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1 キノコスープ Ⅲ



 春の訪れ。その兆しがようやく見えてきたこの頃。

 ですが、そんな暖かさを感じられるのはまだ昼の間だけ。

 未だ夜中は霜が降りるほどに寒く、暖炉の火はまだ絶やせません。


 先週も季節外れの雪が遅れ気味に降り、薄く積もった程です。




 その日、自宅で休んでいた私の元へミミが息を切らして駆け込んできました。


 荒く鬼気迫るように叩かれた玄関。

 そこにはミミが大きく肩を上下させて、今にも泣き出しそうな表情で私に縋りつきました。

 頬や鼻は刺すような冷気に赤く染まっているのに、湯気が立つほどに身体は熱を放ち、汗も引くことはない様子。 

 その様子に私はすべてを察し、ミミの言葉を待つより先に体が動きました。



 疲弊しきったミミを自宅に置き去りとして急ぎお屋敷へと駆け出しました。


 街灯のみの薄暗い石畳。

 吐き出す息は一瞬だけ薄く白く、翔る足音は甲高く響きました。

 

 日中との大きな寒暖差によって街は薄い靄に包まれています。

 先が見えないほどではありませんでしたが、灯りは向かう先に戸惑い淡く屈折していました。

 

 いつもならそれほど遠くは感じない道のりも、この時ばかりは早る気持ちについて来ず異様に長く感じます。

 髪も息も乱れる私にはそれがこれ以上ないほどに煩わしいばかりです。




 重く閉ざされた正門。ですが静寂とは無縁なほどに落ち着かない雰囲気が漂っていました。

 そんな正門を視界の端にして通り過ぎ、少し行くとようやく使用人用の裏口が見えてきます。


 深夜だというのに人の出入りが激しいその場所。

 門番の人間も居ますが私の存在にいち早く気づいた彼は証書の確認などよりも身振り手振りで私に急ぐように示します。

 それを見て小さく頷きを返し、私は足の速度を緩ませることなく屋敷の中へと駆けました。


 屋敷の中はすでに戦場のような騒がしさを持っていました。

 混乱から右往左往するものも少なくはない異様な状況。


 ですが、それらに構っているだけの余裕など私にはありません。

 普段ならば使用人用の正装へまず着替えるのですが、それすらも惜しい。


 私は迷いなく着の身着のままで屋敷内を駆けました。

 息も髪も乱れ、身だしなみなど無いような酷い状態ですがそれに気を回すことさえ頭にありませんでした。


 奥に行くに従ってさらなる戦場の喧騒です。

 何度か他の使用人にぶつかりながらも、私の目はこの先だけを見つめ足は止まることがありませんでした。


 そうしてようやく着いたこの喧騒の中心。

 その部屋の前は多くの人が忙しなく動き回り私の存在もおざなりの状態。


 私は人をかけ分けるようにその室内にその身を滑り入れました。



 そこでは大声が飛び交う中、最上級のベットの上。

 その上でリリア様が意識を失われていました。





 予定日よりもかなり早まった出産。


 私は短い悲鳴を飲み込み。

 走ってきたものとは違う、冷や汗を止められませんでした。


 しかしそんな場合でなない。

 慌てる心情を押し殺し、冷静に努めなければ。



 急ぎその場で、髪をきつく結い、コートから清潔なエプロンへと着替え、お湯で手を清めました。

 身なりを整え、リリア様の傍へ。


 呼吸は浅く汗も止めどなく滲んでは流れています。

 それでも脈拍は大きく乱れず、体力もまだ大きく消耗していない様子。


 私はそこでようやく息をつき、少しばかりの安堵が生まれました。



 ですが直ぐに意識を失っていたリリア様はあまりの痛みから声を上げ意識を取り戻しました。

 リリア様は私が側に居ることに気づくと顔を歪めながらも安堵の瞳を潤ませてくれました。

 私もそんなリリア様に少しでも応えるようにその目を見つめて力強く頷きを返しました。


 これからが本番です。

 リリア様にとって、長く辛い戦いの始まりです。



 いつも明るく朗らかなリリア様の表情が苦痛に歪み悲鳴をあげています。

 それを私は身を割くような想いを抱きながら、それでも励ますことしかできません。


 三度の出産を経ていらっしゃるリリア様。

 もちろんその三度全てに私は参加させていただきました。

 ですが、過去こんなにまで辛く苦しそうなお姿は見たことがありません。


 自身の時は初産でもあり、なにより当事者の私にその時の記憶はあまりの必死さに曖昧でしかありません。

 精々、覚えているのは永遠にも思えた時間感覚くらいでしょうか。

 


 汗をぬぐい。手を握り。軽食や飲み物を口に運ぶ。背をさすり。楽な姿勢になるようクッションを動かす。


 思いつく端からできることをするのが精一杯でしかありません。



 慟哭に似た悲鳴。

 苦痛にもがく身体。


 長く苦しい戦い。代わってさしあげられるのであれば代わってさしあげたい。




 深夜とはいっても日をまたぐ前に始まった戦いでしたが、先程から空が赤みがかってきました。



 「奥様!あと一息です!!」



 若い産婆が声を上げました。

 リリア様もその声に応えるように歯を食いしばり。

 私の手も痛いほどに握られました。私もそれに応えるように力を込めました。


 若い産婆の横では息も絶え絶えの老齢の産婆。彼女も瞳だけは力強く見守っています。



 「っあ゛!!」


 「リリア様っ!!」



 リリア様は最後の声を上げると同時に意識を手放しました。

 その瞬間力の抜けた体を支えた私は慌てて叫びました。

 

 恐怖に背筋が凍ります。

 頭を鈍器で殴られたかのような衝撃に焦りが先立ちます。


 ですが、それは一瞬だけでした。

 意識は失っていましたが大きく上下する胸とかすれた息。


 リリア様の少し荒い寝息に私は安堵の息を零してしまいました。



 しかし・・。

 


 「・・な、泣かないっ」



 リリア様の命をかけた御子の声がない。


 若い産婆はすぐさま赤子の足をもち背を叩く。

 ・・それでも、反応がない。


 老躯の産婆は急ぎ動き出そうとしたが体はもうすでに限界だったようで膝をついてしまいました。





 無意識でした。

 いえ、正確には反射的な行動だったのだと思います。


 少しでもリリア様の為にと思い毎日少しずつ勉強していました。

 その中にあり、読み流したような一文。

 

 ですが、その時の私にはそれこそが・・と体が動きました。


 

 私は若い産婆から奪い取るように血のついた赤子を自身の腕に収めました。

 短く声を漏らし慌てる産婆の声など、もう私には届いていませんでした。


 力なく弛れる赤子。

 その上体躯は小さく明らかな未熟児。


 それでもそこには確かな温もりがありました。


 それはリリア様のものなのか、それともこの子自身のものなのか。それはわかりません。

 それでも信じるしかありません。


 リリア様の命を懸けた至宝を失うわけにはいかない。




 私は小さな赤子に顔を近づけ口付けました。



 「ひっ」



 誰かの悲鳴が零れたような気がしました。

 それもそうでしょう。


 生まれたばかりの赤子は血と陽水に塗れお世辞にも綺麗ではないですから。

 そこに口をつけたのだからそれはある種当然の反応でしょう。

 しかしそんな事を気にする余裕などありませんし、この子はリリア様の至宝なのです。

 私には憚る理由など一つとしてありません。


 ―――ゆっくり、ゆっくり・・


 私は急く想いを押し込める様にしながら丁寧にする事を心がけました。


 そしてゆっくり数秒の後、口を離し、その場に口の中身を吐き出しました。



 産婆が一番に動き出しました。

 使用人たちに声を上げ、直ぐに私の側にタオルと水が差し出されました。



 「新生児は免疫力が弱い!まず口を濯ぎな!そして口だけじゃなく鼻も覆うようにしてゆっくり吸うんだ!!」



 私に返事を返す余裕はありませんでしたが言われた通りに口を濯ぎ、口と鼻から吸い出すようにして覆いました。


 そんな事をゆっくり3度繰り返したあたりでようやく反応がありました。



 「んっぎゃーーーーーーーー!!」



 細い声ではありましたが、それでも確かに元気な産声。

 

 私は思わず力が抜けました。



 「おっ!?おっと!?」



 側にいた老躯の産婆は慌てて腕の中の赤子を支え、若い産婆は私の体を支えてくれました。

 


 「危ないねぇ!御子様を落としたらどうするんだい!!」



 その声とともに歓喜が上がりました。

 室内の者たちはもちろん扉向こうからも歓喜の声が聞こえます。

 恐らく屋敷中に派生して大きな歓声となっているのでしょう。


 そんな中、気の抜けた私は芳心したようになってしまっていました。



 「・・マリア?」



 その声に私は瞬間的に反応しました。

 ベットに深く体を預けたままでリリア様は薄目を開けてこちらを見ていました。

 

 頬を涙が伝うのがわかりました。


 その上、心から笑みが零れてしまいました。



 「・・リリア様。おめでとうございます。愛らしい姫御子様ですよ。」



 そう言って腕の中で泣く赤子を見せると、リリア様もまた涙を零しながら眩しく美しい笑みを見せてくれました。

 ここ最近の無理をした笑みではありません。本来の美しく日だまりのような笑顔。




 その時、光が溢れました。



 「!?」


 「マリアッ!」


 「リリィッ!!」

 


 比喩でもなんでもなく。

 私の腕の中から眩しい光が溢れました。


 その場にいる者は身構えるように息を呑み。目を見開き固まった私に手を伸ばすのはリリア様。

 その光は一室にとどまる事は出来なかったようで外で待機していた騎士たちが勢いよく扉を蹴破るように押し入ってきました。

 その先頭は言わずもがな愛妻家の閣下。

 本来なら護衛の後ろに控えるべき御方なのに、リリア様の事となると非常に無鉄砲です。

 名前を叫んで扉を蹴破ったこの瞬間も突然の事に反応が遅れた護衛の焦燥が顔に浮かんでいるではありませんか。


 呆れたような心持ちでそんな事を冷静に観察できたのは恐らく走馬灯でも見るかのような感覚で時が遅く感じたせいでしょう。


 しかしもはや覚悟はとうにできていました。

 きっかけは変わってしまいましたがそれでもさした違いはありません。

 寧ろ身勝手ながら嬉しさもあります。


 唯、気がかりはできてしまいます。

 この優しい主人達は自分達自身を攻めてしまうかもしれません・・。


 どうかそんな事を思わないで欲しい。


 そう願いを込め微笑んでみせたかったのですが時すでに遅く、思考のみ加速するばかりで体はもちろん表情一つさえ変える事が叶わないようです。


 その為、心の中で苦笑しながら深く謝る事しかできませんでした。


 


 ―――あぁマーク。貴方と出会って甘い恋愛小説のような幸せな日々でした。最後に貴方が作ってくれるキノコスープを食べられないのが至極残念ですね。


 ―――私の小さなレディ。メアリィ。誰がなんと言おうと母は貴女を愛しています。貴女は笑顔で幸福の証として望まれて生まれた私の至宝です。



 『ありがとう』


 溢れそうな涙さえ湧き上がることが間に合わない程の一瞬の事。

 それでも私の心は充分に満たされていました。

 多少の心残りはあっても最後くらいは許容して欲しいです。


 視界は眩い光に満たされ、遂には白く塗りつぶされてしまいました。




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