126 月雫の踊り子
純白の桟橋を歩むジキルドは迷いなく足を進める。
その歩みは桟橋の終わりまで来ても緩まず、そのまま水面に一歩を踏み出した。
何もない水面。そこに僅かな波紋を生むだけで、ジキルドが沈むことはない。
追従するルシアンも同様で、当然のように湖面に踏み出す。
沈むどころか、歩む事に響く足音は、まるで大理石の床を歩くような甲高い響きと、雫が石を打つ音を合わせたような音で、そこに床があるかのように感じさせる。
だが、ジキルドの歩む下は、底まで見えそうなほどに澄んだ湖で、そこには水以外何もない。
寧ろ、澄み過ぎた湖のおかげで、空中を歩いているかのように錯覚さえさせる。
そして、ジキルドが桟橋から少し進むと、今度は翡翠の光が湖の中を波紋のように走った。
それと共に、立ち込める霧。
霧はどんどんと深くなり、あっという間に何も見えなくなる。
すぐ傍にいる、ジキルドとルシアンでさえ互いが霞むような濃霧。
もはや、家族や観衆、桟橋さえも見えない。それどころか、騒がしい声もくぐもったように遠くなった。
それでも、ジキルドは変わらず歩みを進め、ルシアンもそんなジキルドに迷いなく付き従う。
すると、水面が少しさざめいた。
ジキルドは、そこで歩みを止め、ルシアンのそれに倣ってジキルドに寄り添うように歩みを止めた。
『老いましたね。ジキルド』
頭に直接響く声。
清涼で、鈴の音のように響いた声。
ジキルドはその声に、柔らかく微笑んだ。
空気が煌き、小さな光がジキルドたちの目の前に集まっていく。
瞬く間に大きな群れとなっていくと共に、水面が揺れる。
まるで意思を持ったように光の真下で、水が蠢き、触手のように伸びると、光を包み込む。
そして、光が人程の大きさになると、役目を果たしたように単なる水に代わり重力に従う。
すると光は徐々に形を明確にしていき、透けることもなく色も持っていく。
乳白色でスラリとしなやかな手足。
金と言うより翡翠の艶やかで、足元まで伸びた髪。
長い耳と、作り物のように整った顔。
纏うは寝衣のような、簡素な白のワンピースだが、そのシンプルさが彼女の神秘的な美しさを邪魔せず引き立てる。
そして、何より引き込まれ魅了されるのは、瞼を開いた奥にある、吸い込まれるような蒼天の宝玉の瞳。
「お久しぶりです。ルーティア様」
礼儀正しく一礼するジキルドに習い、ルシアンも頭を垂れる。
それに対し微笑む、湖の乙女。――――精霊『ルーティア』。
その微笑みは無垢な少女のようであり、慈愛に満ちた母のようでもあった。
『そうですね・・。アークリフトの戴冠式以来、ですかね』
嬉しそうに微笑むルーティアの笑顔に、ジキルドは胸に居心地の良さが広がる。
他の者であれば、そこにある、絶対的な存在感に萎縮・・もしくは、泡を吹いて意識を手放すような圧倒的な存在。
だが、レオンハートにとっては全く異なる、日溜まりのような暖かで、優しい感覚。
「お陰様で、アークもレオンハートの長として立派にやっております」
『そのようですね。・・相変わらず兄姉には頭が上がらず、子供たちにも甘いようですが』
苦笑を漏らすジキルドだが、それは否定できない。
『まぁ、そう言う所が、レオンハートらしくて、微笑ましく思いますよ』
そんなジキルドを揶揄うような笑みで、そう言葉を添えたルーティアはやはり美しく、魅力に溢れている。
ルーティアはジキルド傍に控えるルシアンを見つめ、愉しげに笑った。
『ゼウスも、ついにグレースに捕らえられましたか』
「はい。時間はかかってしまいましたが、漸くです」
ルーティアとジキルドの言葉に、ルシアンが進み出た。
ルシアンは、ルーティアの傍まで寄ると咥えた二つの指輪を差し出した。
ルーティアはそれを受け取ると共に、ルシアンの頭を軽く撫で、労った。
そうして、指輪を見つめたルーティアだが、訝しげに眉を歪めると、視線をジキルドの後ろ、その更に向こうに投げた。
『・・すごいですね』
「・・?・・どうかなさいましたか?」
唖然としたような笑みを浮かべたルーティアに、ジキルドは首を傾げて、視線を追った。
だが、そこは深い霧の中、自分たち以外何も見えない。
それでも、ルーティアは真っ直ぐその先を見つめている。
『・・ゼウスもですけど、それ以上にグレースが、ものすごい加護を纏っていますね』
「・・加護、ですか?」
改めてジキルドは目を凝らす。
すると湖畔に集まった人々の魔力は視認できる。その中、見慣れた、一際大きな魔力は自身の家族のものだと言うのもわかる。
だが、特に変わったものはない。
『魔力視や精霊視、それらを合わせた上位互換である『魔眼』を使っても見えないでしょうけど。・・確かに見えます。・・幾重にも重り、大きく、太陽のようになった。熱く、暖かな、加護』
正直。それに心当たりは大いにあった。
それが表情に出ていたのか、ルーティアも呆れたように笑った。
『・・それも精霊の気配まで感じます』
「・・・精霊ですか?妖精ではなく」
それについては心当たりがない。
本来ならば大精霊たるルーティアに、失礼な事とは思いながらもジキルドは問う。
妖精ならば、最近の家の事情を思えばわかる。だが、ルーティアは首を振って否定した。
『僅かで幼い気配なので、確かなことはわかりませんが、同じ『大精霊』格だと思います』
「大精霊!?」
そう言われて、思いつくのは司書トート。
だが、ゼウスからの話では、言葉どころか姿を見ることもまだ出来なかった筈。
気にかけて貰う程に、知り合ってはいない。
「・・いや、しかし、あの子の可愛さなら、精霊さえも一目で惚れさせてしまうか・・・」
『・・・ジキルド。貴方も大概レオンハートですね』
信仰対象たる大精霊。神にすら等しいルーティア。
そんな彼女に疲れたような息を吐かせる、レオンハートはやはりすごい。
『・・とにかく。それならば、主祖として負けられないですね。加護に負けぬ、祝福を与えましょう』
ルーティアが手を広げると共に、空気が再び煌きだし、水面が騒がしく踊る。
二つの指輪はルーティアの目の前に浮き上がり、パチパチと弾けるように火花を生む。
『・・・それで、ジキルド。本当にアークリフトでなく、貴方でいいのですね?』
「はい。・・息子の為に。・・これが最後の機会ですから」
『・・魔導王として、ジキルドとして、貴方にとって、これが最後の仕事ですか』
再びジキルドに向けられる慈愛の微笑み。
ジキルドは、その笑みに微笑みを返した。憂い一つ無い澄んだ笑みを。
『では、余計、気合いを入れなければいけませんね』
「ルシアン。少し離れていなさい」
ルシアンがその言葉に少し距離を取ると同時に、煌きが増し、眩く目が痛い程に光が溢れた。
『では始めましょう。――――『祝福』を』
天を穿つかのように光が立ち上がり、翡翠の柱が生まれた。
それと共に水面は飛沫を上げ、水滴が浮かびあがるかのように、ゆっくりと目の前を漂うように登っていく。
その中心にある指輪も、浮かび上がり、頭上より高い場所を漂う。
火花は一層激しさを増し、弾けるたびに花弁が舞う。
その花弁は量を増し、雪のようにゆらりと降る。
「っ・・」
ジキルドは少し膝を折りかけたが、何とか耐えた。
しかし、表情は険しく、ギリッと奥歯を強く噛み締めた。
『ジキルド。これからですよ』
「っはい」
ルーティアは靭やかに動き出し、それに呼応して光も水も意思を強める。
鏡花水月、月下に湖の舞姫
月雫の精霊ルーティア。
神秘的な演舞、その幕が上がった。
「っ!?」
思わず息を呑み、釘付けとなった光景。
「『結びの報せ』は滞りなく進んでいるようですね」
「・・すごい」
穏やかなマリアの言葉とは反対に、フィリアはクッションから身を乗り出すようにして、目を輝かせていた。
眼下には街中を覆う濃霧。
だがその先には翡翠の光が天高く伸び、神秘的である以上に、尋常じゃない力を感じる。
レオンハートの面々どころか、大精霊たるトートと比べても、別格。
「あれは、ルーティア様ですよぉ」
「・・せいれいさま、の?」
「はい。この街の守護精霊様、この湖の古くから住む隣人。大精霊ルーティア様です。姫さまの持つ『ティア』の名の由来となった方ですよ」
もちろん名前は知ってる。
湖にも、街にもその名前が使われているのだ、よく知っていて当然だ。
だが、それが実在すると言われても、実感など湧きにくい。
おとぎ話にすら出てくるような存在が、未だ居ますなどと、前世の感性があるフィリアには到底現実味のない話だった。
テレビで見た芸能人に会うのとは、次元が違う。
「わぁ・・すごいですね」
だからこそ、理解が追いつかず、ミミの説明にも感情の篭らない返事しか返せない。
とりあえず両手の人差し指と親指で画角を取ると、その光景を切り取っておいた。
「ちょっと待ってください」
「ふぇ?」
その時、マリアから強ばった声がかけられた。
そちらに振り向けば、ミミも唖然と口を開けたまま固まっている。
「何ですか、それ」
「?」
マリアが指差すのは、フィリアの手の中にある、目の前の光景を収めた写真。
「え、なにって・・しゃしん、ですけど?」
キョトンとして言うフィリアだが、こんな時、マリアが問いたいのは違う事だろう。
ミミは呆然とした様子のままフィリアからその写真を受け取った。
「・・・わぁ。すごく鮮明です。まるで見たままを切り取ったようですね・・。最新の写真機でも、ここまで綺麗に撮れませんよ」
感情の無くなった目で写真を見つめるミミの声は、淡々としたような乾ききったものだった。
「ほんとうは、おじさまとぐれーすさまを、とりたいんですけど・・このきりじゃ、むずかしいです」
「ちょっと待ってください。皆様のいる場所までかなりの距離がありますが、撮れるのですか?」
「もちろん!」
魔力視は魔力を視認できるようになるだけじゃない。
視力の向上もできる。何処かの部族さえも相手にならない程に。
ちなみにその理論は、望遠鏡。つまりはミゲルから教わったもの。
まさか、ミゲルもこんな事になるとは思わなかったろう。
空虚な目をしたミミと、口端とこめかみが痙攣したようにヒクつくマリア。
「・・・・・何もないところから、何故写真が出来るのです」
「え?『星屑』だって、なにもないところから、うまれますよね」
「・・・・・」
結構大きめのため息をマリアは吐いた。
「・・・いつの間にそんな魔術を・・」
「まじゅつじゃないです。まほうです」
もっと問題だ。
何を胸を張って訂正しているのか。
指で画角を決めるだけで、写真が生まれる魔法。
距離も関係なく、マリアでさえも視力強化で数キロ先を見れるのだ。フィリアであれば、何処まで見れるのか・・。
それも、既製の写真よりも鮮明なカラー写真まで残して。
お手軽な上に、出来もいい。良すぎる。
正直、フィリア一人で世界がひっくり返る。
要、国家相談案件だ。
「姫さまは、ずっと外に出れないかもしれませんね」
「え!?なんで!?」
「出れたとしても、姫様ではなく、他所から遠慮されますね」
絶望の表情を見せているが、自業自得だろう。
いつになったら自重を学ぶのか・・。
その時、光の柱が一層光輝き、湖中から翡翠の光が溢れ、霧を淡く発光させた。
すると、光の影が大きく投影される。
一人の踊り子の、美しい舞いを。




