1 キノコスープ Ⅳ
私自身も。
その場にいた面々も。
私の腕の中から溢れた光に、思うのは。
想像には難くない最悪の結末。
・・・。
ですが、その瞬間が訪れることはありませんでした。
「え・・?」
ようやく声が漏れた時には、腕の中にあったはずの光は終息していて。
そこには静かに寝息を立てる生まれたての赤子が穏やかに抱かれているだけでした。
「・・何も・・ないのか?」
そう零したのは閣下でした。
その言葉に、その場の誰もが同じ気持ちでした。
皆がその場に固まってしまい、動けず。
只々、懐疑的な視線を私に向けるのみです。
一時の沈黙の中いち早く我に帰った私はみっともなく床に座っているのを思い出しました。
急ぎ立ち上がろうと、手早く佇まいを整えようとしましたが失敗してしまいました。
「っ!?」
「マリアッ!」
リリア様の悲鳴が聞こえました。
ですが、そんな悲壮な顔はしなくとも心配ありませんよ。
2、3歩、少々ふらついてしまいましたが直ぐに微笑んでみせました。
それを見て多少の安堵が生まれたのか、リリア様の表情も和らぎました。
ですが私のそれはやはり強がりでしかありません。
どこか酩酊したように頭がふらつきますし。出来ることならばいっそのこと倒れ込んでしまいたいほどです。
しかしそれも両側からの支えができて助けられました。
駆け寄ってくれた同僚の侍女たちには感謝しかありません。
三人で私の体を支え、その中にはここ最近指導し続けたミミもいます。
しかもそのミミは今にも泣きそうに瞳を揺らしています。
―――全く・・侍女がそんなに感情を表に出すものじゃありませんよ・・
そんな事を心で嘆息しながら、それでもその震える手ですら今の私には心強いものでした。
私がゆっくりと歩みを進めると、彼女たちもそんな私の覚束無い足並みに合わせて支えるように寄り添ってくれました。
「・・リリア様」
「・・・マリア」
私たちは互いに見つめ合いながら声を掛け合いました。
私が視線を落とすと、リリア様も私の視線を追うようにして私の腕の中へと視線を動かします。
そして朗らかに微笑むと遠慮がちに手を伸ばしました。
「私の天使・・」
リリア様の愛おしげに伸ばされた手。
しかし、その腕の中に贈る前に御子様の体を清めなければなりません。
未だその身は羊水まみれな上に早くも乾き始めています。
年若い方の産婆がリリア様に「少々お待ちください」と制し、私の腕の中から御子様を受け取って急ぎ用意されていた桶で湯浴みをさせ始めました。
その周りにはローブの大人たちが集まり囲んでいます。
「マリア」
それを視線で追っていた私をリリア様が呼びました。
振向くが早いかどうかという瞬間に私の腕は強く引かれ吸い込まれるかのようにベットへと体を預けてしまいました。。
「っリ、リリア様!?」
先程まで支えてくれていた同僚たちもなんの抵抗もなくその支えを離していました。
寧ろその瞬間にそそくさと下がってしまいました。
「ダメよ。明らかにふらふらなのだから無理をせず腰を下ろしなさい」
「で、でしたら少し下がりますので」
「イヤよ。マリアが側にいないと不安だわ」
「ならば!お側に椅子を用意いたしますので」
「・・・・」
子供のように口を尖らせ、遂には聞こえないふり。
私は出来るだけリリア様に間を開けるようにしましたが腕を引く力があまりにも強いです。
「リリア様。私は今汚れておりますので・・」
私の服や肌には羊水や血がつき、白いエプロンなどはわかりやすく悲惨な状況です。
そんな状態の私がベットに入ってしまえばシーツは汚れるしリリア様自身にもその汚れがついてしまいます。
しかし、当のリリア様はジト目を向け無言の圧。
そして「構わないわ」と一言告げるのみで、そこまでとなってしまいました。
思わずため息が溢れるのは仕方のないことではありませんか。
「リリア様。少しお体の具合を見させて頂きたいのですがよろしいですか?」
老父の医師とその助手がリリア様の側に寄りました。
リリア様は朗らかな表情で頷き「お願いします」と横になりましたが私の腕だけは離してくれないようです。
寧ろ力を抜いて医師に体を預けているのに、私の腕を掴む手には一切の加減がありません。
「・・ふむ。何も問題がないようですな」
「え?何もですか?」
思わず私の方が反応してしまいました。
当のリリア様も同じだったのでしょう。ぽかんとした表情で口を開けていました。
老躯の医師は深いシワによって険しく見える表情で検診していました。
触診や聴診、瞳孔や脈拍まで事細く診て、最後に手を握りしばし目を瞑ると愛好を崩してそう診断したのです。
ですが私達にはそれが信じられませんでした。
私の言葉にリリア様も同意するように瞳を揺らしています。
それでも医師の診断は変わらないようで穏やかな口調で「ええ、何も」と説かれるのみです。
「・・ですが、リリア様は・・・」
そこで言葉に詰まった私は、湯浴みを終え柔らかなタオルで体を拭かれている御子様に視線がいってしまいました。
「・・キルケーの蕾」
「存じております」
絞り出した声にも、医師はすぐさま返してきました。
その言葉の意味を確かに理解している医師は、それでも診断に変わりはないと告げるのみです。
私はリリア様と視線を交わして、もう一度医師を見つめましたが医師の表情は変わりません。
それでも懐疑的な視線を向ける私達。
医師は少し困ったように頬を掻きながら浅くベットに腰を落としました。
「マリア夫人。貴方の初診も私が担当いたしました。私は娘をキルケーの蕾で亡くしています。それ故に他の医師よりは深く学び詳しくあると自負しております。この領で頂いた今の地位や名誉もその成果がほとんどです。自分で言うのも如何なものかとは思いますがキルケーの蕾に関しては第一人者と言ってもいい程だと思いますよ」
それはほかでもない私自身が一番わかっていました。
あらゆる伝手を使って調べ足を運んで、それでも目の前の医師以上の人はいませんでした。
「しかし、リリア様の症状は私以上に酷いものでした。先程溢れた光も並のものではありませんでしたし・・」
「そのことなのですが・・マリア夫人。少し診断させてさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「え?・・は、はい・・」
私の頭には疑問符が浮かびました。
それはリリア様もらしくて、二人で首を傾げてしまいました。
それでも言われるがまま、医師に腕を差し出しました。
医師は私の腕に触れ目を瞑ると一時呼吸を整えました。
「・・やはり。・・マリア夫人」
「・・はい」
「完治しております」
「はい?」
医師の言葉の意味がわかりませんでした。
完治とは?一体何が?
そんな考えで一時の静寂と沈黙がありましたが、すぐさまに理解しました。
話の流れからそれしかないのです。ですが、だからといって何の脈絡もない話でした。
「え!?」
私は混乱に思考が停止してしまいました。
「キルケーの蕾による後遺症が完全に無くなっています」
「「え!?」」
リリア様もその言葉にようやく理解したようです。
勢いよく私に振り返って目を見開きました。
まだ産後の妊婦にも赤子にも近づく許可の降りない閣下。
そんな閣下も事情を知る一人です。
その為、扉の前で私たちと同じように驚きの声を上げています。
主人二人は私の事情を知っています。
他は執事長と侍女長にしか知らせてはいません。
そのふたりは驚きに目を見開いてはいますが声を出さないところを見るに、さすが使用人のトップです。
ですが、他の方々には一切知らせていませんでした。
その為驚きは二重の意味であったようで「マリア様が・・」などと悲しげな視線もあります。
そんな中、一部は実に不満げに表情を歪めています。その中でもミミは特に怒っているようにさえ見えます。
涙さえ溢れそうです。
特にその中の方々は仲良くしていただいていた方たちがほとんどです。
知らされていなかった事、伝えてもらえていなかった事が実に不満なのだとひしひしと感じられます。
「先ほどの光が溢れ、その光が終息するにつれ光がマリア夫人へ巡るようにして消えていったのですが・・」
私はその話にさらに驚いて周りを見ました。
リリア様も閣下も同僚たちも目が合うと深く頷いて同意を示していました。
「・・マリアがふらふらだったのは疲労もあったでしょうけど、そのせいもあると思ったの」
私は少し気だるい体調の変化に今一度意識を向けました。
「その時マリア夫人の中へ消える光の大半が下腹部へ収束していました。さらにほかの光が消えた箇所はキルケーの蕾の後遺症によって症状が強くなる箇所に酷似していました。・・その為もしかしたらと思ったのですが。・・やはり予測通りでした」
「・・・そんなことって。その・・ありえるのですか?」
未だ混乱から言葉が出ない私に変わってリリア様が聞いてくださいました。
「いえ。こんな事は見たことありません。それどころか聞いたことも前例もありません。・・・ですが、治療薬の作用に近いかもしれません。本来初期症状の段階でしか効果が望めない程度の未熟な治療薬ですが原理は非常にそれに近いのではと・・」
「・・ですが、私は・・・末期であると・・・」
ようやく絞り出した言葉にリリア様は悲しげに眉を顰めてしまいました。
その上ミミを筆頭に不満組はさらに不機嫌そうに私を睨んでいます。
これは後で説教でもされそうだ・・。
それになんだか不満組が増えているような気がいたします。
執事長と侍女長・・お二人にお伝えするのを忘れていました・・・。
「はい。なので本来であればありえないのです。治療薬の作用自体は初期症状に効果があるので間違ってはいないのですが、効果を高めるとその分副作用なども強くなるため未だ要研究段階です。ましてや末期と診断される程にステージが進んでいるのであればそこに求められる効能の強さはかなりの物です。・・しかしマリア夫人の体にはほとんど副作用が残っていません。流石にしばらくの安静は摂っていただきますし経過健診も必ず行っていただきますが、恐らくなんの問題もなく完治していると思われます」
「そんな・・」
「マリア・・」
私の頬を涙が伝いました。
安堵。解放。目を背けていた恐怖や不安が今、朝露のように吹き消されていくような感覚です。
リリア様が暖かく抱きしめてくれましたが、それにさえ反応することは出来ませんでした。
頭の中では「リリア様のお召し物が汚れてしまう」等と考えはしますが動く事も言葉を出す事もできません。
溢れる涙と嗚咽。久方ぶりに素直に泣いた感覚。塞き止めることもできない程に止めどなく溢れる今まで押し殺していた感情。
そしてそれは私だけではなかったようで。
リリア様、閣下、同僚たち。その場の皆が涙を堪え、堪えきれずにいました。
「っで、ではっ。リっリリっア様っ、は」
嗚咽の合間にようやく零せた言葉。
非常に聞き取りにくい声だったでしょう。
ですがそれでも老父の医師にはきちんと伝わってくれたようで、愛好に表情を変えた医師は頷くだけで十分に答えてくれました。
その時清潔なタオルケットに包まれた小さな天使が運ばれてきました。
リリア様の腕の中へ抱かれる私たちの天使。
「恐らく、キルケーの蕾であるこの姫御子様がリリア様のお腹の中に居たおかげでキルケーの蕾の後遺症を打ち消してくれたのではないかと思います。・・奇跡の姫御子様ですな」
医師は朗らかにそう告げてくれましたが、私にはそれ以上に言葉にし難いほどに目の前の天使が眩しく神々しく思えて仕方がありませんでした。
「・・神が遣わした天使様。神の御技でございます。奇跡などという、たかだか幸運なこと程度の事ではございません」
私の呟きに困ったように笑うリリア様でしたが苦言はありませんでした。
「では、これからも私たちの天使を守り、助けてくれますか?」
「はい。身命を賭して。永久に感謝と忠誠を」
私は間も開けずにリリア様をまっすぐ見つめ即答いたしました。
しかしリリア様は喉を鳴らして笑いながら「困るわ」と紡がれました。
「貴女は私の忠臣で親友だもの。いくら愛おしい私の天使でも譲れないわ」
いつもの口調でいたずらっぽい仕草のリリア様に私も笑みが溢れてしまいました。
一頻り笑いあった後リリア様は閣下を手招きしました。
閣下は目線だけで老父の医師に確認を取り、頷きが返されると同時に弾かれたように素早く側によってリリア様を抱きしめました。
その後は小さな天使の診断もありました。
未熟児である以外は然したる問題はもないそうです。
それを聞いて再度皆が安堵に似た歓喜をあげたり団欒があったりしましたが、私はすぐさまリリア様の厳命により強制自宅療養とされ瞬く間に送還されてしまいました。
その帰りの道中、馬車の中ではいつもと立場が逆転したミミから多くの苦言をもらってしまいました。
同乗していた侍女長は何も言わず庇ってくれることもありませんでした。
寧ろ終始笑顔の圧力は恐れさえ抱かせるものでした。
自宅に着くなりマークに抱えられた私は自身のベットに入って直ぐに眠ってしまいました。
私に代わりミミと侍女長はマークに事の成り行きを説明してくださいました。
その時の彼の心情は朝目覚めて充血した彼の目を見れば察せてしまいました。
だからその日の朝はメアリィにとって不安な光景だったことでしょう。
自身の両親が二人共泣き笑い抱き合っているのだから無理もありません。
その日、私たち親子三人は目元を赤く晴らして過すことになりました。
更にはミミがマークへリリア様の厳命を誇張した内容と共に伝えてしまったらしく私はしばらく自宅軟禁となってしまいました。
買い物すら渋い顔をされ、家事など何一つとしてさせてもらえませんでした。
唯一の外出の機会である健診でさえリリア様の『配慮』によって二回に一回は医師が往診として自宅に出向いていただけてしまいます。
マークは元々愛妻家の類だと惚気る想いはありましたが、どうやら私が思っていた以上に過保護な夫だったようです。
そんな夫に嘆息と共に少しむず痒いような乙女心を抱く私も十分に困った類の妻なのでしょう。
そんな毎日を過ごす中、一番の癒しとなるのは愛おしい私の小さなレディ。メアリィです。
メアリィもいつも仕事で家にいない私にいつも以上に甘える機会となっているようです。
そして私もまたそんなメアリィを甘やかしてしまうのです。
「めありぃもね。おおきくなったら、まっまといっしょに『じじょ』しゅるの!」
ある日告げられた娘の幼い夢。
誰もが抱く幼い憧れが派生した物です。
それでもやはり私は親として、そんな娘の夢に夢を抱かずにはいられませんでした。
「でしたら、メアリィに会っていただきたい御方がおりますよ。ママの命の恩人で天使様のような御方です」
「てんししゃま?」
「はい」
私の望みをこの娘に託したくなってしまいました。
それはきっと母としては、娘の将来を狭めてしまう事になってしまうのかもしれません。
ですがそれでも、愛おしい娘の幸せを願えば願うほどにそれを望んでしまうのです。
「ついこの間まで夏だったのに冷え込むのが早いですね」
そう言って台所に立つマークに私はメアリィを抱いたまま返事を返しました。
季節は変わり秋の入口。
余命幾許も無いと宣告されたのにその影はもはやどこにもありません。
その奇跡を賜った日からも季節が流れました。
あの小さな天使は未熟児で生まれてしまった為にしばらく面会遮断の上で免疫や成長促進の治療を受けることとなってしまいました。
そこには両親であるリリア様や閣下だけでなく、専属侍女となったミミでさえ頻繁には近づけず、医師や看護師などが常に側にいて様子を見ているそうです。
元々未熟児である以外に問題のなかった小さな天使は、その状態も安定してきたため解除される事となったようです。
しかし、それでも随分に長い療養に気を揉んだのは私だけではなかったでしょう。
そしてその解除の日。それが明日。
私もようやくそれをきっかけにリリア様の厳命が解かれることとなり、明日より復職が叶います。
体調だけで言えばひと月ほど前には既に医師から問題がないと診断を受けることができましたのに、リリア様の厳命が解かれることはありませんでした。
ただ一言「たまにはゆっくりと休みなさい」と、だけ。
「明日からまたお仕事ですからね。少し豪華にしましょう」
そう言ってマークは紙袋から羊肉を取り出し下拵えを始めました。
少し私も浮き足立ってしまいます。
「・・まっま、またおしごと?」
悲しげに瞳を潤ますメアリィに少し後ろ髪が引かれますが「ごめんね」と、微笑んで抱きしめます。
するとメアリィは肩口に顔を埋めて必死に涙を堪えていました。
我が儘を飲み込む姿に「いい子ですね」と声を掛ける反面、我慢を強いて言えなくしてしまっている事に申し訳なさと不安を抱きます。
マークもそんな私と同じ気持ちのようで苦笑をして視線を交わし合いました。
「さぁメアリィ。今日はママの大好物を作ります。手伝ってくれますか?」
マークの言葉にメアリィは顔を上げて、袖で荒く目を擦ると「はい!」と返事を返しました。
「まだ初秋ですよ?」
「最近、寒くはなってきてはいましたが、そのおかげで今年は少し早めに市場に並んでいました」
それからしばらくして豊かな香りが広がり私は幸せに満たされた。
私の一番好きな人が作ってくれる。
秋の味覚たっぷりのキノコスープ。
私の大好物。
「今年も美味しいです」




