44 音楽の時間
大広間にある、大仰なオルガン。
教会の大聖堂にあるようなそれは、荘厳な音色を響かせる。
だが、それ故にどんなに広いとは言っても、個人の自室に設けるには物理的に不可能。
その為、フィリアはマーリンと共にこの大広間にやって来た。
本日より始まる音楽の授業。
当然フィリアは前世の音楽の授業と重ねることはしない。
これまでのマーリンの授業内容からそんな事は身を持って知っていた。
「では、まず楽譜を渡すわね」
楽譜の読み方・・。などとは愚問。
それくらい、事前に予習して当然の考え。
完全に躾けられたフィリアは当たり前のように受け取った譜面に目を通した。
その目は次第に光を失い、影を落とす。
どう考えても、初心者が入るレベルではない。
まして幼児が馴染むようなものでは決してない。
この世界の音楽の多様性は、前世に比べるとどうしても乏しい。
最新の曲だってフィリアが聞けば『クラシック』という大枠程度にしか捉えられない。
その上、フィリアに渡された曲は、オペラのような戯曲。
民謡とか童謡とかでさえなく、いきなりの高難易度選曲。
当然ながら、フィリアにとっては中々に馴染みのない曲調。
精々ジャズならば聞く機会もあったが、残念ながらそこまで音楽の進歩は進んでいない。
オルガンも同じ。
フィリアもきらきら星くらいしかピアノで弾ける曲はなかったが、それでもオルガンよりも遥かに馴染みのあるピアノを所望した。
だが、残念ながらその願いは叶わなかった。
そもそもこの世界にピアノの存在はなく、最近他国で『ピアノのようなもの』が発明されたばかり。
それだってその国の権力者ですら順番待ちなくらい。当然、他国であるルネージュにまで入って来ることはまだない。
寧ろ、入ってきたところでフィリアには、ピアノとの齟齬がありすぎて逆に馴染みづらいものになったことだろう。
「では、私がオルガンを弾きますから、それに合わせて歌いなさい」
さらっと言うマーリンだが、初見の楽譜と聴いた事のない歌を歌えとは中々に無理難題。
フィリアが楽譜を覚えたのだって昨日の話。ましてや楽譜の作りは前世と全く違うため、時折混ざっては混乱させる。
最近マーリンの指導にも拍車が掛かってきたような気がする。
初めからおかしなスパルタさだったが、半年が過ぎてからは、あれでも今まで猫を被ってましたと言わんばかりにレベルが上がっている。
単にフィリアがマーリンの家庭教師に最長で耐えているだけなのだが、フィリアにそんな悲しき現実を教えるものはいない・・。
「・・・ところで、ろーぐ。あなたは、なにしているのですか」
大きな体躯で褐色の肌。しかし荒々しさよりも清廉堅実の印象を抱かせる身奇麗で紳士的なフィリアの騎士。
彼は白の手袋を丁寧に取って、ミミからバイオリンを受け取っていた。
その逞しい指からは想像できない程に繊細に弦を弾き音を確かめている。
顎で挟み、軽く弾いては調整をする姿は、手馴れていて様になっている。
「何とは?姫様のお手伝いですが?」
「いや。ろーぐのしごとは、わたくしのごえいですよね」
フィリアの言葉にも何一つ動じることはない。
寧ろ、話半分にしか聞いていない気さえする。
「バイオリンは私の唯一の特技ですから、お役に立てて嬉しいかぎりです」
「・・いや、だから・・。あなたは、きし・・」
どうやら半分どころか、全く聞いていないらしい。
あまり表情を変えないローグだが、今の彼がウキウキしているのはフィリアにもわかる。
「姫様が本や夜空に陶酔するのと同じですね」
マリアの言そのままだろう。
更に言えば、フィリアの場合、迷惑な魔術もだ。だがそれを言わないあたりマリアには無意識にトラウマが出来つつある。
というか、騎士なのだから剣の腕などを誇って欲しいと思うのは何もフィリアだけではにだろう。
「最近では姫様のおかげで、練習時間を増やせておりますから、それなりに自信がありますよ」
「・・・」
笑みを向けたローグだったが、対するフィリアはそっと視線を逸らした。
思い当たることに気まずさしかない。その証拠にマリアの笑みも深まった。
フィリアの逃亡癖は未だ日常で、そのお迎えの大半はローグが担っていた。
しかし最近ローグはむやみやたらに追い回す事はしなくり、その代わりに必ず終着地点にて待ち伏せているのだ。
どんなにルートを変えようと、あらかじめ優雅に待機している。もはやフィリアの行動などお見通しと言わんばかりに・・。
その際によく目にするのは、優雅にバイオリンを演奏するローグの姿。
ご丁寧にも、空気振動を魔術で抑え、防音を維持しているため、視界に入るまでフィリアは毎回気づけない。
フィリアの魔力探知からも逃れ、防音まで・・。やはりこの家の騎士は何処かおかしい。
「姫様に教えてもらったあの魔術には、実に助けられております」
「うぐっ・・」
そして、好奇心から本に載っていた防音の魔術をアレンジしてローグに教えたのはフィリア本人。
完全に自分の首を自分で絞めた、自業自得の結末。
「あ、あれは、ろーぐが、どくしんりょうではろくにれんしゅうができないと、いっていたから・・」
既存の防音魔術は複雑な上に規模が大きかった。
そこで好奇心に支配されたフィリアは、前世の知識を用いてアレンジを加えた。
と言っても、内容は単純なもの。空気の振動に振動をぶつけるだけ。所謂、ノイズキャンセルの簡易的な解釈。
別段その仕組みに詳しいわけではないフィリアの思いつきだった為、完璧とは言えないものだったが、それでも効果はあった。
更にはローグ自身が改良をしたのだろう。もはや音漏れなどほとんどない。
「さ、始めるわよ」
主従の残念な掛け合い。
それを無視して、マーリンはオルガンを調整がてら軽く弾いた。
ピアノとは違う、伸びるような音色。
調整の為、単音のみの羅列だったが、それでも綺麗な音。
人の声のように伸びやかで、歌うような音は、次第に増えていき、複雑な音階となっていく。
ローグもその音に酔いしれるように瞼を閉じ、そしてバイオリンを構えた。
もはや調整などとは言えない。完璧なシンフォニー。
聴くものを虜にするだけの魅力ある刹那。
その場にいる者。マリアやミミなどの側近意外にも、大広間の掃除をする使用人達もまた手を止め聞き入っている。
フィリアもまた惹かれるようにマーリンを見つめていた。
―――・・あれは、空気の魔術機構かな。マーリン叔母様から魔力が流れているが、調整も中々繊細だな。・・あ、でも大枠は自動で調整されているな・・なら、マーリン叔母様の微調整は玄人向けの技術かな。普通に演奏するだけなら魔力を流すだけでいいのか・・。あれだな。ピアノのペダルと同じだな。俺には全く使い方がわからんかったけど、なんか表現の幅が広がる的なアレだろ
・・・。
少しは音楽に興味を持って欲しい・・。
この美しいセッションを前にフィリアの興味を惹いたのはオルガンの方だった。
確かに魔道具的な括りだろうし、フィリアが気になるのもわかる。
だが、流石に今だけは、美しいものに惹かれてくれないだろうか・・。
せめて少しでも『普通』を求めて欲しい。
短い演奏会が終わると同時に拍手喝采が沸き起こる。
使用人たちは顔を赤らめるほどに興奮して手を叩いている。
若いお嬢さん方の瞳に灯る熱を見るに、ローグへの求愛はまた増えそうだ。
そして、フィリアも同様に拍手を贈ってはいるが、絶対に何も感じていない。
というか、まともに聞いていたかすら怪しい。
「マーリン様。素晴らしい演奏でした」
「ローグこそ。驚いたわ。実に繊細な表現だったわ」
そんな賞賛を互いに贈り合う二人。
いつの日かフィリアもそこに混ざるはずなのだが・・想像できない。
「しかしマーリン様。姫様にシュートルの『万華』は、早いのではないでしょうか」
「そうかしら?発声の矯正にはちょうどいいと思うのだけど」
「はい。ですが『万華』は音域がかなり広いので、まだ発声が拙い姫様ですと喉に負担をかけてします」
「・・確かにそうね。呼吸法から教えるにも難易度が高いかしら・・」
おっと、なんだか授業内容の変更が相談されている。
これにはフィリアも希望を抱く。
―――ありがとう!ローグ!難易度がおかしいよね。やっぱり
さすが自身の近衛だと感動を覚えた。
マーリンであればいずれ間違いなく理不尽なレベルを求めるだろうが、始めくらい、入門ぐらい、入りやすい難易度がいいと。
「はい。なのでアールトッシュの『ファルミナの夢』はどうでしょう。歌詞もはっきりしたものですし、音域も安定して、ゆっくりとした曲調なので姫様にはちょうどいいかと」
「なるほど・・。でも難易度は一気に上がるわよ?ゆっくりではあるけどそれ故に表現も豊かだから抑揚も複雑になるし」
―――え?・・ローグ?
フィリアの笑みは固まった。
希望の陰りなど一瞬だったようだ。
「何をおっしゃいますか。・・日だまりの中、素足で草原を踏みしめ歩く。美しくも儚い少女。・・だけども快活で、希望に溢れた姿・・。姫様にこれ以上ないほど相応しい曲だと具申致します」
ちなみに難易度は先の曲の十倍とも云われる曲。
オペラでは、主人公のソロで一番の見せ場。
単調なメロディのみで歌い手のヒロインの実力一つで全てが決まる。
そのシーンの善し悪しで作品の全てが決まる程に重要な場面。
つまりは歌い手の実力が如実に表れる曲。
「わかったわ。そこまで言われれば否とは言えないわ。それに『ファルミナの夢』が完璧に歌えるのなんて、国一番の劇場だって数人でしょうし。・・楽しみになってきたわ」
どうやら大事になっていたようだ。
フィリアの悲愴は深まるばかりなのに、二人は寧ろやる気がみなぎり始めている。
はてさて、フィリアはどこを目指しているのだろう・・。
オペラ歌手にでもなるのだろうか・・。
そもそも、この授業のきっかけはフィリアの発声を助ける目的だったはずだが。
どう飛躍したら次世代の『ディーバ』育成計画となるのだろう。
「まりあ・・」
「・・・」
「・・みみ」
「・・・」
「・・・・・・ろくさーぬ・・・」
「・・・・・」
誰ひとりとして目を合わせようとしない。
捨てられた子猫のように彷徨う視線は誰も捉えられない。
「・・・」
というか、さっきまでマーリンとローグのセッションに釘付けだった使用人達よ。
無言で実直に掃除を再開している。
絶対に分かってやっている。
その証拠に恨めしく見つめるフィリアの視線の先のメイド。
そこはさっきも拭いていたし、明らかに背を向けた体勢が不自然極まりない。
「いずれは、デリザポの『黄昏に美しく』を独唱など、いかがでしょう」
「いいわねぇ・・。思い描くだけで吐息が溢れるわぁ・・。あれを完璧に歌えるようになれば、ルネージュを・・いや、世界を代表する歌姫になるのも夢じゃないわ!」
どうやら、フィリアの将来は歌姫らしい。
容姿も将来更に美しくなるだろうし、人気は出るんではなかろうか。
「あっ!?姫さまっ!!」
「姫様が逃げました!!急ぎ追っ手を!!」
フィリアは逃亡した。
それはもう、全力で・・。




