185 薄明の母
薄紅。浅紫。桜色
雲海を淡く染め上げる薄明の空。
草木さえ生えぬ荒れた高地。
そこにあるのは風にさえ揺らぐ立て付けの悪い小さな小屋。
「おかあさん・・・」
そんな小屋の前で不機嫌に顔を顰める少女は、縋るように母のローブを掴んで離さない。
それに困ったような苦笑を浮かべた母はそっとその手を解く。
少女もまた、それ以上困らす事を望まず、俯き母の手に従ってローブから手を離した。
それが、不本意なのがありありと伝わっては来るが、少女はそれ以上縋ることはせず、顔を伏せて自身のスカートを握り締めた。
――――おしごとになんて、行かないで、一緒にいてよ
そう口に出そうになったが、下唇を噛んで、それを飲み込んだ。
決して顔を上げることはない。
それは唯一の抵抗であると同時に、目を逸らす為・・。
薄明を背に母の浮かべた苦笑は、それでも柔らかいものだと、改めて見なくとも知っている。
故に少女が目を逸らすのは母ではない、そんな母の周囲に集まる『存在』・・。
普段、姿形さえ現すことのないそれは、半分隠れた太陽の光に、透けてはいるが螺鈿に光煌いて、母の周囲を漂うように集まっている。
怖いわけでは・・いや、怖いのかもしれない。
いつも母を連れて行ってしまうその存在は、少女にとってある意味何よりも怖い存在。恨んだり妬んだりするに十分な元凶でしかないのだから。
少女は薄明の眩さに向かい、少女は母を見送る。
大きな三角帽と背丈よりも大きなローブ。
使い古され、パッチワークだらけのそれらを身に付けた母の背と、その相棒でもある白馬を今日もまた見送り、夜を過ごす。
その隣に一緒について行けぬ事をはがみながら。
「おにぃ」
ジャラジャラと身体中に着飾った音を鳴らし廊下を進むゼウスの後ろから声がかけられた。
前日に引き続き、ゼウスの完全武装。
知るものが見れば、その姿に、何処の国を滅ぼしに行くのかと怯えるもの。
当然、声をかけたアークもその事をよく知っている。
「アーク。どうした」
微笑む訳ではないが、いつものようにゼウスがアークに向ける雰囲気は柔らかなもの。
だが、それだけに、アークには兄の内に張り詰めた剣呑さも気づけてしまう。
「・・・グレースさんは?」
「あぁ・・先に向かってる」
ゼウスもそんな事は承知で、態々回りくどい言い回しや誤魔化しなどすることはない。
「・・・さっきフリードが目を覚ました」
「何!?元気か!?」
「いや、元気なわけ無いでしょ。まぁ、でも今、エラルド公に診てもらってるけど、問題はないだろう、とさ。しばらくは無理をさせないよう含められたけどな」
「そうか・・そうか・・・よかった」
噛み締めるように、心より見せるゼウスの安堵に、アークも表情を綻ばせた。
姪甥大好きのこの兄にとって、実の兄弟よりもその優先順位は上。
その事を誰よりも身にしみて知っているアークは、ゼウスの罪悪感も知っている。
本来、フリードが担う役目はゼウスが担うものだった。
それを、アークとフリードが、ゼウスに頼み、その役目を譲った。
今回の場合、予測できていた事態が事態なだけに、ゼウスにはそちらにあたって欲しくはあったのがアークの考えで、フリードの事は完全にアークの見誤りだった。
もしもゼウスが、そのまま担っていたら、『悪魔』の対処は少しまごついたかもしれないが、『魔女』に関してはもっと余裕のある結果を出していた筈だ。少なくともフリードがこんなに無理をすることはなかった。
それもあってゼウスの抱く罪悪感はとても大かった。
決めたのは大公のアーク。それを受け入れたのはゼウスだとしてもゼウスに非はない。
寧ろ、ゼウスが『悪魔』に集中できたおかげで、規格外の『天使』にも対処できたのだ。
だが、それでも、大好きな甥に傷を負わせた事は、確実にゼウスの中の負い目となっていた。
フリードが目を覚ましたからといってその負い目が消える訳ではない。
しかし、それ以上に、大切な甥が目覚めたことに、素直な安堵が溢れた。
「おにぃ」
「・・あぁ」
それだけでゼウスはアークの言わんとすることを察した。
「・・・『導きの魔女』で間違いない」
「だろうな・・」
その名に背筋を正したゼウス。それと共にジャラジャラとした金属音がいきり立つように戦意を叫ぶ。
茜色の空と宵闇の空がせめぎ合い、赤紫や橙などの光が複雑に空を彩る薄明。
湖面はそれをそのまま写し、その幻想的な光景に更なる神秘性を引き立てている。
更に湖面には、昨日の名残りで花弁が浮かび、空を写した湖面に花吹雪が舞うように、静かに揺れ、一枚の絵画のような美しく幻想的な光景を生んでいる。
黄昏時。そう呼ばれるに相応しく、広がる光景はこの世のものとは思えない程に心奪われるもの。
水面に立ち、そんな夜と夕日の交わる空を仰ぐグレースもまた、その絵画の一部となっている。
つばの広い大きな三角帽。光の反射に煌めくようなローブとドレス。
そして・・水面にまで懈る程に長い髪。
そのどれもが宵闇に溶けるような黒色。
なのに、その絵画の中にあるグレースは、燃るような暖かさを放ち、一層、存在感を引き立て、佇んでいた。
白い羽根が舞い落ち、グレースの傍の水面を静かに揺らす。
「・・・この世のものとは思えないくらい、綺麗な光景」
魔法にかけられた時間とも称される美しい黄昏は、魔女の心を奪い、見蕩れさせた。
「でも・・昔は、憎んですらいたなぁ。・・一人置いてかれることが嫌で・・子供だったしね。・・その度に困らせてしまって・・・」
ゆらりと揺れるように振り向いたグレースは、物憂げさを滲ませたまま、微笑みを浮かべた。
「ね・・お母さん」
振り向いた先には、一頭の白馬と、それに寄り添うように立つ女・・いや、その姿は少女という方が相応しいだろう。
グレースにとって、小さい頃は大きかったように思えた筈の姿も、今改めて見れば、年端もいかない少女のようでしかない。
だが、その古びてパッチワークだらけになるほど取り繕ったローブと三角帽は、あの頃の記憶を鮮明に思い出させる。
「グ、グゥちゃん・・・」
相変わらずの挙動不審な姿。
昔はもう少しましだったような気もしたが、久しぶりの再会で、大人になったグレースに幼い頃の姿を重ねるには面影も足りないのだろう。
しかし、少女の傍に立っていた白馬は記憶を探ることもなく、ゆっくりと水面を進み近づくと鼻先をグレースに寄せた。
「ファティも久しぶりだね」
鼻先を撫でられながら、グレースの声に応えるようにファティと呼ばれた白馬は鼻を鳴らした。
「やっぱり、お母さんだったのね・・」
「あ、えっと」
「・・・私を呼んでたんでしょ」
「ぅ・・・うん・・・」
まるで叱られた子供のように縮こまる少女に、グレースは嬉しさを滲ませ微笑んだ。
だが、そこにあるのは喜びだけではない。寧ろ、それと逆の悲しみにも似た感情の方が色濃いかも知れない。
「そ、その・・グ、グゥちゃん、け、結婚お、おめでとう・・」
「ふふ。それを伝えに来てくれたの?・・ありがとう、お母さん」
少女からの祝辞。それはグレースが抱く感情の事など投げだしたい程に、素直に嬉しいもの。
だが、胸のみならず目頭も熱くなるような感激を、決して表に出すことはない。
・・・出来ることならば今すぐにでも少女に駆け寄り抱きついて、子供のようにその胸に縋りつきたかった。
「あ、相手に、ついては・・不本意・・だけど、・・・み、認められないっ・・け、けれど・・・グ、グゥちゃんが、幸せな、なら・・そ、それだけで、う、嬉しい・・・」
「・・うん」
「グ、グゥちゃんの、花嫁い、衣装、を、み、見れなか、った・・のは、残念・・だけど・・・」
母の手を振り切って、どれだけの歳月が経ったのだろう・・・。
目の前の少女を見つめ、締め付けられる胸に手を添えてグレースは込み上げる全てを噛み殺していた。
パシャ・・・
小さく軽い水音と共に一陣の風が吹いた。
それと共に白馬は嘶き、グレースの傍から跳ねるように逃げ出し、少女の元へと帰っていく。
一陣の風は二人の間に吹いたが、グレースたちには当たらず、軽く頬を撫で、髪をあそぶ程度のもの。
しかし、その風は一枚の紙だけは水面に落とすこともなく運び、少女の前に翻るように届けられた。
受け取るというよりも、差し出した手に勝手に吸い込まれてやって来たその紙に少女は目を落とした。
「フィーに貰ってきて正解だったな」
「ゼウス・・遅かったね」
水面を蹴ってやって来たゼウスは迷いなくグレースの傍により、グレースもそれを受け入れる。
腰を抱くようなゼウスの支えにも抵抗をせず、寧ろ頼るようにグレースは身体を預けた。
そんな寄り添い合う二人を見やり、視線を再び手元の紙へと移し、少女は柔らかく微笑んだ。
それは、少女というにはあまりに深みのあるもので、見た目の幼さを忘れるような、『母』の表情。
紙に描かれていたのは、ゼウスとグレースの寄り添い、笑みを交わす姿。
純白の花嫁衣裳を纏うグレース。ただですら可愛い娘の人生で最も光り輝いている瞬間を切り取ったもの。
そこにあるグレースの世界一の幸せに煌く微笑みに、そっと指を添わせた少女に白馬も写真を覗き込むように顔を寄せ、少女と寄り添い合った。
「フリードが目を覚ましたそうだ」
「フリード君が・・大丈夫なの?」
「今は、エド爺もいるし、心配はいらないさ」
グレースはその言葉に安堵の息を零した。
「か、彼・・無事だ、だった、ので、すね。あ・・これは・・い、頂いても?」
伺いは立てるが既に手放すつもりなどないように写真を大事に両手で握る少女に、ゼウスは態とらしい身振り手振りで「どうぞ」と答えた。
少女はそれに花が開いたように、パッと表情を明るくさせ、写真を懐にしまい、大事そうに体ごと抱きしめた。
「それで、お義母さん」
「あ、ああ、あなたにっ、おっ、お義母さんっ、な、なんて、呼ばれたく、あ、あり、ありませんっ!!わ、私は、み、み、認めて・・い、いませんからっ!!」
真剣な表情を作り呼びかけるゼウスに、怒ったようにいきり立つ少女。
グレースはそんな二人の対照的な姿に思わず声を漏らして笑った。
ゼウスとしては冗談でもなんでもなかったが為に、グレースの様子に訝しむように眉を寄せた。
「・・なんだよ」
「なんだか・・新鮮だなって。いつもは私が言われてるから」
「ん?グースは皆に歓迎されてるじゃないか。・・それどころか、不本意ながら俺に首輪をつけたと感謝までされてるし」
「それは、普段の行いね」
雲のようとも例えられるゼウス。
だがそれはいい意味ではなく、フィリアの前世で言う『糸の切れた凧』のような意味合いが大きい。
そんなゼウスを射止め、引き摺り、楔をつけた。
グレースは半ば英雄扱いだ。
特に身内からは。
そして、そんなグレースに敵愾心を燃やすのもまた、とある身内。
ゼウスは溜息をついて不満を表すと同時に、視線を逸らし自身の後ろめたさをも正直に見せた。
だが、それら全てを誤魔化すように咳払いをして切り替えた。
「改めて、お義母さん――――」
「だ、だからっ」
少女は今にも泣きそうに憤る。
「――――『終焉の魔女』は何処に?」
「っ!?」
淡々と告げたゼウスの言葉に息を飲んだのはグレースだった。
時を止めたように、目を見開いてゼウスを見つめたまま、驚愕に固まった。
「・・メ、メーちゃんは、ドレスが、ほ、解れたから、って・・お、怒って、帰っちゃった、の・・・。・・・繕ってあげようかって言ったのだけど・・・・そ、そんな見窄らしい格好は、嫌だって・・・・」
わかりやすく落ち込んだように背筋を丸め、ボソボソと俯いて呟く少女と、それを気遣うように顔を摺り寄せた白馬。
「・・・『終焉の魔女』って」
「『悪辣』『悪逆非道』『冷酷無慈悲』・・・そして・・『悪魔』。・・本物の悪魔でさえ、『終焉の魔女』に比べれば聖人に等しいと言われる程の、『最凶最悪』の魔女。・・・その『終焉の魔女』で間違いない」
『終焉の魔女』――――
世界三大厄災の大魔女が一角。
『沐浴の魔女』・・ミルと並び畏れられる魔女。
個人の戦力や武力のみならば、ミルの方が恐ろしい。
しかし、危険度でいえば『終焉の魔女』の方が圧倒的脅威。
『悪辣』『悪逆非道』『冷酷無慈悲』。
そう呼ばれるだけの残虐さを持つ、所謂『悪い魔女』そのもの。
寧ろ、絵本や物語にあるような『悪い魔女』の方が表現としては易しいぐらいの悍しき魔女。
恐れから――――『悪魔』、と呼ばれる程に。




