。
最初は慣れない感覚に恐怖や羞恥心が勝っていたが、今では渇望するほどに心地よく安らげる時間となってしまった。
元・アラサーのおじさんとしては如何な物かとは思うが・・。
いったい最初の目覚めからどれだけの時がたったのだろうか。
時間の概念があまりに希薄となってしまっている。
ほとんど時間を寝て過ごし、起きてもまたすぐに眠くなる。
この肉体の強い睡眠欲求はあまりに抗い難く、どれだけ起きてどれだけ寝ていたのかなどという判断基準は全くの役に立たない。
時計はあるのかわからないが視界に捉えるのも叶わない。
それどころか未発達の視力では今感じている光が太陽光か人工光かの区別さえ曖昧だったので一日のサイクルなんてわかったものじゃなかった。
ましてや初期の混乱と戦っていた頃など、もはや目算も出来ない。
―――・・・二、三ヶ月くらい?・・かな・・
長くも感じたが実際はそこまで経っていないのではないかと思った故の答え。
もちろん、そこにはなんの根拠も確証もない。
目測にしてもガバガバの体感予測だ。
それでも『短くはない』と、そう思ったのは自身の身にかなりの変化があったからだった。
朧げで霧の中にいるような、不明瞭でモノクロだった視界。
それが今ではメガネさえあれば、遜色ないほどに見えるのではないかと思える程には発達してきた。
ぼやけてはいるし、色彩もまだ足りない。だが、それでも雲泥の差である。
むしろ色彩などは現時点でも豊かで、おそらくこのままいけば前世の頃よりも遥かに色鮮やかな視界となるのではないかと楽しみでもある。
水の中にいるようだった聴力も発達した。
大きな音は身を強ばらせるほど鮮明に聞こえ、小さな音や会話もフィルターを通したようにではあるものの確実に拾える程度にはなってきた。
確かな成長。
アラサーの精神はそんな事実に少し複雑な想いを抱きながらも素直に嬉しかった。
その上、成長は更なる考察材料を増やしてくれた。
明瞭ではない視界。
それでも、この場所は日本ではないという事がわかった。
部屋の細部までは分からないが西洋レトロな内装は豪華で部屋も広い。
そして、様子を伺ったり、世話を焼いてくれるのは人間の姿。
それも西洋人のようなはっきりとした顔立ち。
ついでにその際に恐る恐る自身の姿を確かめようと腕を視界にいれて、ようやく自身が赤子であるという事実に決着もついてしまった。
むちむちとした肉付きのいい白い腕に、おもわず諦念から嘆息をこぼした。
話を戻し、その人たちの会話は当然日本語ではなかったが英語でもなかった。
英語ならなんとなくわかったが、他の言語では有名な単語程度しか知らない。
当然彼ら彼女らが話す言葉など一音も理解できず、今は必死にリスニング中である。
幸いにも向けられる言葉は甘く柔らかな響きなので、おそらく『赤ちゃん言葉』なのだろう。
聞き取りやすく、覚えやすい言葉が多い。
まだ心許なくはあるが着実に成長と順応をしている。
その中でも特に成長著しいのは運動能力だ。
最初は鉛のようだった身体。
全身に力が伝わらず腕を上げるにも難儀した筋力。
それでも少しずつ。
本当に少しずつではあったが、体に伝う力は増えていっている。
布団を握ったり、掲げてみたり。首を揺らしたり、足をバタつかせてみたり。
寝ながら少しずつの鍛錬。
それは徐々に成果をだし、仰向けのまま足で踏ん張って体が動いた時には少し感動した。
寝返りがうてた時など泣くほどに感動した。・・・いや、実際泣いてあやされた。
ハイハイこそまだできないが最近では上体を腕の力のみで起こし支える事も出来るまでになった。
それには自身だけではなく周りの人間も拍手をして称賛してくれた。
まぁ持続時間は頑張っても一秒ちょっとではあるのだが。それでも大きな成果だった。
だがそこまで身体を動かせるようになると違和感にも気づいてしまった。
その違和感は前世を生きた記憶があるゆえの相違という感覚だった。
身体を動かそうと意識を流す度に感じる違和感。
例えるならば血流のように何かの流れのような感覚。もちろん本来なら意識したとしても血流の流れを感知するのは難しい。
だからあくまでイメージであるのだが。
血流よりやや存在感のある程度でしかないが、前世にはなかった感覚は際立って感じてしまう。
その流れは、抱かれたときや触れられたりした時に相手からも感じることがあった。
その事に自分だけが特異ではないのだと安堵したが、既にこの状況が充分に特異である事は置き去りだった。
体を動かそうと強く意識を集中させると勝手に流れる感覚。
そこで意識してその違和感だけに集中してみたら、ぎこちなくながらも意思に沿って動いた。
しかもその感覚はなんだか心地いい。
だが同時にえらく疲れた。
心地いい感覚も相まって意識を刈り取るのはあまりに容易かった。
なんとなくその正体に「もしかしたら・・」的な想像はあったが明確にすることは避けた。
全く知らない言語の時点で掠めた考え。
もちろん期待や好奇心がないわけではなかったが、生まれ変わったという事実にさえ向き合えていないのにその新たな現実に向き合えるだけの覚悟はなかった。
そしていつの間にか、その感覚に触れるのが癖になっていた。
長い髪の毛先を弄るような、爪を噛むような。無意識な癖。
なんとなく落ち着くような感覚は、おそらくこの事に気づく前から無意識にやっていたのだろう。
そしてそんな事をこれまでしていたからいつも眠かったのではないかと得心してしまった。
その正体に勘付きながらも明確にしない。
だが、正体は容易く示された。
いつも側にいて世話をしてくれている二人の女性。
しかしどちらも母ではない。
どうやら今世の実家はお金持ちらしい。
・・ニヒルにニヤつく赤子は傍からどう見えるのだろう。
二人の女性のうち一人が甘い声色で話しかけて来た。
「********、***」
仰向けに寝転がる赤ん坊を覗き込むようにして声をかけてきたその女性は、何やら話しているがまだリスニングの成果は乏しい。
軽く片手を掲げたのはおぼろ気な視界にもわかった。
故にその手に注目できたのだが・・。
―――っ!?
もうひとりの女性が慌てて声を上げ、甘い声色で話しかけてくれていた女性を勢いよく叱責しだした。
彼女はその叱責に肩をすぼめ言葉を浴びている。
その姿は犬ならば耳と尻尾を垂れさせて猛省していると想像させる。
だが、重要なのはそこではなかった。
というかそんな事に意識を割いてはいられなかった。
今、目の前で起きた現象にこそ全ての意識を奪われてしまった。
予測は事実となり。
目を背けられぬ程に示された答え。
言葉を発した途端、彼女の手には『火の玉』が浮いていたのだ。
おぼろげな視界にも明瞭に映った『火の玉』。
その理屈や条件はわからない。
それでもそれを目にした瞬間、目を奪われ。
そして歓喜した。
―――魔法だーーーーーー!!!
・・これまでの重い悩みや葛藤はなんだったのだろう。
そう思うほどに好奇心や憧れに湧き上がる興奮に素直な赤子。
おそらく体が自由に動くのならば、何度も飛び上がり、転げ回り、大声を上げ駆け回っていただろうと簡単にわかる程の歓喜。
清々しいまでの手のひら返し。
いや、切り替えだろうか・・。
ともかく暗い心情や同情は無駄な心配だったらしい。
―――この世界には魔法があるんだ!!ぃやっっったーーーーー!!!
そう。薄々は感じていたがここは地球ではない。
俗に言う、異世界。
―――それならっ!俺にも使えるかも・・ふふ・・・ふふふ・・
それにしてもこの打って変わったような浮かれよう・・。
腹立たしささえ覚える。
前世の記憶がある故に魔法への憧れや想いが強い。
故に感情の大爆発。
有頂天。
もはや他の何もがその思考から彼方へ逝き、興奮だけが支配している。
本当に心からの同情を返して欲しい・・。
しかもその晩、早くも自重という言葉を知って欲しくなった。




