35 怠惰な女神と天使
冬の冷えた空気。
それが朝となれば余計に冷え込んでいる。
朝日は靄を柔く照らす。
早朝の景色は曖昧な光との境界を作りながらも、陰影濃くはっきりとした色彩。
この時期は更に、白銀の雪が光を反射してこの世の景色とは思えない程に美しい。
朝日を浴びて、そんな大展望を望みながら入る、温泉は格別だ。
「はふぅー」
朝風呂。
日本人には特別感のある朝風呂だが、この世界の人間からすれば何もおかしくないらしい。
マリアも驚いたのは一瞬で、あとは喜んで支度をしてくれた。
ただ、温泉に入るということには些か渋った様子だったが、何やら飲み込んでくれた。
『・・ようやく、姫様も淑女としての意識を・・。今はまず少しずつです・・興味を持ってくれたのです。姫様の意思を摘まないようにしなくては・・』
そんなマリアの呟きは聞こえなかった。袖に隠れた感涙など見なかった。
なかったと言ったらなかった。
・・フィリアにそんなもの生まれている訳がない。などと言えないではないか・・。
「フィー。あまり長湯はしちゃダメよ。あなたの作ったこの温泉は温度が高いのだから、湯あたりしてまた体調を崩すわよ」
「はい。・・ですが、ままにだけはいわれたくないですね」
立派な言葉を吐くリリアだが、その姿はあまりに怠惰だ。
湯船の縁に垂れかかり、身体を伸ばしている。その、すぐ傍には果物と冷えたローズヒップティー。そして、この世界にもあったのか、扇風機である。
この母、完全に寛いでいる。
寧ろフィリアが止めなければ、そこには酒を準備されていただろう。
ローズヒップティーに興味を持ってくれなければ、間違いなく冷えたお酒を片手に酒盛りしていた。
『・・おんせんで、いっぱいなんて・・・うらやましい』
フィリアの恨めしい呟きなんて聞こえなかった。伸之の、アラサー男児の理想なんて知らない。
知らないったら知らない。
知りたくもない。
刺すような空気に熱めの温泉は湯気を立てる。
冬の早朝。フィリアの空中庭園。
そこで朝から母娘水入らずで温泉に浸かるふたり。
リリアとフィリア。
朝風呂を思い立ったフィリアが支度を頼むと、何処から聞いたのかリリアが、さも当然のようにやって来た。
確かにフィリアが熱で寝込んだ為、姉兄以外の入浴予定は先送りとなった。
アークたちはもちろん残念がったが、その中でも、マーリンとリリアはこの世の終りのような表情をしていた。
おそらく温泉の効能をリーシャから嬉々として語られたのだろう。
女性ならばそれを聞いて黙っていられない筈だ。
結果。耳聡くこの朝風呂に参加したリリア。
後日マーリンに延々と恨み言を唱えられることは確実だろうに。
「はふぅー」
「ふしゅー」
怠惰な似たもの母娘。
タオル片手に眉間の皺を深めているマリアの、これまでとこれからの心労をあまりに察する。
「ところでフィー。今日はお客様がいらっしゃるみたいだけど。大丈夫なの?あんなことがあったばかりなのに」
「・・まま、ありがとう。でも、だいじょうぶです」
リリアは知っていた。フィリアが震えて眠っていたのを。
ミミが毒に倒れた際もそうだが、フィリアは普段、腹が立つほどに飄々とした態度ではあっても、その心は決して強いわけじゃない。
例え、規格外で、問題児であっても。
恐れは抱くし、死は忌諱する。
侵入者たちはあのあと処置されたが、ふたりは死んだらしい。
それはつまり、フィリアが殺したも同然。実際には手を下してはいなくても、命じたのはフィリアだ。
人の死にさえ不慣れ。それどころか、そこには圧倒的な恐怖があった。
それでも、冷静に、毅然として見せたのは、フィリアとしての今世。教育や吟史の賜物だろう。
本人的には些か、素直に喜べない事ではあったが、それが『フィリア』として必要なことだった。
しかし、そうは言っても、心情をそんな簡単に順応させられるわけがない。
悪夢に魘され、恐怖に震えた。
リリアはそんな娘の壊れそうな心を知っていた。
もちろんマリアやミミなどの傍に控えるものもそんなフィリアを支え心配していたし、中でもミリスの焦燥は特に大きかった。
熱を出し、寝込んでいたフィリア。
それが落ち着いた夜、めずらしくフィリアは、リリアを引き止めた。
枕を胸に抱え、あざとい濡れた瞳で上目遣い。
リリアは瞬殺だった。
だが、そんな愛らしさもすぐに吹き飛んでしまうほどに、フィリアは痛々しかった。
添い寝するリリアの胸に縋るように抱きつき。震えて、時たま怯えたように肩が跳ねる。閉じた瞼の端からは涙が零れ、リリアは苦悶の表情でその涙を指で掬った。
夜泣きなどもほとんどなかった娘のそんな状態に、リリアは胸が締め付けられた。
フィリアも、この状態が辛くてリリアに頼った。
悪夢を見なくなれる訳ではなかったが、ティーファと共に寝た夜だけは悪夢が薄れた。その為、人肌を頼った。それも母の温もりを、無意識で。
それ故に、心から心配しているのだ。
浴槽に身体を預け、お茶とデザートを優雅に楽しんでいる、だらけきった姿だとしても。
心底、これでもかと怠惰を体現してはいるが、ちゃんと心配している。
本当に。
「きょう、くるのは、せんじつ。そのおちゃを、つくってくれた、かたがたです。だいじょうぶですよ。・・それに、みなが、おりますから」
「そう・・。マリア。お願いね」
マリアは眼で小さく頷いた後、深く頭を下げた。
それに続き、ミミとミリスもかしこまって礼を見せた。
・・ミリスはこのところ交代なく傍にいるけど大丈夫だろうか?
目の下に隈も出来ているけど・・
「これ・・ローズヒップティーだったかしら?フィリア。お話が終わったら私の方にも寄るように伝えてちょうだい」
どうやらローズヒップティーがお気に召したようだ。
花の国と称されるだけあって、この国は様々な花のお茶があった。
だが、その加工法の基本は紅茶の派生。
そうなると当然フィリアの好みにはならない。
だが、花ではなく、実から作り。その加工も全く異なるローズヒップティーは、フィリアの好み、とまではいかなくとも、紅茶よりは気に入った。
そして、リリアには殊のほか刺さったらしい。
それにしても、この母娘。いつまでもこのままなのだろう。
もはや高貴な威厳もなにも完全にない。
間の伸びた声が漏れ続け、身体も姿勢も全く重力に抗う様子がない。
見目麗しい母娘。
確かに傍目に見れば天上の浴場。天使と女神の湯浴み。
だが何故だろう。
只々怠惰の極み。端的に、実家の大晦日並みのだらけきった光景にしか見えない。
―――あ、今度コタツでも作ろうかなぁ
どうやら、現実的な光景となる日も近いらしい・・。
朝風呂を終え。
毎朝の日課である畑仕事をし。
再び身体を清め。
ゼウスの訓練をこなし。
三度、湯に浸かり。
午前中だけで、もはや三回。
完全に満喫している。
温泉旅行さながらに満喫している。
「フィリア様。この度はありがとうございます」
このあとは昼食後にひとっ風呂浴びようなどと考えていたフィリア。
その前にはかしこまって頭を下げる茶葉ギルドのお偉いさん。
「フィリア様のおかげで次期ギルドマスターの候補にもなれました」
人の良い笑顔を向ける男。
こんな事を平気で話してしまうこの男は大丈夫であろうか。と、心配にはなるが。
二度目の会合で、こんな幼子にそんな話を普通に語れるあたり。十分に怖い。
マリアなどのフィリアを普段から知るものならばまだしも、ほぼ初対面と変わらぬ程度の男が、フィリアを幼子として接しないのだ。
お人好しの顔で、人当たりのいい男。
だが、きっとその内はギルドマスターを狙うに相応しいものがあるのだろう。
「いえ、それはどるんの、しゅわんでしょう。こちらこそ、おねがいをきいてくれて、ありがとうございます」
「そんなとんでもございません。フィリア様の願いであれば、いくらでも歓迎でございます」
ドルンと呼ばれた男。
彼が出世の切符を手に入れたのは、フィリアだけのおかげではないだろう。
そもそもフィリアはローズヒップティーの事を呟いただけ。それを相談したのはミミだし、それを形にしたのはドルンの慧眼だっただけ。
それに何も世界初の発想ではない。
フィリアは当然前世からの知識で知っていたが、この世界にも同じようなものはあった。
外国の、それも片田舎の一部地域でしか飲まれてはいなかったが、存在していた。
それを数多の書物の中から、短い一文のみ見つけ出したのはまさにドルンの功績だ。
フィリアでは大まかにしか知らないし、書物で読んだと咄嗟に嘘をついたが、そんな書物を読んだ記憶はない。
本当に書かれてる本があったのは奇跡だ。
そしてそんなフィリアですらあるとは思わなかった本を掘り当てたドルン。
引くほどにすごい。
故にその功績は、ギルドマスターだろうがなんだろうが、ドルンのもので間違いない。
むしろ、フィリアがその功績にあやかるなど、図々しいにも程がある。
フィリアもその事は重々承知だ。
「フィリア様があんな僅かな一文を覚えていてくださったおかげです。私はその恩を決してないがしろには致しません」
もうやめてあげて欲しい。
流石のフィリアもあまりに居た堪れない表情。
ドルンは謙遜する美徳の賢き姫と称えるが、決してそんなことはない。
だから勘弁してあげて欲しい。
「と、ところで、たのんでいたものは、どうでしたか?」
もはやフィリアには話題を変えるしかなかった。
というか本題はこちらだし、早々に移ろう。
「はい。時期が時期なために、量も質も満足のいくものではないですが、成果は出ております。まだ、フィリア様が読まれたという文献を見つけられず、探り探りでもしわけございません」
「い、いえ。そんな」
おっと。ここにも、自身で蒔いた種があった。
「・・ですので、まだお持ちするには早いと思ったのですが・・。本当によろしかったのですか?」
「はい。とちゅうけいかでも、きになってしまっていましたので」
温泉を作り。あったかもわからない日本人の心に浸ったフィリア。
お酒は当然飲めない。ならば作る意味がない。
なればこそ、前から準備していたコレが気になって仕方なくなった。
「お待たせいたしました」
お茶を淹れさせたら、マリアよりも上のミミ。
そんな彼女が持ってきたティーカップ。
そこには透き通った緑。
―――緑茶キターー!!
はい。緑茶である。
何のことはない。
ありふれた緑茶。
こんな感動するものではない。
日本のお茶農家に謝ってほしい程の出来である緑茶。
いや、緑茶もどき。
「ふん、ふん」
鼻歌が漏れるほどではない。




