198 庭園の魔女
「いたいのいたいの、とんでけー」
フィリアの唱えた『まじない』が、淡い光となってティーファの身を包み込むと目に見えない傷さえ光に溶けるように消えていく。
「はふぅ・・ヒメ、ありがとうございますぅ」
溶けるように身体の強張りを解くティーファは、蕩けるような恍惚の表情を浮かべて、フィリアの魔法に身を委ねた。
「さいきんティー、けがおおくない?マリアにいっておこうか?」
「いえ!大丈夫です!マリアさまはいっぱい、てかげんしてくれてます。わたしがまだまだ・・ダメなだけです」
眉根を寄せて心配するフィリアにティーファは力強い笑みを向ける。
そして、少し俯いて自身の手を見つめるティーファは、悔しげな表情を浮かべつつも、瞳だけは爛々と意思が灯っていた。
「心配ありませんよ。マリアも敢えて厳しく指導しているだけで、無茶をさせたいわけではありませんから」
「でも・・こんなに、けがをして」
「ティーファが教わっているのは精霊術です。本格的に扱うにはまだ幼いですし、教えられるのは基礎だけでしょうが、それでも『精霊』という人とは全く異なる存在の力を扱う術です。扱えれば強力な力ですが、基礎でさえ会得するのは簡単ではないのです」
いつものように庭園でピクニックをして寛ぐフィリアたち。
そんな日常に慣れたミミもまた一緒に腰掛け自慢のお茶を振るう。
「況してや、ティーファは妖精術を憶えてしまいましたから、多少無理をしてでも早急に精霊術の基礎だけでも会得しなければ、ティーファ自身も危険です」
それを憶えさせたのはフィリア。
親友を危険に晒した事に後ろめたさがあるフィリアだが、そんな事を言おうものなら、寧ろティーファの方から怒られてしまう。
そして、フィリアだが。
フィリアも精霊術を憶える必要はもちろんある。
だが、それは大人たちの協議の結果、先送りにする事となった。
その理由は満場一致のもので、これ以上フィリアに『おもちゃ』を与えぬため。
予測不能の惨事を息をするかのように起こすフィリア。
幸いにも、精霊術の性質は魔法に近く、魔女であるフィリアであれば猶予があった。
その為、色々と時期を見計らってからにしようと、レオンハートのみならず家人一同、フィリアを省いた満場一致の決議は下された。
要は後回しにしただけなのだが・・こればかりは仕方ない。
「自分でなおせれればいいんですけど・・・」
「それはダメですよ。ティーファ、貴女、姫様の魔法が元となった治癒術しか使えないでしょ」
「『愛しき姫様の愛』です」
「やめてぇっ!!」
羞恥に手で顔を覆い隠すフィリアなど気にもとめず誇らしげに胸を張るティーファ。
ミミが零した嘆息はフィリアの心を慮ったものか、ティーファの姿に呆れたものか。
「とにかく、しばらくは許しがあるまで、姫様の魔法が元となった魔術は全て使用禁止です。もちろん、メアリィと新しい術を作るのも禁止。いいですね?」
「はい・・」
ちなみにフィリアにも同様の注意がなされたが、本人は無自覚で自重もない為、何処まで効果があるのかわからない。
呪具を作るなと言われた際も『呪具って・・』と何処か納得の行っていない様子で、反省などしていないもよう・・・再犯は確実だろう。
「姫様。お客様がお見えになりました」
そこに使用人が深く礼をしてフィリアたちを呼びに来た。
「あれ?シェリルは?」
ここ最近加わったフィリアの新たな側近。
今は研修も含め様々な仕事を雑事から何から叩き込まれている最中のケモ耳メイド。
まだまだ遠慮がちで、失敗も多く、いっぱいいっぱいの彼女だが、その一生懸命さは好感を持てる。
・・・ただ、まだまだ不慣れとはいえ、何でもかんでも主人に従うのには眉を顰められている。
それが本来ならば正しい・・だが、残念ながら仕えるのはレオンハート、それもフィリアなのだ。・・残念ながら。
「リーシャ様の所におります。一応はマダム・アルムの仲介という建前ではありますが、元はシェリルが紹介してくれたものですから」
「あれは、しょうかい・・ではなく、じんもんだったとおもう・・・」
いつもならば、彼女がお客様の訪問も報せてくれるのだが、今日はその姿を見せていない。
そして、その理由をミミが説明すると共に思い出されるのは、リリアとリーシャの仁王立ちを目の前に、怯え震えるシェリルの姿。
・・・何で美人の笑顔って怖いんだろう。
況してや貼り付けたような満面の笑みなど恐怖でしかなかった。
「せっかくシェリルの紹介なのですから、姫様の分もご注文なされればよろしかったのに・・」
「きょうみないです」
雇用しているのはレオンハート大公家ではあっても、主人はフィリア。
当然、優先的に恩恵に肖る権利はある。
しかし、遠慮でもなんでもなく、フィリアは本気で全く興味がない。
そんなフィリアに不満たっぷりなのはミミだけではないが、フィリアはそんな皆の不満に構わず一蹴していた。
「そういえば、マルスもきょうはみていませんね」
「おじいちゃんなら、しばらくはお休みですよ」
ふとした様にフィリアは周囲を見渡した。
マルスがティーファのようにのんびりとピクニックに参加することは希だが、それでも、いつもは目の届く範囲にいて庭いじりをしている。
空中庭園に侵入者があったあの日以降、フィリアの周りには側近だけでなく、複数の使用人が必ず着いて見守っている。
マルスもまたその一人で、庭園に出ている際には必ずマルスの暖かな視線を感じていた。
しかし、そんなマルスの姿が今日はなかった。
マルスは、名目上だけだとしても、この城の筆頭庭師。
寧ろ、いつもフィリアの目の届く範囲に居る事の方が普通ではなかったのだが、いざ居ないとなると心配になる。
「たいちょうでも、くずしたの?」
「いえ。すこしとおくまで出かけるからって、きのうから留守にしてます」
同じ庭師の父もよく苗木や種の買い付けに行くティーファは何でもない事のように答え、フィリアもそんなティーファの様子に「そうなんだ」と軽く頷く。
そんな中、ミミだけが余計なことを言わないよう口を噤むような仕草を見せた。
フィリアもティーファも気づく事はなく、その場を後にするように立ち上がり、先導されるままに部屋へと戻った。
不揃いな金属の鐘が鳴る呼び鈴。
それが来客を報せ、使用人が招き入れて主人の元へと案内する。
陽光の降り注ぐテラス。
白を基調とした木のテラスからは緑豊かな庭園を眺められる。
季節はもう冬になろうというのに、青々とした中に幾つもの華やかな花弁が美しく咲き誇る。
それは、この土地がルネージュの中でも南に位置しているだけが理由ではないだろう。
「いらっしゃい」
「ご無沙汰しております」
思わず目を惹かれるような庭園に繋がるこのテラスに、一人の貴婦人が優雅にティータイムを楽しんでいた。
服装自体も上等な物なのはひと目でわかるが、それ自体は貴婦人としてはシンプルで動き易さを重視したような軽装なもの。
だが、所作のみならず纏う雰囲気も彼女が上位の貴婦人だと隠せず滲ませていた。
「・・・来てくれたのね」
「はい・・・」
マルスは普段はあまり見せない緊張を滲ませて使用人に促されるままにテラスに踏み入った。
マルスの装いも立ち振る舞いも、いつもの庭師のものではなく、畏まった貴族のもの。
違和感が無いわけではないが、堂に入ったもので、彼が普段は泥に塗れているとは想像しづらい。
「相変わらず、美しい庭園ですな」
「トリー家の当主から、そう言って貰えるなんて鼻が高いわ」
互いに未だ視線を合わすことはなく、手入れの行き届いた庭園を見遣った。
「・・今日は、私だけではないのです」
マルスの呟くような、それでもって優しく響くような声に、ようやく互いの顔を見た。
マルスは控えめに微笑むと視線を動かし、貴婦人もその視線を追う。
「・・お久しぶりでございます」
「アンリさん・・・」
テラスの入口のあたりに居たのはアンリ。
アンリは苗の植えられた鉢を抱え控えめに礼をした。
貴婦人はアンリを見て何処か暗い影を瞳の奥に隠したが、次の瞬間にはそれすら忘れて目を見開いた。
それはアンリに向けたものではなく、その更に後ろに控えるもう一人にむけたもの。
「リャナンシーっ・・・・・」
憎悪や後ろめたさ、様々な感情が入り乱れ、現れては隠れる。
それ故に激情となる前に感情は掻き消え、只々冷静な思考の混乱だけが巡る。
だがそれも一瞬のこと。
様々な感情に揺れる瞳が急に動きを止めた。
見知った妖精と瓜二つの姿。
しかし、そこに重なるもう一つの幻想。
軽薄なようで、情に厚く。
子供のように笑う――――過去の亡霊。
「・・・・・ゼウロス」
呟くと言うよりも、思わず溢れたような。
囁くよりも小さく、発した本人の耳にさえ届かないような声。
「彼女はナンシー。・・ゼウロス様の娘です」
「お初にお目にかかります。アンヌとゼウロスが娘・・ナンシーと申します。私事で無礼とは承知しながら、真名を明かすことはご容赦願い、最愛の母の名を名乗る事をお許し下さい」
アンリの紹介に倣い、ナンシーは淑女の礼を見せた。
貴婦人はその自己紹介にゼウロスの名を口の中で反復し、乱れた思考をどうにか落ち着けようと固まった。
「あ・・ありが、と・・・」
紹介を終えると同時にアンリの持っていた鉢を使用人がそっと預かるように持ち上げた。
アンリは急に軽くなった腕に少し驚くと同時に、使用人に感謝を述べようとして言葉が詰まった。
「・・貴女・・・」
視線も合わず、言葉すら発することのない使用人。
一見すると無礼で不遜な、使用人としてあるまじき態度の使用人だが、それを咎める考えすら思い浮かばず、アンリは使用人を只々見つめた。
「彼女はもう十年近くこの家で働く使用人ですよ・・貰いますね」
アンリから使用人に渡された鉢を、更に横からマルスが受け取り、アンリに説明を添えた。
「・・取り敢えず、お茶を淹れましょうか」
貴婦人は戸惑いから抜け切れた訳ではないが、年の功から冷静さを引っ張り出し、取り繕ってアンリたちに席を進めた。
しかし、マルスだけは席につかず、抱えた鉢を貴婦人に向けて、庭に視線を向けた。
「こちら植えさせて頂いても?」
「・・クレマチス・・・えぇ、キャットイヤーの隣にお願いでいるかしら」
「かしこまりました」
鉢に植えられた苗はまだ花は咲いていない。
それでも彼女にはそれが何かわかっていた。
そして、そのまだ蕾もついていない、その花が心を落ち着かせた。
「魔女様ぁ?お邪魔致しますねぇ?」
緊張をそれぞれが抱えたまま席に着いたテラス。
玄関からは村の神父がいつものように訪れた声が響き、貴婦人だけが少し緊張を和らげた。




