202 幼い古参と獣の新人
荒い息遣いで駆けるシェリル。
そこは湖の水面の上。
耳や尻尾は普段の柔らかさを失い、ペタリと水気に濡れ華奢に震えている。
馴れない足場に、足を取られるように時たま沈みバランスを崩している。
それでも必死に駆けるシェリルは獣人とはいえ、息を切らす程に体力を見るからに削られていた。
普段のメイド服とは違い、訓練用の動きやすい服装ではあるが、水気を多分に吸った服は、シェリルの体力を消耗させる原因の一つになっているだろう。
「っ!!」
そんなシェリルに対峙するのはティーファ。
普段の温厚な雰囲気は消え、シェリルの背丈の半分ほどしかないその体躯に萎縮させられるほどのプレッシャーを感じる。
うまくバランスすら取れないシェリルの隙だらけの懐に入り込んだティーファにシェリルは息を呑む。
そして、トンと黒杖を突きつけられたと同時に鈍器で殴られたかのような衝撃に、シェリルの身体は錐揉みに吹き飛ばされた。
「いま、ティー、えいしょうしていなかった・・・まりょくだけ?」
「それに近いですが、少々異なります。精霊術の基本・・微精霊を集めただけです。術として行使するための命令も何もありませんが、精霊自体、存在そのものが周囲に影響を及ぼしますから、それを集めただけでもあのように人一人吹き飛ばす程度、造作もありません」
少し離れた湖畔から二人の様子を眺めるフィリアは優雅にお茶をしながらマリアの解説になるほどと頷いていた。
「ですが・・シェリルは拙いですねぇ。・・・未だ水上歩行もままならないなんて」
フィリアのティーセットを整えながら、横目で二人の立ち会いを伺い見たミミは苦く表情を歪ませて呟いた。
「私たちが『魔塔』に行っている間に宿題を多く残しておかなければなりませんね。ジョディ様とハイロンド様にもお願いして鍛えて頂けるよう手配しましょう」
「これまでは使用人の仕事周りや、姫さまのお世話を集中的にやらせてきましたけど・・・レオンハート大公家の姫に仕えるのですから、魔術関係も最低限出来てもらえないと」
騎士でも魔術師でもない、一使用人に求めるものではないのだろうが、世界最高の魔導師家へ仕えるのであれば、それもまた当然のことなのかもしれない。
「やっぱり、シェリルはつれていかないの?」
「はい・・。シェリルがまだ研修中の見習いだからというのもありますが、向かう先が『魔塔』ですので・・」
「シェリルは獣人ですからねぇ・・・。肩身の狭い思いをしたり、危険な目にあったりしてしまう可能性もありますから」
『魔塔』・・・そう称される国は、名の通り、魔女や魔術師が治める国。
ファミリアでさえ、獣人との確執が未だ残っている。『魔塔』にそれがないとは思えない・・獣人側だけでなく魔女や魔術師側にも・・・それも、前時代的な差別や蔑視が。
「なれないとちで、シェリルもがんばっているから、きぶんてんかんにいいかなとおもったのだけど・・」
「・・そういう事でしたら、我々が『魔塔』に行っている間に少し暇を差し上げてはどうでしょう?もちろん訓練や研修もございますから短い時間ではありますが、帰省するぐらいは出来るかと」
リーシャのおまけでの同行でしかないフィリアは、どうしても旅行気分。
だからこそ、皆で遊びに行く感覚でしかなく、そこに漏れてしまったシェリルに後ろめたさがあった。
しかし、マリアの提案にフィリアは「それだ」と頷いた。
シェリルは給与のほとんどを仕送りに回す、一家の大黒柱だった。
それを心配する内容の手紙もシェリルの母からは届いているが、シェリルはせめて弟妹たちが成人するまでは、と送り続けている。
家族思いのシェリル。その気持ちをわからぬフィリアではない。
如何せん、レオンハートだ。
城に勤め初めてから日が浅いのもあるが、シェリルはまだ一度も実家には帰れていない。
それ自体は別段珍しくもなんともないが、レオンハートにとっては家族とひと月・・いや、一週間・・いや、もっと・・・、とにかく離れることなど苦痛でしかない。
故に、しっかりとレオンハートのフィリアは、マリアの提案以上のものなど無いと確信した。
遊びに連れていけないお詫びどころか、ご褒美ではなかろうかとさえ、真剣に思っている。
ドッ
湖の水面が震え、間欠泉でも開いたかのような飛沫が衝撃とともにフィリアたちの元まで届く。
その衝撃に、フィリアが意識を再びティーファとシェリルへと戻す。
打ち上がる水柱さえ当たり前のように駆け上るティーファ。
その先には受身も取れず無防備に打ち上げられたシェリルが風に遊ばれるように宙を舞っていた。
「・・・なんだかティーは、きょりをつめたがりますね。・・せっきんせんのほうがとくいなのでしょうか?」
「おそらく、姫様の影響かと」
「そうですねぇ・・姫さまのせいですね」
「ふぇ?」
マリアとミミは揃って何とも言い難いような笑みを浮かべた。
二人の言葉にフィリアが視線を巡らせると、現在の護衛であるロクサーヌとキースが苦笑にも似た微笑みを浮かべた。
「今回ばかりは、姫さまが悪いわけじゃありませんよ」
「そうですね。珍しくも」
「ふたりとも、ひとことおおくない?」
一歩引いて護衛をしていたロクサーヌがフィリアにそっと近づいた。
「ティーファは姫様の規格外さをいつも間近にしていますから・・・だからこそ、姫様に勝てたという経験が、強烈な成功体験となってしまったのでしょう」
「かてた・・って、くみてのはなし?」
「はい。体術の模擬戦でのことです。・・姫さまは虚弱ですし、運動神経もよくありません。年だってティーファの方が上ですし・・普段の姫さまが異常なだけで、勝てて当然ではあるのですが」
「ロクサーヌ・・ずいぶんというようになりましたね」
近衛騎士の者たちは呆れながらも畏まった態度を崩したことはない。
マリアやミミの辛辣さは気安いといっていいものか分からないが、近衛騎士の者たちは何処か距離を感じていたのも確かだ。
近衛騎士の中では唯一ローグだけが、比較的気安い態度ではあるが、それも逃亡するフィリアを毎度捕え続け諦めた結果だろう。
迷惑をかけていないなんてことはないが、他の近衛騎士はローグほど畏まるのを諦めていなかった。
しかし、ロクサーヌは先日の『月盃』訓練から、ローグに近い達観した諦めを感じるようになり、遂にはマリアやミミの辛辣さが時たま滲むようになってきた。
距離が近づいたようで嬉しいやら、厳しい目が増えて悲しいやら・・・フィリアは中々に複雑な心境だ。
・・・自業自得で、当然の帰結だろう。
「・・ですが、だからこそ心配でもあります」
「ティーファはまだ身体も魔力も、精霊術もまだまだ発展途上どころか、得意不得意も、成長すらもこれからですからねぇ」
皆の視線が再び湖上の二人へと向かう。
シェリルは相変わらず慣れない足場とティーファの攻撃に翻弄され明らかに劣勢・・というよりティーファの猛攻がオーバーキルの死体蹴りにしか見えない。
しかし、話を聞いた後だと見え方が少し変わる。
残念ながら、実はシェリルの方が優勢だと言うことも、シェリルが態と立ち回りティーファが踊らされている、なんてこともなく。ティーファが圧倒している事実は変わらない。
だが、明らかにティーファには無駄が多い。
しかもそれは経験不足の未熟さとはまた別のもので、せっかシェリルを追い詰めても、無駄に接近戦に持ち込もうとするがあまりシェリルに立て直すのを許し、決めきれずにいる。
「獣人は只でさえ身体能力に優れていますからね。今のままでは圧倒しながもトドメを刺しきれず長引くだけでしょう」
そして、結果、どんなに追い込んでいても幼いティーファの体力の方が先に尽き、負ける。
シェリル自身もそれで勝ったと喜ぶことはないだろうが、ティーファはそれ以上の悔しさを抱いて負けることになる。
「厄介なのは、あの子が無意識なことでしょうね。ティーファは姫様を神聖視するあまり、そこに原因があるのだと考えられず、なぜ勝てなかったのか理解出来ないかもしれません」
「ティーファにも宿題を多く残して行かなければなりませんね」
魔塔に連れて行かないのはシェリルだけではない。
ティーファはフィリアの側近のつもりだが、それは自称。
どんなにフィリアと親しくともティーファは側近ではなく庭師。
そして何より、まだ洗礼式すら迎えていない程に幼いティーファを外国にまで連れて行くことなど出来ない。
フィリアがどう思っていようが旅行ではないのだ。
「フィー」
「おにいさま」
テーファとシェリルの模擬戦を見つめていると後ろから声をかけられた。
声に振り返ると、相変わらず爽やかな笑みをフィリアに向けるフリードが軽く手を振りながらやって来た。
「マリア。テーファは庭師なんだから、ほどほどにしときなよ」
「・・考えておきます。しかし、庭師とはいえこの先も姫様のお側にいるのであればいづれ必要なことです」
畏まった態度ではあっても、臣下としての矜持を持ったマリアはフリードの言葉に頷くことはない。
フリードもそんなマリアを咎めることはないが、困ったように苦笑を滲ませた。
「ところでフィーの方の訓練は終わったのかい?」
にこやかに挨拶程度の気軽さで問うたフリードの問いに、フィリアたちは視線を交わしあって、眉根を僅かに寄せた。
軽い気持ちで問うた微笑みに返されるには、何処か思ったものとは違う。
「・・・そういえば、アランはどうしたんだい?一応二人を呼びに来たんだけど」
まだ正式な騎士でもなければ子供のアランは騎士の訓練に毎日参加は出来ない。その為、騎士団での訓練が休みの日はフィリアとの訓練が恒例となっている。
表向きはフィリアの訓練をアランが手伝うという補助が目的のはずだが、フィリアの魔法による加重はアランにとって普段以上の訓練となっていて、いったいどちらの為の訓練なのかわからなくなっている。
今日もその訓練日なはずなのだが、そのアランの姿がない。
フリードがそれを問えば、フィリアたちは揃って視線を湖畔の脇、そこにある生垣の一角に向けた。
フリードの位置からも、フィリアたちの位置からでさえも姿は見えない。
フィリアたちが視線を向けた先にフリードは近づき生垣の中を覗き込んだ。
「アラン・・・何してんの?」
そこにようやく探していた姿を見つけたが、様子が明らかに変だった。
いつも元気印のような明るさを持ったアランが、どんよりと暗雲を頭上に浮かべたように三角座りで俯き、花の花弁を一枚毟っては水面に落としている。
フリードの声すら届かず、ブツブツと何かを不気味に呟き重さを増すだけ。
「ニーナに、カレシがいたそうですよ」
アランの異様さに気を取られていたフリードはすぐ後ろの声に驚き振り返ると、フィリアが浮かび上がってフリード同様に生垣を覗き込んでいた。
「姫さまぁ、まだ彼氏かどうかわかりませんよぉ。・・ただデートっぽい事をしていただけです」
「ミミ。きゅうじつに、たべあるいたり、かんこうしたり、それをだんじょふたりでするのは、せけんいっぱんでは、デートいがいのなにものでもないわ。『っぽい』ではなく、デートよ。そしてデートをするようなあいてはカレシしかいないでしょ」
「姫さま、男女の間にも友情はあるのですよ」
「一体何の話をしているんだい?」
よくわからないが、答えのでなさそうな討論を始めた主従。
フリードは一言問うが答えなど期待していない。フリードはフィリアと共に近づいていたもう一人の侍女、マリアに視線を向けた。
マリアも、フィリアたちに呆れた目を向け、フリードへ一歩近づいた。
「先日、ニリアーナ嬢が幼馴染の男の子と休日を過ごしていたそうです」
「ニリアーナ・・というと、アランの想い人のかい?」
「はい。アラン様が隠れて付け回している、件のお方です」
「・・まだ、やってたのか・・・・」
「・・・残念ながら、こればかりはレオンハートの本能のようなものでしょうし、自制するにはアラン様も幼いですから」
頭を抱えるようなフリードと、呆れを通り越した様子で淡々と説明するマリア。
「よのなかには、3にんはにているひとがいるといいます。だから・・きっとニーナもみまちがいよ!!ニーナがそんな、ふらちなことするわけない!!」
「姫さま・・・残念ながら、世の中はそれほど狭くはありません。・・・本人に間違いないですよ。・・・受け入れてください、ニーナには・・・・・」
不毛な言い争いを続ける主従。気のせいか、主張する立場が逆になっている気がする。
そして、主従揃ってニーナ、ニーナとあたかも親しいかのように、どういう立場のつもりなのだろう。
「フィーは賢いなー」
そして、フリードはいつも通り諦めて達観の笑みでブラコンフィルターを全開にすることにした。
「マリア」
「はい」
しかし、本当に賢いフリードは思考放棄だけはせず、静かにマリアに語りかけた。
「必要な側近は皆一緒に来るように、その選出はマリアに任せるから、だって」
「側近・・ですか?」
「うん。・・メアリィはまだ幼いし、ともかくとして、『一輪の花』を捧げたセバスは連れてきた方がいい」
訝しむようなマリアに、今度はフリードが淡々と語る。
「おそらく『饗宴』の話だろうからね」
「っ!?」
マリアの唾を飲み込む音が大きく響いたように感じた。




