146 送り逝く、星
『伸行。婆さんの事、頼むな』
そう言って頭に手を置いた祖父に力強く頷き、祖父の車が見えなくなるまで玄関に立って見送った。
祖父母の家は、田舎じゃ珍しくない日本家屋で段差も多い。
敷地もそうだが、家も無駄に広い。だが、不思議と、音は通り、玄関からでも祖母の息遣いが感じられた。
肌寒い季節、熱を逃がさぬよう、いつもなら開けられている襖も締め切ってはいるが、隙間から入り込む冷気からは逃れようがない。
だからそれを紛らわそうと、少し熱めのお湯を沸かし、祖母の待つ部屋に向かった。
布団に入って座る祖母。窓から木枯らしを見つめるその姿。
襖を開け、その光景を見つめ、改めて祖母が痩せたのだと実感する。
『・・ばあちゃん、寒いっしょ。今、お茶淹れるよ』
『ありがとう』
静かに儚げな笑みを浮かべる祖母。
昔から明るく、朗らかに笑う快活な祖母だった。
だが、今はもう、その影が上手く重ならなかった。
『少し待っててね』
部屋の奥にあるストーブの上に、沸かしてきたお湯の入ったケトルを置き、茶葉の支度を始める。
『伸行の淹れてくれるお茶は美味しいから、楽しみだね』
『大袈裟だよ。母さんの真似してるだけ』
『美紀子さんはお茶の先生だからね』
『母さんのは、趣味だけどね。お茶って言ってもハーブティーのやつだし、資格だけなら他にもいっぱい持ってるし・・・まぁ全部、何の役にも立ってないけどね』
急須に入れる茶葉は、どこにでも売っているような番茶だし、分量だって目分量。
一応、母の見様見真似で湯呑を温めはするが、その温度だって大体の感覚。
その湯呑を温めたお湯を急須に注ぎ、茶葉が開くのを待つ。
やっていることはそれらしくとも、誰からも教わったことのない真似事だった。
それでも、祖母はそんな孫の様子を穏やかに眺め、その味をいつも褒めてくれる。
『ガーデニングの資格だって持ってるのに、家の庭、ほとんど家庭菜園だよ』
呆れたように視線を窓から外に向け溜息を吐く。
この家の庭に何かを思うわけではないが、家の庭を思い出して吐かれた息。
祖母もまた、その視線を追うように視線を窓に向けるが、その表情は孫とは違い、穏やかで微笑ましいという感情を浮かべていた。
『・・・今日は晴れそうにないね』
『天気予報で今日は雪がチラつくって、もう降ってるとこもあるみたい』
『・・そう』
『でも、父さんが明日は流星群よく見えるって楽しみにしてたし、明日は晴れるんじゃない?』
視線を戻して、茶葉を確認すると改めてお湯を注ぐ。
その瞬間に立ち上る香りは、番茶とはいえとてもたかく、思わず満足気に口端が上がってしまう。
『それに、明日の午前中には父さん達も着くって言ってたし、雪が積もっても大丈夫だよ。じいちゃんも腰が痛いって言ってたし・・・山なんかに行って大丈夫かな』
二つの湯呑へ交互に、少しずつ、お茶を注ぐ。
少しずつ色が濃くなり、僅かに紛れた茶葉が舞っている。
満たされた湯呑へ最後の一滴を落とし、急須を置くとその湯呑を持って立ち上がり、祖母の元に届けた。
『お待たせ。熱いから気を付けてね』
骨ばった手は冷たく、力も弱い。
その手を取りながら、少し熱くなった湯呑を手渡した。
『ありがとう』
ゆっくりと啜る様に口を付けた祖母は、口を離すと共に、ほぅと息を零した。
『美味しい・・』
心からの声が溢れたような祖母の感想は、いつもの事ながら嬉しくなる。
『伸行が会いに来てくれたら、またお茶を淹れてもらおうかね』
『ふぇ?』
『ばあちゃんは、もう少しでお星様になるからね』
『・・・』
再び外に視線を向け呟いた祖母の言葉。
穏やかで何気ない様に紡がれたその声に、何も返せなかった、というより返したくなかった。
『・・そうだ。母さんが手作りしたローズヒップティーの茶葉があったよね。・・持ってくるよ』
淹れたお茶にはまだ口もつけていなかったが、そう言って逃げるように立ち上がり、部屋を後にした。
『・・・今晩は、月も見えなさそうだね・・』
窓から見える曇天の空を眺めた祖母の、そんな掻き消えるような呟きさえ聞かないふりをした。
そもそも、幼年の頃に抱いた夢と現実を混同するほど、今はもう幼くはない。
・・そして、同時に、祖母の言葉の意味を飲み込める程、大人でもなかった。
父が星に興味を持ったのがいつからかはわからない。
それでも、確かなきっかけとなった一つは祖母の言葉だった。
――――死んだ人は、お星様となって見守ってくれているんだよ
それは、幼子に訓え説く寓話のようなもの。
父だけではなく孫たちにも、祖母は穏やかに語っていた。
当然、それは幼い時分だけの御伽噺。
成長するにつれ、盲信することはなくなる。
だが、父にとっては、深く心に残り。
未来に通ずる道への灯火となった。
踏み台を使わなければ届かないような戸棚に手を伸ばした。
そこにあったのは、去年、母が作ったローズヒップの茶葉。
瓶の中に花が咲いたような小洒落た見栄えは、実に母らしい。
祖母の事はわかっているつもりだ。
父からも母からも・・そして祖父からも、説明を受けた。
子供だからと、誤魔化すこともなく、話をされた。
もちろん実感などないし、話は理解していても、それを真に理解しているとは言えないだろう。
――――死んだら星になる?
そんなの、理解したくなかった。
胸にかかった影が晴れるには僅かな時間。
広い家といっても、部屋から台所まで距離などたかがしれている。
往復しても五分もかからない。
せいぜい、少しだけ冷静な思考を取り戻せる程度。
それでも気持ちを切り替えるにはちょうど良く。
新たな茶器を手に部屋の前まで戻る頃には、深く息を整えるだけで再び祖母と向き合えるだけの余裕が出来た。
『・・ばあちゃん、ごめん。お待たせ』
襖を開ければ、先程と変わらず、祖母は布団の上で静かに座っていた。
ただ、先程よりも背もたれに深く身体を預けて。
『・・・ばあちゃん?』
返事はおろか、何の反応も返ってこなかった。
ゆっくりと近づくと、未だ温かな番茶から上がる仄かな香り。
祖母の手の中にある湯呑はほとんど減っていない。
一見、眠っているようだった。
穏やかな表情と、何も変わらぬ様子。
しかし、そこには本来あるべき生者の気配が、とても稀薄だった。
赤いサイレンの光が、細いいつもの私道を塞ぎ、自宅への道を閉ざしていた。
車から降り立つ祖父にとってそれだけで、最悪を察するのは容易だった。
『・・栄・・・栄っ!!』
叫ぶと同時に駆け出し、舗装されてない砂利の上を踏み鳴らす様に進んだ。
焦燥と衝動。激情の中、走馬灯を浮かべて。
だが、門の前に見えた白衣の男がその進みを拒んだ。
白衣の男は駆けてくる祖父の姿を見つけるなり、一歩進み出るが、祖父の目にはそんな姿さえ写ってはいなかった。
だからこそ、白衣の男からの拳を無防備に浴び、吹き飛ばされた。
『がっ』
『お前はこんな時に何してたんだ!!』
砂利の上を滑るように殴り飛ばされた祖父に向かい、慟哭のような声を上げ責め立てる白衣の男。
その姿から医師であろうに、その行いは医師として、とても相応しいものとは言えない。
『それも、子供一人残して・・』
怒号は涙に濡れ、責めるような視線は嘆きに溺れていた。
『・・さっちゃんは・・もう・・逝ったぞ・・・』
苦悶を漏らすような声で告げられた言葉に、殴られた痛みに閉じていた瞼をより強く引き瞑った。
覚悟はしていたし、訪れたのは突然であっても急逝ではなかった。
自宅での看取りを希望していたのも自分たちで、最近の体調でそう長くないのもわかってはいた。
そして、だからこそ、今日、山に入ったのだ。
『・・伸行君が看取った・・まだ、小さな彼一人でだ』
『・・・伸行君から栄さんの容態が急変したと連絡があってから、私たちが到着したのは三十分以上過ぎてからでした』
白衣の男を諌めるように門から駆け寄った女性は、男の妻で看護師だった。
『この寒さで道路が凍結していて、回り道をせざるをえませんでした。・・その間、伸行君は私たちが来るまで栄さんの手を握り続けていました・・』
『・・連絡をもらった時、既にさっちゃんの意識はなかった。それでもまだ、呼吸も脈もあった為・・私は伸行君に、手を握り、声をかけ続けるよう・・話した。それを間違いだったと言うつもりはない。・・だが、私たちは到着が遅れ、お前もいなかった。・・・その間、伸行君はたった一人でさっちゃん傍に居たんだ。・・まだ子供の伸行君にとって・・その三十分がどれだけ長かったか・・。その上、私たちが着いた時には・・もう、息を引き取った後だった。』
長い時間ではない、しかし、愚直に言われた通り危篤であった祖母の手を握り続けるというのは子供にとって、決して容易いことではなかった。
それも、死に向かう祖母を、文字通りその肌で感じ続けていた。
そんなの、大人でも平気でいられない。
祖父が話を聞いているのかはわからない。
殴られた頬を押さえ、立ち上がる事もなく俯いているだけ。
それでも、静かに、その場から動かず黙していた。
『・・じいちゃん?』
しかし、その声に勢い良く顔を上げた。
門の向こうから顔を出した孫の姿。
それも、冷え冷えとする寒さの中、上着を羽織もしないで祖父を見つめていた。
『伸行っ』
弾かれるように祖父は駆け出し、そのままの勢いで孫を抱きしめた。
『ごめんっ、ごめんな伸行っ』
『じいちゃん?』
何が起きたのかわからずきょとんとして強い抱擁を抵抗もせず受け入れた孫。
しかし・・その瞳は、ずっと虚ろで、何もなかった。
『じいちゃん・・星が見えないんだ』
祖母が良く言っていた言葉は、祖父もよく知っている。
見上げた空は、夕方を越えたとは言え、あまりに暗く、月明かりさえ届かない。
『・・星が・・ばあちゃんが星に・・・ばあちゃんの・・』
徐々に溢れ漏れる嗚咽に、祖父は一層、抱き締める腕に力をこめた。
そして、その包容に、縋りつくように顔を埋め、遂には声を上げ大粒の涙を溢れさせた。
そんな二人の頭上に、白い雪がちらつき始めた。
「フィー・・」
廊下を遮るように閉ざされた両開きの扉。その前に佇んでいたのはフリードだった。
いつもは、大人びていて、何処か達観しているかのような彼だが、そこにいたフリードの表情は悪く、不謹慎にも、彼もまだ子供なのだと人間味のようなものを感じた。
そんなフリードが気配を感じ、振り返るとそこにはフィリアを抱いたマリアの姿があった。
フィリアの姿を見て、困ったように苦笑するフリードはいつもと同じ大人びた表情を見せたが、マリアは同時にフリードに肩肘を張らせてしまった事に気まずさを覚えた。
「・・マリア。私が預かるよ」
フィリアはコアラのように強くマリアに抱きついていた。
「・・フリード様。申し訳ありません・・・」
こんな時でさえ、子供のままでいさせて上げられない自身にマリアは使用人としての不甲斐なさを覚えた。
しかし、この扉の先に進むことをマリアは許されていない。
ともなれば、最悪、こんな状態の小さな主を一人で送り出さねばならない。
フィリアの侍女であるマリアが優先させるのは、当然フィリア。
だが、マリアは同時にリリアの侍女でもある。・・フリードが生まれた時、産湯に入れたのもマリアだった。
だからこそ、フィリアの事を想うと共に、フリードにそれを任せる心苦しさもあった。
そんな時、フリードがフィリアに向け手を伸ばすと、フリードの頭にそっと手が乗せられた。
フリードとマリアがその手を追うように視線を向ければ、そこに居たのはいつものような無邪気な笑みではなく、物静かな微笑みを浮かべるゼウスだった。
「私が抱えていこう」
軍服のような正装に金の刺繍が美しい漆黒のローブ、それと銀細工で装飾した、つばの広い三角帽。
披露宴の時とはまた違う、厳かな正装。
そして、そのローブと三角帽は魔術師にとって国の式典にさえ身に付けるような神聖な礼装。
胸に数え切れない程の勲章を身に付け、魔術師としても数多の勲章を得ている事を三角帽に付けられた銀細工が物語っている。
このような畏まった正装。
普段のゼウスならば、王へ謁見する際でも滅多にしない。
ゼウスは三角帽を脱ぐとフリードの頭へそれを置いた。
サイズの合わないそれは、フリードの視界を奪うと共に表情をも隠した。
フリードはその三角帽を除ける事なく、寧ろより深く三角帽を被った。
そんなフリードを見て、マリアはゼウスに目礼のみで感謝を送った。
「・・姫様」
そして、きつく抱きついて離れないフィリアに声をかける。
一瞬強まった腕の力は、拒絶などではなく葛藤。
だが、すぐにフィリアは無言で浮き上がるとゼウスの腕の中に移動した。
「姫さま・・」
すぐ傍に控えていたミミは腕に抱いていたクッションを差し出し、それもフィリアの身体同様に浮かび上がりゼウスの胸に移動し、フィリアは強く抱きしめるように受け止めた。
「・・では、行こうか」
その声に、フィリアはゼウスの胸を掴むように蹲り、フリードは俯いたまま無言でゼウスのローブを頼るように掴んだ。
そして、扉の両脇に控えている守衛が頭を垂れながら扉を開いた。




