1 キノコスープ Ⅱ
「ただいま帰りました」
いつものように帰宅の言葉を呟きましたが未だこの胸の不快感は晴れていませんでした。
リリア様のお話の後もあの姿と声が頭を離れることはありませんでした。
仕事中に上の空となってしまう事など久しくなかったと言うのに、今日ばかりは目に余るとの事で侍女長に休むように帰宅を促されてしました。
「おかえりなさい」
奥のリビングから出迎えに来てくれたマークは家事の最中だったのでしょう。
家事用のエプロンを身に付け、その裾で手を拭いながら出迎えに来てくれました。
軽い抱擁と軽めの口づけ。
それでようやく帰宅を実感するように肩の力が抜けました。
まぁ・・胸のつっかえは何一つ変わらないのですが。
「どうかしましたか?お顔が暗いようですが」
この人はやはり私の夫なのだなと感じ嬉しくなります。
新婚とは言えず、けれども長年連れ添った夫婦と呼ぶにはまだ早い。
それでも私の些細な表情の変化にも気づきわかってくれる最愛の人。
私は自然と表情が和らぐのを感じました。
それは安堵なのか愛おしさなのかは分かりませんが、とにかく心地よさに包まれた事は確かです。
「ありがとうございます。本日は、その・・色々とありまして・・。食事の後にでも聞いていただけますか?」
不安げな表情のマークは優しく微笑み軽く頭をひと撫でしてくれました。
仕事柄、守秘義務も多いですがそれ以外は基本共有するのが私達夫婦の決まりです。
本来、今回の事はどちらかというと守秘義務の範疇です。なのに話せるのはリリア様の配慮です。
「マーカスにきちんと話しなさい」というお言葉を頂いてしまいました。
マークの表情を見るにその辺は察してくれているようです。
有り難くもあり、申し訳なくもあります。
「もちろんです。ではまず、お腹も空いたでしょうし食事にしましょう。直ぐに温めますのでメアリィと待っていてください」
「いつもありがとうございます。助かります」
優しい笑みで返答するマークは私のコートを壁にかけると私をいつものようにエスコートしてくれます。
奥から漂う柔らかなブイヨンの香り。おそらく今日は昨日のスープをアレンジしたキノコの風味豊かな暖かいポトフでしょう。
「・・・そうですか・・。光栄なお話ですね・・」
食事の際にその日一日の互いにあった出来事を話すのがいつもの食事風景。
今日は食後に私の話を持ち越すこともあって私自身は当たり障りのない内容でしたがマークの方はいつもと同じで、マークの何気ない話の些細なことで笑みを溢し、メアリィのその日一日の話にハラハラする。
いつもと変わらない団欒のひと時。
ですがこの日はそんな団欒の後に私の少し気の重い話が待っていました。
体の芯から温まるポトフの余韻を残しながら、食後には私の淹れた紅茶。
いつものように食後の紅茶を愉しむには些か味がぼやけてしまったのはきっと気持ちの問題でしょう。
私の話を黙って聞き終えたマークは流石に苦笑を漏らしながら感想を述べましたが、私もその心情を余りにも察してしまい眉根を寄せて苦笑してしまいました。
「えぇ。ですから精一杯務めさせていただく事に致しました」
「・・・そうですか」
「ミミもその役割を賜りましたので、ミミにできる限りの事を指導できたらと思っています」
「ははっ。それはミミさんも大変ですね」
そう笑みを零したマークでしたが視線を動かすと同時に彼の表情に少しばかりの影がおちるのが分かりました。
マークの視線の先。そこには暖炉前のソファーで愛娘のメアリィがスヤスヤと寝息を立てていました。
私もマークも無言でそんな愛らしい姿を見つめると、ゆっくりと視線が落ちてしまいました。
無意識に下腹部を摩っていた事に気づき奥歯を噛み締めた私にマークも気づいたが声をかけられることありません。
そんなマークの反応がおそらく私と同じ気持ちになっているのだろうと容易に想像させるものでした。
夫婦二人、複雑な心情を互いに隠しきれもしなのに胸に押し込めたまま俯いてしまうのはあまりに滑稽でしかありません。
それでも私たちにはそれ以外にその心情を飲み込む術を持ち得ていませんでした。
リリア様の専属であった私はその引継ぎと並行してミミへの教育指導を始めました。
そしてなにより新たにお産まれになる御子を迎える支度も不備一つ無いように全力を上げて始めました。
しかしそれ以上に私自身が特に気にかける必要があったのはリリア様の体調でした。
与えられた役目であると同時に私にしかできない事です。
日々思った以上に急変する体調。
調子が良くなったように見えてもほんの束の間の事で、直ぐに起きているだけでも辛い状態へとなってしまいます。
次第に外出はおろか庭園やバルコニーにさえ出られなくなり、お部屋からも出るのが辛くなり、遂には寝台から出られることも希になってしまいました。
それも寝たきりがほとんどで起き上がること自体が億劫で苦痛な事がほとんど。
リリア様も覇気のない笑みで「今までの出産とは別物」などと軽口を叩いては皆を和ませようとはしてくださっていましたが、周りはそんなリリア様に対してか無力な自身に対してか苦悶を抱き表情を歪ませる者ばかりでした。
そんな中、少しでもその苦痛を軽減してさしあげたいと私は手を尽くし、それは確かな効果を持ってリリア様の表情を和らげました。
私はそれに安堵する反面、こんな形で自身の経験が役に立ってしまうのはどうにも複雑な思いでしかありませんでした。
出来ることならばリリア様にだけはこの地獄の苦しみを知らずにいて欲しかったと言うのが本音でした。
何人かの同僚たちにも相談を受けましたがその答えは残念ながらありません。
苦痛を誤魔化す事は出来ても消すことは出来ません。
それどころか、和らげる術さえ必ず効果があるわけではありませんし、緩和の度合いだってその時々で変わってしまいます。
苦虫を噛み殺したような表情の同僚たちの気持ちは痛いほどにわかります。
私自身も見当違いの事をしてしまうことばかりなのですから。
ですが、それでも。いえ、だからこそ全身全霊でリリア様を支える為。
私たちに出来る事をやり尽くすしかないのです。
「ありがとう。マリアがいてくれて本当に助るわ」
「・・いえ力及ばない事の方が多く、不甲斐ないばかりです・・」
「何を言っているのよ。貴女がいなかったらと考えるだけで恐ろしくなってしまう程に助かっているのよ」
そのお言葉に笑みが零れそうになってしまいます。しかし自身の経験からこの苦痛は今後も増すばかりなのを知っています。
笑みを交わすにはまだ心に余裕がありません。
リリア様は優しく微笑みながら少し膨らんだ腹部に手を置いていました。
私はそんなリリア様の額に浮かぶ脂汗を見て奥歯が鳴りました。
気づかぬふりをして、そっと慣れてしまった所作で汗を拭いました。
「・・ありがとう。冷たくて気持ちいいわ」
「あまり無理なさらぬようにしてくださいませ」
その言葉は口をついて出た本音でしたが同時に無理な願いだという事もわかっていました。
「ふふ。やっぱり『キルケーの蕾』は想像以上ね。マリアの大変さが身にしみてわかったわ」
「・・いえ。私とリリア様では、同じ『キルケーの蕾』と言ってもその負担の大きさは恐らく比べるのも烏滸がましい程に違うものだと思います」
そう言って、フッと微笑んでみせましたが上手く笑顔を作れていたのでしょうか。
私の言ったことは謙遜でもなんでもなく事実。
リリア様も私の言葉の意味を正確に読み取ってくれたのでしょう。
その証拠に「そんな事は・・」と言葉を返そうとはしましたが私の顔を見て言葉を飲み込んで少し俯向くだけに留まってしまいました。
「・・この家に嫁いだ以上覚悟はしていた事だわ。・・だけどそれと貴女の事は別。あなたの経験があったから私は助かっているの、だから私と貴女を比較する必要はないわ」
リリア様に気を使わせてしまったと少し恥じる気持ちになりました。
ですがそのあとに呟くように口にされた言葉に思わず固まってしまいます。
「・・それに私も、きっと貴女と同じ・・」
リリア様本人は受け入れたように紡がれる言葉。ですが私には重く受け入れられません。
「・・・いえ、もっと・・早いかもしれないわね」
私は只々無言でリリア様を見つめることしかできませんでした。
思わず溢れそうな涙を必死に堪え、紡がれるその次の言葉を聞きたくない・・と。
「・・私はこの子の誕生日を一緒に祝えるかしら」
リリア様はいつものように優しく微笑んでお腹を撫でているつもりでしょうが、今の貴女の状態では普段通りに繕う事などできやしません。
「・・・それ以前に・・この子を・・この腕に。抱くことさえ出来るのかしら・・」
震える声と溢れる涙。
そんなリリア様を思わず抱きしめた私も同じように涙を流し、リリア様の大きくなる鳴き声を耳元で感じていることしかできませんでした。
あの日、リリア様から懐妊を告げられた日。
私はこれ以上にないほどの不敬な進言をしました。
『御子をお流し下さい』
私の進言はあまりにも不遜のものであり、その場で捕らえられても仕方のない程のものです。
リリア様も怒りに私を折檻してもおかしくはない程の不敬な進言です。
ですが、リリア様は変わらずいつものの朗らかな笑みで首を横に振るだけでした。
そこからはあまりにもみっともなく、涙を流しリリア様に縋りました。
言葉は違えどその内容は先程と同じものでばかりを浴びせました。
自身が何を口にしているのかはわかっていました。
何も気が狂ったわけではありません。
私はただ・・。
『ありがとう。マリア。私の為にそんなにも涙を流し懇願してくれて。・・でもね。これは私の責務なの』
私の真意など気にかける必要はないと言うのに。この美しい主は朗らかに微笑んで私の涙を拭ってくださる。
私だって専属といえども広くはこの家の侍女で、その年月だって短くはありません。
此度のことがリリア様にとっての至上の責務となるのはわかってはいます。
それでも。それでも・・。
『それに、私はこの子に会いたいの』
美しく朗らかに微笑む我が主。リリア様。
私はそんな彼女にそれ以上言い募ることはできませんでした。
その代わり全身全霊を持ってリリア様の責務を、願いを叶えるための支えとなると心に深く戒めのように決めました。
「必ずその腕に御子様を、お抱きください・・」
それからも日々はあっという間に過ぎていきました。
相変わらずリリア様の体調は降下を続けいて、それをなんとか踏み留まらせるように耐え忍ぶばかり。
私たちの献身も如何程の効果があったのかはわかりません。それでも自分たちに出来る事を可能な限り行うしかありません。
そんな中、唯一の朗報はお腹の御子がすくすくと順調に成長し、リリア様のお腹を大きく膨らませていることでしょう。
ですがそんな折、そろそろ臨月の支度をという頃になってリリア様よりも先に支える側であるはずの私の方が倒れてしまいました。
「マリアさん。大丈夫ですか?」
目が覚めてまだ重い頭を動かすとマークが視界に入り、今自身が自宅のベットに居ることを理解しました。
彼の手に持った手ぬぐいが私の額や首筋を優しく拭ってくれます。
拭われたそばから空気が触れひやりとした心地よさを感じて、自身の体が熱を持っているのがわかりました。
「どれくらい眠っていましたか?」
「帰ってから間もなく倒れましたから・・三時間くらいでしょうか」
「・・申し訳ありません。ご心配をおかけしました」
「・・心臓が止まるかと思いましたよ」
そう言って困ったように笑うマークの顔にはたった三時間とは思えないほどに疲れた影が浮いていました。
「急ぎ先生にも来てもらって診察もしてもらいましたが・・今は休むことだそうです」
「・・そうですね。ここのところ少し無理をしてしまっていたかもしれません。・・・それに多分、もうそろそろではないかと思っています・・」
苦しげに俯いたマークに申し訳なさを感じましたが、こればかりは仕方ないことでしょう。
私はせめて上体を起こそうとしましたが片腕に重みがあることにようやく気づきました。
「さっきまでずっとマリアを呼び続けていたんですよ」
そこには頬を赤く晴らしたメアリィが私にしがみつく様にして眠っていました。
時たま小さな寝言で「まま・・」と聞こえるのがまた愛おしくて切ない。
「ごめんね・・」
思わず呟いた言葉と共に涙が零れました。更にはそれをきっかけにして溢れ出し、嗚咽も漏れて止めることができません。
マークもまたそんな私の肩を抱きながらつられたように鼻を啜っていました。
私もマークもこのところ嫌に涙脆くなってしまいました。
ですがそれよりも不甲斐ないのはメアリィに対してです。
まだ幼いとは言えこれほどに泣き虫なのは十中八九、私のせいでしょう。
メアリィの笑顔は何物にも代え難い宝石なのに、それを曇らせているのは間違いなく私。
そしてそれは私が居なくなってしまう事で更に奪うことになってしまうでしょう・・。
ですが、恐らく私に残された時間はもう間もないのでしょう。
そんな事を思いながら私は今まで一番強く願わずにはいられませんでした。
只々、死にたくないと。
生きていたいと・・。
私の熱もさして長引かず引いてくれました。しかし体調は芳しくありません。目眩や動悸も増え、いつまた倒れてもおかしくないでしょう。
ですが、それでも私に今寝込んでいられるだけの時間は惜しくありました。
故に二日の療養のみを終えたら迷うことなく日常通りの生活に復帰いたしました。
もちろんマークやリリア様には渋い顔をされましたが、私の望みを最終的には尊重してくださいました。
メアリィだけは最後まで泣いて私から離れようとはしてくれませんでした。
その為、家にいる時間は片時も私の傍を離れません。お手洗いにさえ着いて来て、深夜少しベットを出ただけで大号泣されてしまう程です。
その上そんなメアリィに便乗したマークも私の傍にいることが増えました。
しかしそんな三人触れ合う時間が増えた事を私自身も嬉しく思い諌めることはありません。
そしてそんな私の姿は図らずもリリア様にとっての希望や励みになったらしく以前より気持ち程度ではありますがお顔の色が幾許かいいような気がします。
きっとリリア様は私などよりも体中に強い痛みや倦怠感があるでしょうし、その他にも数え切れない程の諸症状が次々とその身を蝕むように襲ってきているはずです。
それなのにこの人は本当に強い御方です。
今でも朗らかに笑って見せるのですから。
そして、その時は予定日より二ヶ月以上も早くにやって来てしまいました。