186 導きからの祝辞
僅かな漣すらない鏡面のように静かな湖面。
薄明の煌きと水面に浮かぶ花弁だけが、かろうじて温度を与えているが、それでも寒々とした静けさは多少紛れる程度のものでしかない。
そのせいで、和やかとは言えずとも、剣呑な雰囲気などでは決してない筈の親子の再会も、何処か緊張の滲むものとなってしまっている。
何も婿姑の軋轢・・だけが理由ではない。
「そして・・フリードは、勘違いしていたようだが、『導きの魔女』と『終焉の魔女』、二人の魔女が揃っている理由は聞くまでもない」
「理由・・?」
確信を持ったゼウスの言葉と態度に、戸惑いを浮かべ、訝しげに表情を顰めるのはグレースだけ。
少女はゼウスの言葉に、曖昧な愛想笑いを浮かべるも、それはコミュ障からくるものなだけで、否定も肯定も・・そもそも、誤魔化しも隠すつもりもない。
「しかし、それだけでもない。・・そうでしょう?」
ゼウスが向けるのは睨むように鋭い・・獰猛な視線。
「・・『心臓』を・・・くださいっ」
「・・・・・」
「『心臓』って・・」
力強く、僅かな勇気を振り絞った少女の言葉に向けるゼウスの視線。
そこに増す重い圧力、しかし魔力は完璧に制御され、溢れ漏れた魔力でさえ鋭く研ぎ澄まされたもの。
そして、それが、ゼウスが放つ重圧を、さらに増す一助となっている。
そんなゼウスの視線に、少女はなけなしの勇気さえ霧散して、オドオドと視線を逸らしてしまう。
そんな二人の含む意味がグレースにはわからず、首を傾げた。
当然その事自体にも不満もあるが、それ以上に募った不安から、傍に立つゼウスの袖を摘むようにして、交互に二人のやり取りを見守った。
先日フィリア達と共に案内された禁書庫――――『心臓』。
だが、二人の言葉に含まれた意味には、それとは別のものを感じさせた。・・・しかし、それが何かまでは、グレースにはわからなかった。
「だとしたら、聞く相手を間違えましたね。後継者とは言え、フリードはまだ幼い。その為、まだ口伝以上の事は教えていませんよ」
実際は、その僅かな情報だけで、聡く賢い甥っ子は色々と察しているとゼウスも勘付いてはいるが、今、それを敢えて教える必要はない。
そして少女も、ゼウスの言葉に得心がいったように、しかし同時に落胆したように俯いた。
「強かったでしょう?『終焉の魔女』のドレスに触れる程に」
「・・・そ、それで・・ふ、不機嫌に、なっちゃって・・た、大変・・だったん、だよ」
魔力を枯渇させ、自身の血に倒れ込む程の大怪我を負ったフリード。
それに対し、どう見ても無傷の目の前の少女と、話を聞くに服が解れた程度の被害しか受けていないもう一人の魔女。
傍から見れば一方的にフリードが蹂躙され、一矢報いようと僅かな、抵抗とも言えない反撃をしただけにしか見えない。
だが、相手が魔術師・・・もちろん魔女という存在にとって、僅かなどと軽く片付けられる話ではない。
後衛職と呼ばれるように、彼らは基本、近接戦闘を苦手とする。
その理由は単純で、魔法や魔術との相性が単純に悪いから。
魔術も魔法も、頭の中で想像し創造するもの。
近接戦闘をこなしながら、そんな事をする・・出来なくはないが、どちらか、もしくは両方ともが拙いものになるのは当然だろう。
しかし、だからといって、いつでもそんな彼らを守るものが居るとは限らない。
もちろん、その弱点を補う為に、武術や身体訓練を修める事もまた魔導職としての一つの嗜みではある。だが、本質は研究職の学者肌。その技量は決して高いものではない。
当然、一概に皆がそうという訳ではないが、並みの魔導職の者はもちろん、『魔導王』と称されるレオンハートの中にもほぼいない。
そんなものを極める事より、目指すべき深淵がある・・・それが彼らだ。
故に、魔導職の者は基礎技能として、最初に習得する必須技能がある。
――――『障壁』。そう、呼ばれる技。
絶対必須の基礎である以前に、彼らにとって文字通り、生命線。
障壁のない魔導職など、戦場に裸で立つのと同義だ。
さらに、魔力や魔素、術式で構築する基礎中の基礎の技能、それ故に、単純で、個人の技量が顕著に反映されるもの。
拙ければ簡単に砕け。実力者であればあるほどに堅牢強固なものとなる。
並みの攻撃では身体を傷つける事はおろか触れることさえも叶わない程に・・。
悪名高き魔女『終焉の魔女』。
当然、その悪名は名だけではない。
忌々しくも、その名に相応しいだけの実力を有した大魔女。
フリードは、そんな魔女の『障壁』を超えて触れたのだ。
それは、決して『僅かな抵抗』程度のものではない。
どんなに規格外であったとしてもフリードはまだ子供。
発展途上であり全盛には程遠い未熟者だ。
それが、一矢報いるどころか、その喉元に切っ先を突きつけたようなもの。
「・・・前に会った時は、もっと可愛かったのに・・・・・」
「レオンハートですから」
「・・・本当。レオンハートの成長はえげつないよね」
少女の呟きに、胸を張るようなゼウスと、実感の篭った嘆息のようにグレースが答える。
ただ一つ言っておくと、グレースが頭に浮かべた幼女はレオンハートにおいても異常な存在。
「・・も、もうそろそろ、時間、かな・・・」
少女がふと上げた視線の先。
領域を狭めた薄明、その中心にある眩い陽光は最後の力を振り絞るように一筋の光の柱となって、僅かな時に未練を残す。
「『心臓』はいいのですか?」
「あ、え・・と・・・く、くれるの?」
「いや、あげませんけど」
「あ、ぁ・・うぅ・・・そう、だよね・・・」
フリードが持たぬような情報も、ゼウスならば当たり前に持っているだろう。
しかし、油断なく剣呑な雰囲気を纏ったフリードよりも、軽口を叩き、自然体と言うより隙だらけでしかないような目の前の男の方が、圧倒的に厄介。
フリード相手には何とかなったとしても、ゼウスを相手にして、同じ結果を得ることは難しいだろう。
況してや、今は、特に分が悪い。
少女の視線が彷徨い動き、伺い見るようにグレースへと向けられた。
だが、そこには警戒や訝しむものはなく、少しだけ細められた目に、穏やかな親心が宿っていた。
それは何処か満足気で、不安や心配を手放したかのような、清々しさが伝わるものだった。
「・・でも・・・一番の目的は、果たせたかな・・・」
そう呟き、顔を伏せて柔らかく綻ばせた。
小さすぎる呟きはゼウスとグレースには届かず、伏せた表情も見えはしない。
それでも、二人には伝わるものがあったのか、ゼウスとグレースは柔らかな視線を交わし、指を絡めるように手を握りあった。
少女はその繋がれた手を見つめ、複雑そうに・・だが、嬉しそうに微笑みを口端に溢した。
しかし、少女はそんな感情を噛み殺し、おどおどしながらもキッとゼウスへ睨みをきかせた。
「わ、私はっ、み、認めな、ぃいから、ねっ!!」
精一杯の強い口調と視線なのだが、吃った上に、チラチラと視線が定まっていなければ効果などない。
寧ろ、小動物が怯えながらも必死に威嚇している・・そんな愛らしい面影すら重なる。
ゼウスたちもその姿に、毒気が抜かれたかのような苦笑を零した。
そこには、本来あるはずの警戒心が何処にもなく、穏やかな日常を切り取ったような会合となっていた。
「それで、どうします?力ずくで聞き出しますか?」
ゼウスはカチャリと身体中に身につけたアクセサリーを鳴らして少女に問うが、構えることはおろか、放つ気配も相変わらず自然体のもので、言葉以上の敵意を見せる様子もない。
少女もまた、オドオドとした様子ではあるものの、しっかりと首を横に振り、ゼウスの言葉に否を示した。
「・・・い、いや・・こ、今回は、そ、そろそろ、帰るよ。・・も、もう一つの、ほ、方も、せ、先約が、いる、みたいだし・・・」
「そう、ですか」
少女がチラリと視線を落とした先。
少女の下・・湖の中、そこには大きな影が二つ蠢いていた。
その視線だけで言葉少なに通じ合うゼウスと少女。
今この時、二人には敵対するような剣呑さはない。
だが、次また会うときは、殺し合う・・そんな事を互いに理解しながらも、穏やかな静けさを保っている。
「あ、あと・・・グゥちゃんを、泣かせたら、ゆ、許さないから」
「はい。もちろんです」
忌々しい・・だが、それ以上に頼もしくもある。
そんな複雑な感情から、少女は嘆息とともに僅かな笑みを零す。
そして、少女は、顔を上げると薄明を見ると共に視線を何処か遠くに投げた。
その目は何かを探すように動くが、またすぐに何処か遠いものに変わり、自嘲にも似た憂いを見せた。
「・・・ルーちゃんは、やっぱり来てくれない・・よね」
小さく呟いた自嘲は空虚に溶けて、誰に届くこともなく、只々自身の胸に落ちただけだった。
その時、湖面に浮かぶ花弁がふわりと宙に舞い上がった。
花弁は命を持ったように舞い、無数の花弁が蝶となってグレースの周囲を漂った。
そして、グレースの掲げた腕に従うように蝶は一斉に少女に襲いかかる。
しかし、少女に向かう無数の蝶は、少女に迫った瞬間、一瞬で一つ残らず枯れて水面に落ちていった。
「お母さん。私、魔女になったよ」
「・・う、うん。グ、グゥちゃん・・立派な魔女、に、なったね」
攻撃を加え、更にはその攻撃を容易くかき消したというのに、二人の間には何の蟠りもない。
寧ろ、互いに涙腺を引き締めなければ溢れてしまいそうな笑みを向け合い、今にも抱き合いたい衝動をも堪えている。
「・・・グゥちゃん・・・幸せに、ね」
「うん」
少女がようやく向けた挙動不審ではない表情は、優しく慈愛に溢れた笑み。
グレースもその表情を記憶の中の笑顔と重ね合わせ、堪えていた涙を溢し、満面の笑みを向けた。少女にとってもその笑みは記憶のものと重なるものだった。
「・・ゼ、ゼウス・・み、認めては、いない・・けど、み、認めてなんか、やら、やらない、けど・・・・・グ、グゥちゃんの事・・よ、よろしくお願いします」
「お任せ下さい。お義母さん」
「っ・・ぐぐ・・ぐぐ・・・」
自分で言いながらも、ゼウスの呼び名を素直には受け取れない少女。
不本意と苦渋が在りありと浮かんだ表情を浮かべた少女、だが、それも一瞬で瞼を閉じ、深呼吸で心を落ち着けた。
そんな少女の周りには白い鳥が一羽、また一羽と集まり始めた。
「・・ゼ、ゼウス」
「はい」
相変わらず目が合うことはないが、少し真剣な雰囲気に変わった少女の言葉にゼウスも少し緊張を持った。
「・・ひ、昼と夜、が、ま、交わる・・た、黄昏時。・・こ、この時間が、い、一番、ル、ルーちゃんの力、が、み、乱れるか、ら。・・い、今は、け、結界も、貼り直し、た、ば、ばかりで、な、馴染むのにも、じ、時間がかかるだ、ろうし。・・だ、だから、い、今、だけ・・。け、結界が、馴染めば、わ、私たち、みたい、な、のも、入り、こ、込めない、か、ら。・・・す、少し、だけ、気に留めて、あ、あげて・・」
「・・・ルーティア様に、会いたいですか?」
少女の話に、ゼウスは少しだけ言い淀むように言葉を飲み込むが、一呼吸置いて少女に問いかけた。
だが、少女はその問に答えることはなく、曖昧に微笑んで顔を伏せた。
返答はなくとも、それだけで十分な答えだった。
だが、言われてみれば不思議だった。
少女が立つのは湖の上。
紛う事なきルーティアの領域。
ゼウスたちがいて、更には和やかな雰囲気にあっても、レオンハートが対立する魔女が一人。
本来ならば排除、そうでなくとも何かしらの干渉はあるはずなのに、それすらも皆無。
それはまるで、少女を避けているかのように。
「最後にもう一つ・・・。赤髪の男、そいつは何者ですか?」
周囲に無数の白い鳥を集める少女はゼウスの声に視線を向けた。
「フリードもですが、話を聞いたアークですら知らない魔女。直接聞いたわけではないですが、恐らく私も知らない魔女ですよね」
「・・・『煉華』」
呟くように答えた少女の目は、別人のように暗く、闇に沈むものに変わった。
剣呑とまでは行かぬものの、緊張を与えるには十分で、ゼウスは唾を飲み込んだ。
しかし、それは一瞬のことで、すぐさま元の挙動不審な態度に戻り、緊張も気のせいに感じる程に締まりのない空気に戻った。
「あ、あの『偽物』は、ぶ、無事だから、あ、安心して」
ゼウスも全てを聞く時間はなかった。
だが、アークから聞いた話ではその赤髪の男はフリードが重症にまで追い込んだ筈だ。
少女の一瞬見せた雰囲気から、少女の言う『無事』がどういう意味かまではわからない。
だが、こともなげに言う様子から、フリードの負わせた傷は少なくとも再起不能には至ってはいないのも、また確かだろう。
「それは、どういう――――」
ゼウスはそれも含めて言い募ろうとするが、眼前を白い鳥が通り過ぎ、言葉を遮られた。
白い鳥は最早、少女をお覆い隠すほどに増え、隙間隙間にしか少女の姿が捉えられない。
声を上げようにも無数もの羽ばたきが煩く、声など容易く埋もれ、かき消されてしまう。
『凶星が再び瞬く。我は己が望みを乞い、天を仰ごう――――』
しかし、そんな羽ばたきの煩さの中にありながら、不思議と静けさに響くように一つの声だけは、鮮明に耳に届く。
それは、詠唱のようにも聞こえるが、術式のそれとは全く異なるもの。
言ってしまえば、単なる精霊語での言葉でしかない。
精霊語事態、一般の言語よりも、何気ない一言にさえ魔力が通うもの。
それ故の現象というか、それを起因として偶々耳に届いただけだった。
その声の主は、白い鳥たちの中心に佇む小さな魔女。
だが、白い鳥たちの隙間に覗く少女の目はゼウスたちへは向いておらず、何処か遠くに向けられたもの。
『――――星に願いを、捧げて』
白い鳥が一斉に飛び立つと同時に突風が生まれ、白い羽と色取り取りの花弁が巻き上がり舞う。
視界を覆い尽くす程の勢いが全てを飲み込んで治まると・・そこには既に少女と白馬の姿はなく、後には雪のように白い羽と花弁が降るだけだった。
「・・・行かせてしまってよかったの?」
「あぁ。今、ここでやり合えば、ルーティアの街にも被害が出る。・・あの人も、それは望まないだろうし、ちょうどいいだろう?」
羽の舞い散る、少女がたっていた場所を見つめゼウスとグレースは互いに寄り添い合った。
「それに、お前の目の前で、あの人を殺せるほど、私も無神経じゃないさ」
そう言って微笑んだゼウスにグレースも笑みを返した。
「・・でも、最後のって」
問うような視線を向けたグレースに、ゼウスはそっと視線だけで誘導した。
二人の後ろ。先程まで薄明の光の梯子が伸びていた湖の上には、新月が浮かんでいる。
その薄い月は、光の粉を降らせるように湖へと光を注ぎ、そこに煌く人影のシルエットを作る。
それは美しき月光の踊り子。
美しき大精霊は物憂げに視線を遠く投げ、そこに顕現していた。




