38 魔術デビュー
いつも通りに机について、教科書という名の分厚い専門書を開く。
一応、ペンとインクも用意してあるが、今日は端に寄せてある。
その代わり、目の前には、黒い杖。
今日は待ちに待った初めての魔術実践授業。
珍しく授業の準備を完璧に終え、逃亡もなく、マーリンが来るまでを大人しく待っていたフィリア。
背筋を伸ばして、淑女然としてはいるが、その雰囲気は明らかに落ち着かない。
そわそわとした気持ちは隠せず、周りの使用人たちは皆、微笑んでいる。
―――今日の為に予習も完璧だ!教科書は全て読破したし、憂いはない!!
意気揚々。フィリアは煩わしい事は全て片付け、楽しむ事に全力を注ぐ姿勢だ。
その準備は滞りない。その事が逆にこちらの不安を煽るが、フィリアには関係なかった。
マーリンもそんなやる気に満ちている目を見て、嬉しくなった。
「では、始めましょう」
「はい!!」
いつもとは違う、覇気に満ちた返答。
「じゃぁ、まずは、魔法と魔術の違いについての座学から始めましょう」
「ふぇ?」
フィリアの覇気は一瞬で霧散した。
気の抜けた声が漏れ、身体からもシュンと力が抜けた。
当然、それはフィリアだけ。マーリンは変わらずいつものように授業を始めようとするし、マリアやミミ、使用人たちは笑うのを必死に堪えている。
あ、ロクサーヌは声が漏れた。
フィリアの般若な目が光ったが誰も目が合うことはない。
「おば。せ、せんせい。きょうは、まじゅつのじゅぎょうですよね?」
「はい?えぇそうですよ。だから以前の予習を踏まえた、魔術と魔法の相違についての授業です。先日、面白い学説が発表されましたので、新たな見識を得られるかもしれません。あ、こちらがそれを軽くまとめたものです。本日の教科書にいたしましょう」
マーリンが取り出したのは、分厚い魔術の教科書と同じくらいの厚みを持った紙の束。
まとめたもなにも、明らかに研究資料そのままにしか見えないが・・。綴り紐が真新しい事からフィリアのために容易してくれてはいるのだろうが、それは今日一日で終わる内容ではない気がする。
フィリアの表情は面白いぐらいにわかりやすい。
悲愴を浮かべ、困惑、最後には哀れなほどの涙目。
流れるような変化だった。
フィリアは目の前の黒杖を鷲掴み、強く握り締めた。
そして胸に抱き込んで、視線を上げるとそこには強い意思が篭っていた。
勢いよく立ち上がる。椅子が後ろに倒れようとも関係ない。
そして慣れた浮遊。振り向いて勢いよく窓から―――
「姫様」
フィリアは反射的に動きを止めた。
「先日、リーシャ様が『お召しになっていたドレス』。姫様のものも注文しようと思っているのですが。何かご要望はございますか?」
マリアのすんごい笑顔。それはそれは清々しいまでのすんごい笑顔だ。
フィリアの背筋が軋むほどにいい笑顔。
リーシャのドレス。そこから心当たるのは、翡翠色で鎖ジャラジャラの『アレ』しかない。
「まりあーーっ」
「・・・」
急な方向転換でマリアに縋るフィリア。
どちらの立場が上なのか・・。
「まりあっ。まりあっ。だって。だって」
マリアの笑顔は一瞬で消え。
感情もない無表情。
フィリアは震え、涙を流して崩れた。
「姫さまが逃げようとするからですよぉ」
「・・・」
フィリアは魔術の実験の栄えある被検体第一号をミミに決めた。
魔術と魔法は似て非なるもの。
そもそも魔術自体、魔法という未知の力を人工的に再現した技術、というのが起源。
魔法とは特殊な『事象』。つまりは自然現象に近い。
それを扱えるものは限られ、生まれ持ってその才能がある者にしか使えない。
大昔ならば、修行の末に魔法の力を得たなどという記述もあるが、それに有した時間は、最低でも数十年からといった、生涯を捧げたようなもの。
百人に一人とも言われる才能。
数字的には少なくはないが、それでも一般的とは言えない力。
さらに魔法は、個人の魔力に大きく依存する力。簡単な灯りを灯すだけの魔法で魔力切れを起こす者も珍しくないほどに魔力を喰らう。
当然そうなると、魔法の才を開花させるのは百人に一人からさらに少なくなる。
故に魔法の力は希少価値が高く、重宝されてはいたが、同時に一般には浸透し得ない力だった。
そんな、ごく限られた者にしか扱えぬ力。それを人工的に、そして一般的に扱いやすい形にしたのが魔術のルーツ。
だがその原理は根本的に違い、イメージのみで具現する魔法に対して、魔術は明確な理論や仕組みでイメージを形にする。
詠唱や呪文。魔法陣や魔術言語。術式に演算。
発火の原理、氷結の条件。
科学や物理などの仕組みを基盤としたシステムの構築。
プログラミングのような感じに近いかも知れない。
それ故に魔術は、一定の知識や学力を必要とされるが、無為に数十年を費やすことはない。
魔力も魔法と比べ、圧倒的に少なくて済む。求める事象にもよるが、先の灯りを灯す程度の事象であれば魔術の消費魔力は百分の一にも満たないほどに少なくて済む。
術式もほとんどは専門職のものが研究をし、一般人はそれを使うだけ。
おかげで魔術の普及率は上がり、効率も効果も大きく進歩している。
魔道具も、かつては魔法の付与で、数も限られ、使用効果は強力であっても扱いづらいものばかりだった。だが魔術によってその汎用性は飛躍し、文明を躍進させた。
リリアが温泉に持ち出した扇風機もその一つで、謂わば家電のようなものも多く普及している。
魔術は汎用性に優れ、様々に転用しやすい。
だが、それは決まった効果や結果のみ故のもの。
専門職のものであれば、即席で術式や呪文をアレンジできるが、一般的には無理だ。
対して、魔法は己のイメージで自由自在の為、急な変化も可能。
例えば、火の矢。
魔力消費量は魔術の方が圧倒的に少ないし、数を作っても魔術の方が正確で同じ質の物を作れる。
だが、詠唱を必要としないぶん発現は魔法の方が突発的で早く、急に射線を曲げたり、威力を変則的に変えたりなどの自由度は魔法の方に軍配が上がる。
魔法も魔術も一長一短ではあるが、生まれ持った才能に依存し、消費魔力故に多様しずらい魔法よりも、やはり汎用性に富んだ魔術の方が今の時代重宝される。
それでも、やはり魔法は特別で、その才を持って生まれた子は皆から祝福を受ける。
例え、将来的に魔法を満足に扱えなくても。
というか、扱えないのが普通なので何の問題もない。
いかにフィリアが特異な存在か、改めて認識する・・。
「―――であるが、これまでの通説も踏まえた上で、新たな仮説としてイメージの・・。ってフィー?聞いていますか?いつまでむくれているんですか・・。そんなに杖を睨んでも、形も色も変わりませんよ」
杖にそんな変化は求めていない。寧ろこの黒杖、結構、気に入っている。
と言うか、マーリンもわかっていようにそんな事を言うのだから、人が悪い。
「・・おばさまの、いじわる・・」
「っ!今!おばさんって言ったかしら!?」
「・・・ぷいっ」
頬を膨らませ顔を背けたフィリア。愛らしく、なんともあざとい仕草。
更に今回は、マーリンにもめげない。
寧ろマーリンの方が慌てふためいている。
「フィー!ほらっ!私はこんなに肌ツヤもよくて皺一つ無いのよ」
「・・れおんはーとだもん。みためはそれでも、としはとるもん・・」
レオンハートの者は、高い魔力保有量が故に身体的な老化が抑制される。
だが、それを言ってはいけない。
現にマーリンも二の句が継げずに、涙目だ。
どうやら今回のフィリアは特に不機嫌らしい。
そっぽを向いて、辛辣。
「おばさまなんて、きらいです」
トドメまで刺した。
「フィー!?そ、そんな・・」
絶望のマーリン。
表情もさる事ながら、震える姿は、生まれたての子鹿のようで、あまりに弱っている。
普段の凛とした姿は何処へ・・。
まぁ、この血族の特性として、家族に関する残念さは普段にもあるが、ここまで瀕死な状態は初めて見た。
いつも軽口を叩き合うリーシャにさえ「嫌い」などとは言われたことがないのだから仕方なくはあるが・・。
「姫様。マーリン様も意地悪だけでやっているのではありませんよ」
場を落ち着かせようとティーセットを持ってきたマリアに、激しくコクコク頷くマーリン。
だがやはり、意地悪も多少はあったらしい。
「魔法と魔術は、使い方も異なりますが、精霊を間に挟むのは同じです。やり方を間違って『発現できない』ならまだしも『暴走』などという事になりましたら危険です。姫様の場合すでに魔法を普段使いまでしています。誠に遺憾ですが・・。」
「似通ったものなだけに、混同してしまいがちなのよ。でも、それだけに差異が顕著に表れるわ。そしてそれは魔法が使えるものには余計にね」
かっこよく決めたつもりだろうマーリンだが、もうすでに遅いと思う。
メガネを指の腹で整え、背筋を伸ばす。だが表情は未だ引きつったまま戻ってはいない。
「だから。意地悪じゃないのよ?ほんとよ?だから、だから、フィー・・・嫌いにならないでぇーーー」
ついには泣き出した。
あまりの幼児退行にイメージ崩壊は限界突破。
寧ろそんなマーリンの姿を見た、ロクサーヌとキースの表情の方が見ていられない。
レオハートの人間に幻想を抱いてはいけない・・。
「では、本格的なものはおにぃに任せて、基本的なものから学びましょう」
「はい!」
『灯火』
マーリンの杖の先に光が灯った。
フィリアの感情も最高潮。
「これは略詠唱ですが、このように詠唱は声に魔力を乗せます。今は解りやすくしましたが、魔力を乗せた言葉は他者に理解できない言語に聞こえます。魔術師であればその対策も必須となりますが、まずは基本から・・と思いましたが、詠唱は・・まだ難しいですね」
まだ拙い口周り。
幼い身が悔しいと、フィリアは顔を顰めた。
「今度から音楽と声楽も授業に加えましょう」
そして必須科目が増えた。
絶望のフィリア。
百面相のフィリアは見ていて面白い。
「ま、基本的な魔術言語は問題ないですし、それほど苦ではないでしょう」
マーリンの『基本』の基準はどこにあるのだろう。
五十音やアルファベット程度を超えて常用漢字や文法を叩き込まれるような『基本』。
感覚的ではあったがそんな考えを抱いたフィリアだが、その感覚は十中八九間違ってはいない。
少なくとも一歳児が学ぶレベルでは決してない事ぐらい、フィリアにだってわかる。
「では、まずは術式を描いて発現させましょう。杖に魔力を流して術式を描きます。魔力をインクにして杖をペンにするような感じで・・。術式は・・大丈夫ですね」
マーリンの『大丈夫』の基準もおかしい。
それこそ六法全書のような厚さの本を全て覚えさせられた。それを言っているのだろう。
正直、魔術に好奇心を抱き、陶酔していたフィリアの自主学習がなければ無理だ。
いや、例えそれをしていたとしても全てを暗記など普通は無理。フィリアが規格外なだけである。
しかもその図式のような魔法陣を暗記すればいいのではなく。そこに描かれた術式の意味や効果までを、きちんと理解していないと許されない。
こちらは、足し算引き算程度を考えていたのに、何故か連立方程式を用いた証明問題を強いられた心持ちだ。
当然、一歳児には過分。それどころか十年たっても過分な気がする。
だがフィリアは文句など言わないし、疑問など挟まない。
待ちに待った魔術の行使。余計な事を言って流れては困る。
フィリアは黒杖を構え、完璧に覚えた術式を思い出す。
「出来るだけ魔力を少なく抑えて描きなさい」
「・・・あ、きえちゃいました・・」
宙に描いた魔法陣は形になることなく、描いた先から霧散していく。
「それでいいのよ。今のは魔力が足りなくて霧散しただけだから、次はそれよりも少しだけ多めに魔力を込めるの。少なければ発現できずに霧散するから、徐々に増やして適正な魔力を探るのよ」
「わかりました」
「少なければ霧散するだけ、だけど多すぎれば術式の容量を超えた魔力が暴発する事もあるわ。だから、少ない魔力から慎重に行なうように心がけなさい」
魔術はファンタジー感あふれる技術。だが、それが技術であればこそ扱いに気を付けなければ危険もある。
夢のようなものでも、ここは現実。
フィリアは少し緊張感を持って魔力を流した。
もう一度。もう一度。
初めての魔術。魔法は使えたが魔法は適当に魔力を叩き込んでいた。
それ故に魔術の必要魔力など基準も分からない。
だから、成功したのは七回目の挑戦だった。
それが早いのか遅いのかはわからない。
だが、皆が微笑んで拍手してくれた。
「できましたっ!」
マーリンが作った光よりも不安定で、点滅しているようにさえ見える光。
頼りない光だが、それこそがフィリアの初めての結晶。
規格外の彼女の初めての、人並みの成果かもしれない。
そんな事を感じるだけでも、嬉しくなる。
「姫さま。流石です。私の時は三日もかかってしまいましたよ」
え?
フィリアさん・・




