1 キノコスープ Ⅰ
緑豊かな丘を越え、木々の群生に飲み込まれた先に開かれる視界。
そこには数百年も前に出来たとされる湖が広がっています。
一面煌めく水面の壮観は水平線すら遥か遠く、陸地も遥か先に山々の頂が覗く程度にしか見えません。
透き通った水の視界には淡水魚を始めとした多種多様の生命を孕んで美しく彩っていて宝石のようだとは多くの人が例えていました。
世界有数の大きさを誇る美しき大湖『ルーティア』。
この土地に住むものにとっては誇りであり代名詞。
外から来た者たちにとっては壮観な観光名所。
その湖上を渡るのは煉瓦造りの赤茶げた大橋。
私はその上を走る蒸気機関車の中。小刻みに揺れる振動を感じながら、小さな嘆息を零していました。
自身を哀れんだような嘆息は無意識にも溢れ漏れて。
意識して抑えようとしても余計なことばかりを考えては更に鬱屈とした気持ちとなって。また溢れ出てしまう。
そんな負の連鎖を幾度も繰り返していました。
気持ちは浮上することなく深い所を漂い続けているだけで、いったい幾つの嘆息を零したのか最早わからない程に繰り返してしまっていました。
そんな時、一般車両の中が少々賑やかになりだし、ようやく私の意識も浮上する機会を得ることができました。
車窓から入る陽光も傾きを深め、目に痛くはありましたがそれだけではなく、湖面に反射した光も揺らめく動きを残したままに車窓から入ってきていました。
一見、幻想的にさえ見えるその現象に感慨の息を漏らす乗客も少なくはありません。
ですが、私を含む何人かの乗客にとってそれは見慣れた光景。
代わりに私たちの胸の内には安堵に似た郷愁が湧きます。
―――ただいま・・
そんな心の呟きを唱えたのは私だけではないでしょう。
別段日常的な光景というわけではないはずなのに、何故だか懐かしさを覚え、目を細めてしまいます。
現に一日程度しか離れていない私でさえそんな思いを抱かされるのですから、長く離れていた方たちにとっては、更に一入の想いや感情が沸くことも当然でしょう。
私を含めた何人かはそんな郷愁の想いをより明確にしようと無意識に車窓へと目を向けています。
眩しさに目を細めながらも、それでも車窓から見える景色に惹かれ誘われるように。
まだ黄昏と呼ぶには高い太陽に煌めく湖面はどこまでも続き余計なものなど何もありません。
ですがそんな中に例外として湖上に鎮座するのは色とりどり、しかし馴染むように違和感のない背の高い家々。
更にはその中心。
射すような陽の光に目を霞ませながらも遠目に覗くと見えてくる。
天を突くほどに高く、そして蒼く荘厳に聳える美しき城。
湖の名と同じ名を冠する湖上都市『ルーティア』。
そしてこの街のシンボルたる蒼城。『ルーティア城』。
近頃、立地や町並みや文化が観光や旅行に人気の高まるこの都市。
その中でもまず街に入る前に出迎えるのは澄んだ大湖とその湖上に栄えた街ルーティアの外観、
そして何よりも目を惹かせるのは、水流がそのまま時を止めたかのような流線型と空の色を写したかのような色彩で美しく天を突く蒼城。
初めて目にするものは息を呑みその美しさに見惚れると称される程に壮観です。
そしてそれはこの街の住人の方々にとっても同じで、皆この街のシンボルとして特別の想いを持っています。
その最たるものが今の私たちのような者たちでしょう。
この街の住人は長期であろうと短期であろうと、少しでも街を離れれば例外なく皆あの蒼城を視界に止めた瞬間「帰ってきた」という感慨を抱きます。
それはこの美しき湖たちを臨んだ時よりも深く強く感じ入る程に胸に広がります。
事実、今この時。私もその例に漏れず体の強張りが解けるのを感じていました。
あと数分もすれば駅が見えて列車は終点となります。
目印でもあるルーティア城を車窓から臨めたのであればそこから駅まではあまり掛からないでしょう。
それを知る私も乗客の方々も少しずつ荷物を纏め始めました。
まだ秋の入口とはいえ、冬の厳しいこの国の空気は冷え込むのも早く。
この革のコートさえも本来ならば冬物として着られるはずの造りですが、この土地においては秋物としての短い役目しか果たせません。
とてもこの先の冬の時期を乗り越えることは不可能でしょう。
ほんの短い時期にしか着れないキャメル色のコート。
数年前に夫から初めてもらったプレゼントでしたが、少し抜けた夫はこの国の生まれでは無い事も相まってそんな気候のことにまるで考えが及んでいなかったようです。
その為にずっと衣装ダンスの中で眠っていたこのコートは今年が初卸しとなりました。
ですが、このコート自体は色合いやシルエット、全てがとても私好みのものです。
夫が私の為に悩み考え探し出してくれたのだという事が伝わってきます。
いつか着たいと思いながらも遂に機会がありませんでしたが、今回はこのコートを着ようと決めて家を出てきました。
そんな事を考えながら軽くコートをなぞる様に撫で、そしてなるべく埃が立たぬように気をつけて袖を通し腰のベルトを締めました。
あと、何度このコートに袖を通す機会があるのだろう・・などと想いを抱いて。
持ってきたはいいが読むことのできなかった推理小説。
それは行きと同じく、帰りの列車の中でも手にしただけで結局1ページとして読み進める事ができませんでした。
それ故に私は位置の変わらぬしおり紐を再度同じ位置に挟んで旅行カバンの中へと戻し、それだけで支度は終わりとなりました。
つばの広い婦人帽は邪魔になるからと降りる直前に整えることにして、今は膝の上で待機としましょう。
あとは傘を忘れないようにと意識に留め、旅行かばんの上に置いて。
私は姿勢を正して座席につき、あとは待つだけ。
あまりに簡素に済んだ私の支度。
ですがそんな私とは異なり、他の乗客達の支度はそれなりの手間が掛かっているようで、列車が駅のホームに入っても賑やかさを残したままでした。
駅のホームは白い煙が其処ら中に滞留していて視界が悪く、独特の匂いを漂わせています。
蒸気の音や列車音が人の喧騒に拍車をかけ会話の内容を聞き取ることは難しく、隣を歩く人達も大きな声を上げ、余計に喧騒が拍車をかけて音が乱れています。
人の流れが一方方向なのは助かりますが、それでも表情が渋ってしまいます。
拡声器を使った駅員の声も途切れ途切れでその姿も靄に消えることも屡々。
看板や案内はあってもそれを見つける方が大変。
例え一方方向にしか人の流れがないとは言え、乗客たちの数は余りにも多く。
その中、余裕を持って歩くのは中々に至難の業が必要とされてしまいます。
人の流れの先にようやく見えた改札。
そこの駅員は手馴れた所作で切符を切ってくれます。
その手際が見事なおかげで人の流れは滞る事なく、人波に飲まれないよう少し遅れて進んできた私でさえもスムーズに改札を抜けることができました。
その上改札を出て直ぐ。そこからは人波が霧散するように解消される為、私自身もようやく息苦しさから解放され、息をつくことができました。
改札を抜けた先には、皆一人一人に様々な物語があります。
大きな体躯の男性は改札を抜けると同時に駆け出して、幼い少女を抱き上げると頬に口づけをして満面の笑みを零していました。その隣には微笑むご婦人がいて男性はご婦人の唇にも優しく口づけを落としました。
まだ年若い女性は改札を抜けてしばし視線を巡らすと一点に向け歩みを進めました。その先にはプレートを抱いた青年がいて青年も女性に気づくとおどおどとしながら緊張した面持ちとなりましたが、決して二人は視線を切ることなく互いを見つめ合っていました。どちらかが口火を切るまで・・。
軍服の青年は改札を抜け真っ直ぐに壮年の夫婦の元へ行くと綺麗な敬礼を披露しました。夫婦はそんな青年の所作に笑みと涙を蓄えるとそっと抱き寄せました。その時青年は少し上を向き唇を噛み締めていました。
そして私にも・・。
改札を抜けた先。それも遠く後ろの方でわかりにくい出迎え。
それでも背の高い彼の赤茶げたくせっ毛は一目で見分けがついてしまいます。
私がそれを見間違う事など万にひとつもありえません。
だからこそ何の躊躇いもなくそちらへと歩みを向けました。
「・・迎えに来なくてもいいと申しましたのに・・」
「まっま!!」
私の小さな呟きと共に響いた舌っ足らずな幼声。
当然、私がその声を聞き間違えるはずはありません。
まだ突っかかり気味の拙い足取りで駆けてくる幼い少女。
その目にはたくさんの涙が溢れ、頬も真っ赤に腫らしています。
私のマイ・ディア。
まったくそんなに泣きはらして・・・
と、駆けてきた愛娘の突撃を腰を落とし、そっと腕の中へと迎え入れました。
「メアリィ。人前でそんなに泣いてはみっともないですよ」
私の声は聞こえているのか聞こえていなのか、鼻をすする音だけを鳴らして私の肩口に顔を擦りつける愛娘は顔を上げてはくれません。
諭す言葉も叱責するような声色どころか甘やかすようなものになってしまっていたのも原因のひとつではあったのでしょう。
私が呆れたような視線をくせっ毛の主に投げると、彼はバツが悪そうに微笑むだけ。
思わず嘆息が溢れるのも仕方ないではないですか・・。
「おかえりなさい」
「ただいま帰りました。わざわざお迎えしてくださってありがとうございます。・・しかし、マークこれは・・」
腕の中へと視線を促すが、彼の返答は困ったように微笑むだけでした。
頼りなさげな夫。でも優しさや人の良さがそのまま出た彼の笑みに私は弱い。
仕方ないとメアリィを抱き直し腰を上げると、彼は何も言わずに私の荷物を持ってくれました。そんな彼に「ありがとう」と呟き少し傍に寄ります。
そしてそのまま軽い口づけをいつものように交わしました。
「改めて。おかえりなさい。マリアさん」
「ありがとうございます。マーク」
愛おしい夫。愛するマーカス。
優しく微笑む傍ら落ち着きのない瞳。言葉を懸命に探っているのがわかりやすい人です。
ですが、きっと彼にその言葉を導き出すことは出来ないでしょう。
わかっています。あなたの求める言葉は・・。
だから私は曖昧に微笑むだけ。
それだけでも彼には正確に伝わってくれたでしょう。
その証拠に、今にも泣きそうな微笑みが返ってきましたから・・。
いつの間にか安堵からか泣き疲れてなのか、私の腕の中で寝入ってしまったメアリィ。
重みを感じつつ抱き直し、賑やかしい駅から私たちは我が家に向けて足を向けました。
「今日は美味しいキノコが売っていましたのでスープにしましょう」
「私の大好物ですね」
私たちは肩を寄せ合い微笑み合いましたが、「はい」と返したマークの笑みには胸が痛みました。
―――ごめんなさい・・
「・・・私めにですか?」
「えぇ。マリア。貴女にお願いしたいの」
リリア様はそう言っていつもと変わらない朗らかな微笑みで私に告げました。
まだ目立たぬお腹を大事に抱えながら座るその姿は美しい女神様のようです。
私とリリア様はまだリリア様が学生の時分よりの付き合いで今でも専属侍女として優遇してくださっております。
その為、これまで三人の御子を授かられた際にも傍におりました。
最初の頃は何もできず不甲斐ない自身を恥じたものですが、今では多少自信を持てるほどに知識や経験があります。
リリア様の三度目の出産の際など、急に産気づき産婆が間に合わない中で御子様を取り上げたのは私でした。
それでも自身の体験として出産や子育ての経験がない私はそれ以上の役目を頂くことはできませんでした。仕方ないことではありましたが、それでもそれが少しばかり歯がゆい想いであったのも本心です。
出来ることならば敬愛するリリア様の御子様を自身のこの腕でお世話したいと願ってやまなかったものです。
不遜な願いです。
なので淡い夢としてその事は胸の奥にひっそりと隠しておりました。
ですが今の私には愛おしいメアリィがおります。
これまで足りなかった経験の部分を十二分に満たしてあまりあるほどです。
―――本当にメアリィは私に幸福しか運んでこない愛おしい子です。
「マリア。あなたにこの子の世話係をおねがいしたいのよ」
リリア様は自身の腹部を優しく撫でながら私を真っ直ぐに見つめ、改めて言葉にしてくださいます。
その表情はあまりに私に優しく、恐らくこの主には私の不遜な願いがずっと筒抜けだったのでしょう。
在りありと「お待たせ」と言われている気持ちになります。
その御心だけでも胸が暖かく満たされる思いです。
ですが・・今の私にはその想いに添えません。
私はその優しく慈愛に満ちた瞳に言葉を返すことができませんでした。
その上飲み込んだ言葉はひどい痛みを持って胸を裂くようにして私の中に残ってしまうものですから、あまりの自分本意に嫌気がさします。
「・・光栄なお話ではございますが、申し訳ございません。辞退させていただきたく思います」
ようやく出来た返答にもひどい痛み。
新たな御子のお世話係。大変名誉な役目。その上そこには主人からの確かな信頼があって任せられるもの。従者にとってこれほどの誉れはありません。
それに何より私自身が見た夢。
愛する主君とのこれ以上ない忠信の絆。
ですが、それでも・・。
いえ、だからこそ、そのお話は受けられません。
私自身の夢とリリア様からの信頼を無くしてしまったとしても・・。
これこそが忠信だと信じて。
「・・マリア。・・先日の検査結果はどうだったの?」
その言葉の意味。
私にとっては瞬時に十分すぎるほどに分かってしまうものでした。
故に息を呑み。更には背筋を冷たい何かが伝うのも嫌に分かりました。
「・・マリア。貴女は私の腹心であり親友です。そんな貴女の大事に私の目や耳が届かない筈はないでしょ・・。例え他領に赴いても他国に赴いても貴女の大事に気づかぬ私ではないわよ」
私が何も言えなくなると見越してリリア様は言葉を継いでくれていました。
その言葉は優しく慈愛の溢れるものではありましたが、同時に憤りをも孕んでいました。
私の瞼に耐える涙は、リリア様のその優しさへの感涙とは全く異なり只々罪悪感にも似た申し訳なさでこみ上げたものでした。
震える声。
喉が張り付いたようで上手く声が出ない。
それでもこの時こそがその時なのだと心を決めるしかありませんでした。
「・・リリア様。急な申し出ではありますが・・」
再度言葉が詰まってしまいました。やはり決心したとて簡単に言葉には出来ない。
いや、したくない気持ちばかりが湧き上がります。
自身の我が儘であるのはわかっています。
ですが、わかっていても私の心はこんな時に限って侍女の吟史を守ってなどくれませんでした。
それでも・・告げなければなりません。
「・・暇を頂きたく思います・・」
「・・マリア。そんな身を引き裂かれるような苦悶の表情で言われても素直に頷けないわ」
そう言って困ったように呆れたように微笑むリリア様は、私の頬にそっと手を添えました。
「・・それに貴女らしくないわね。侍女のお手本のような貴女がそんなに涙を流して感情を晒してしまうなんて」
あぁ。やはりみっともない事になってしまっているようです。
元々伝えなければならないと思っていた事ではありました。
その為、少し前から覚悟だけはしていたものの中々言葉にはできなかったのです。
それなのに今決心して進言するというのは、やはりまだ気持ちが着いてきてはくれなかったようです。
「こんな状態の貴女からの進言を素直に承諾できるほどに私は貴女を軽く思っていないのよ?言ったでしょ。私の親友だって。私の初めてのお友達さん?」
「お友達などと恐れ多いです」
普段と変わらぬリリア様の軽口にも引きつったような声しか出ず、いつものように言葉を返すことも上手くいきません。
「マリア貴女は、私の元を離れたい?それとも私の傍に仕えるのが嫌になってしまったのかしら?」
決してそんなことはないと否定したくて勢いよく首を振りましたが、喉が引き吊ったようになってしまい思うように声を出すことはできませんでした。
その上いつの間にやら視界も涙に霞み過ぎて何も見えなくなってしまっていました。
「・・それにね。私も貴女と同じなのだそうよ。・・だからこそ貴女にお願いしたいの」
見えない視界の向こうでリリア様はいつもの様に朗らかに微笑んでいらっしゃるのでしょう。
ですが、長くいつもお傍に仕えさせていただいた私には声色で分かってしまいます。
その上視界が働かない今、余計に耳ざとくその声色に気づいてしまいます。
「この子は『キルケーの蕾』よ」
一瞬で思考は飛び、涙も止まりました。
大きく見開いた目に映ったのはお腹を優しく撫でる聖母のようなリリア様の微笑みとそれを祝福するような陽光の淡い木漏れ日。
そして私の耳に残った恐れを抱く声色を響かせて・・。




