102 翡翠姫 Ⅳ
目の前に広がる金の麦畑。
だが、それは本物の麦穂ではなく、魔力による幻想のようなもので、少し透けて見える。
麦穂は僅かに光を纏い、無数に並び、眩ゆく照らす。
「・・アンネ」
「・・はい」
突如目の前に現れた光の麦畑。その中でアンネもティアラも動かず、そっと手を握り合った。
・・いや、杖を手渡した。
『『獅子紋』』
アンネとティアラ。二人は手を掲げ叫んだ。
それと同時に水飛沫のように、魔力が光となって吹き出し天に打ち上げられる。
それはまだ崩壊が及んでいなかった天井を透過し空高く打ち上がり、花火のように弾けて、大きな『カレンデュラ』の花を咲かせた。
「・・・」
「・・一体何を」
黙って二人を見つめたミルは静かに視線を落とし目の前の麦穂を睨み、悪魔は訝しげに目を細めた。
その時、崩壊した壁から見える外の景色が目に入り目を見開いた。
赤い霧に覆われた戦場。そこに麦穂の金色の煌きも混じっていたが、それ以上に目を引いたのは、目の前の二人が放つ光と同様の柱・・いや、茎。その先端にカレンデュラの花を咲かせている。
それが、ひとつふたつではなく、まるで花畑のように無数に咲き誇っていた。
「な・・」
すると、その花に水でも注ぐかのように、小麦色の光が流れていく。
当然それは、目の前の二人にも例外なく注がれ、アンネとティアラを包み覆った。
その光は二人を包むと同時にその姿を小麦色の細い枝へと変えた。幾重にも絡み合い木の繭のように。
そして光を失うと共に枝の端々に珠の実を付け、その実が枝に代わり淡く光を纏った。
「・・『蓬莱の玉の枝』・・・私の事も考えてくださったのですね・・・」
「お師様ですね。・・・先生がむちゃするから・・です・・」
呆れたような声を上げるアンネだが、それでもティアラは自分たちを包むその枝に、確かな気遣いを感じ、微笑んだ。
「・・ねぇ。それとか、今のとか。・・何?」
「お待ちなさい――――」
飄々とした軽い態度は崩さず悪魔が一歩踏み出そうとした瞬間、ミルの叱責にも似た声が響いたが・・・もう遅かった。
悪魔が僅かに動いただけで麦穂が揺れ、一本が揺れればまた一本と派生していく。
そして、大きく実った真珠の麦を・・落とした。
白亜の真珠の実が煌くように重力に従う。それは揺れる麦穂が増えるにつれて増え、幾数もの真珠が地面に落ちる。
すると落ちた真珠は黒くドロリと溶けていく。それは落ちた真珠の数だけ広がり、あっという間に足元を漆黒に染めた。
「・・は?・・・」
顔の半分が隠れているといっても、その顔が顰められているのは明らか。
その時、外から聞こえていた『唄』が完全に消え奇声のみが響いた。
奇声、というよりも断末魔にさえ聞こえる悲鳴のような奇声。それが騒がしく響く。
「何がッ!?」
全く理解が及んでいない悪魔が焦りをみせた瞬間、態勢を崩した。
「ッ!?」
そして、足元に目をやり、見開いた。
悪魔の片足が漆黒に沈むように呑まれていた。
だが、それだけではない。
その漆黒からは、黒く爛れ、腐敗したような、人の手が引きずり込もうとするように纏わりついてきていた。
「な、何だっこれ!?」
慌ててその腕を払うように足を動かし、引き潰すように双鎚を杵のように振り下ろすが、何の効果もなくジワジワと闇に引きずり込まれていく。
「『出世したければ、レオンハートの戦場に行け』・・でしたかしら。・・・本当、不快な一族」
それは万国共通。それどころか、寧ろ自軍の方にこそ浸透した諺。
レオンハートの戦場に行けば間違いなく二階級特進が出来るという、皮肉と教訓。
相変わらず感情の無い表情と態度で呟くミル。
だが、やはり、レオンハートの名前にだけは表情を歪める。
「・・ルネージュでは軍に入って最初に学ぶのが、信号弾らしいし。それを知らないものは戦場には出れないほどです。・・ファミリアに至っては義務教育の最初の最初に学ぶのが『獅子紋』です・・・。レオンハートの出陣した戦場において無差別攻撃は、言ってしまえば当たり前ですから」
「その上、その魔術はレオンハートの秘術で、模倣も出来ず、教える者も使える者もレオンハートが選定出来るなんて、あの一族は才能の使いどころを間違っていますわね」
「それは・・強く同意します」
ちなみにカトレアではなくカレンデュラなのは、無差別攻撃という暴挙はあくまで偶発であり、意図したものではないという、苦しい建前を成立させるための、公紋ではなく私紋。
困ったように微笑むティアラ。その周囲にも漆黒の地面が広がってはいたが、その闇はティアラたちを包む枝の繭を避けるようにそこだけは侵食していない。
たまに溢れこぼれたように枝に近づく闇もあったが、触れる前に蒸発するかのように霧散してしまう。
同様に、数多の腕もティアラたちにその手を伸ばすが、焼け爛れるようにして消えていく。
「・・それにしても随分と落ち着いておりますわね。・・先程まで可愛らしく怯えて震えていらっしゃたのに・・。まさかこの程度の事で安堵なさったなどと申しませんわよね」
そう言って軽く扇子を振るっただけで、腰辺りまで漆黒から伸ばされていた腕を一瞬で薙ぎ払った。
正直言うと、恐怖しかない。
今だって、震えを噛み殺すので精一杯だ。
それほどに目の前の存在が纏い、放つ魔力は異常だ。
しかし、それでも、ティアラは微笑む。
それは、意地や強がりなのかもしれない。
だが、それ以上に自分たちを包む枝の繭に勇気づけられていた。
「先程までの『唄』。あれは人魚とセイレーンですか?」
「えぇ。あたくしのお友達ですの」
「・・お友達・・。その割に随分と苦痛に歪んだ『唄』でしたが?」
「あら・・。もしかして、『妖精』として心が痛むのかしら?『なりそこない』でも妖精ですのね。・・でも、間違わないで頂きたいですわ。彼女たちの命を奪ったのはあたくしではなくてよ」
妖艶・・だが、それ以上に身の毛もよだつような微笑み。
だが、ティアラが奥歯を鳴らしたのは、その笑みではなく。その言葉が、態度が理由だろう。
不快、憤り。そんな感情が溢れ滲んでしまう。
「鮮血の月・・。赤く染まった月は人を惑わし、獣を狂わす」
ティアラの背後に浮かぶ月はもうほとんどが、赤く染まり、滲む程度ではなくなっていた。
「・・更に、船乗りたちには、『朱色の月光に照らされ、血潮の霧。海の乙女、嘆きの唄を叫ぶ』という伝承もあります」
そこでもう一度、ティアラは奥歯を噛み締め、苦悶の表情を押し殺した。
「人魚は、未だ昔ながら暮らしをする方々も少なくはありません。漁場を荒らし、航行を妨げる者や、惑わし連れ去る者もいます。・・ですが、大多数は人間社会との繋がりを持ち、新たな関係を作り始めています。・・・そして、セイレーンに至っては、そのほとんどが人間社会に溶け込み。昨今では、国の政策にさえ携わる者も出てきているのですよ?・・・こんな事をしては、彼らが積み上げてきたものを崩しかねないんですよ?」
「本当・・『嘆かわしい』ですわ」
そう揶揄するような返答に、ティアラの険が鋭くなったが、ミルの表情は変わらない。
「レオンハートの手を取る、妖精なんて」
「・・まさか、それだけで?・・」
妖精を認めている国は多い。だが、そこに何の垣根もない国はほとんどなかった。
人権を得ているエルフですら、職に就くのは簡単ではない世の中、魔獣や害獣にさえ分類されていた妖精の種族など普通に生きていくことさえままならないのが常だ。
それを長い時間、何代もかけて。諦めず、地道に少しずつ、その地位を向上させるのは並大抵の努力では無理だろうし、一人の頑張りでも不可能。
種族一丸となり、多くの人に助けられ、確かに積み上げられた結果だ。
そして、そんな彼らの確かな功績は実を結び。
妖精蔑視の筆頭とも言えるレオンハートの後ろ盾を得たのだ。
その決断をした者こそが、現大公。アークリフトだった。
彼の場合、ティアラという幼馴染がいる背景もあったが、そんな同情心だけで動くほど大公の名は軽くない。故に、その後ろ盾は重く、確かなもの。
そして、生まれた妖精初の大臣。それはセイレーンの、というより妖精の、延いては種族を超える歴史的快挙だった。
これから大きく歴史が変わる。
一つの種族の小さな努力が今、大きな波となって世界に波及していく。
奇跡などと軽々しく纏められたくない程の、それを――――。
ミルのレオンハートに対する執着にも似た暗い感情は、この僅かな時間でも感じられてはいた。
だが、そんな個人の感情のために、一つの種族。その地道なまでの頑張りを無下にしようなど、ティアラには理解できない。
「・・『嘆きの唄』。あたくしは彼女たちの本能を少し解き放って差し上げただけですもの。・・だから、これこそが彼女たちの『本音』。本来の姿なのですわ」
そう言って微笑むミルにティアラは憤り以上の感情が吹き上がった。
それは、セイレーンたちの努力を嘲笑い、その努力を偽りの紛い物だと揶揄する、侮辱以外の何ものでもなかった。
ティアラは握る杖に力が篭もり、先程までと違う震えが止まらなくなった。
その時、急な突風が吹いた。
「くそっ・・。精霊まで飲み込もうとするなんて、でたらめすぎない?・・ちょっと焦ったわぁ」
自身のマントを翼のように翻し、天井まで飛び上がった悪魔がほっとしたように呟いた。
漆黒の沼に胸辺りまで引きずり込まれていた悪魔だが、どうにか抜け出したらしい。
そして、そんな悪魔を見て、ティアラは冷静さを取り戻し、改めてミルを見た。
彼女は、引きずり込むような腕こそ払ったが、それ以外に何も変化がない。
靴の先程も沈んではいなかった。
「まだ、術は終わっていません、です」
小さく呟くアンネの声に反応したかのように麦穂が光り、揺れる。
「・・は?」
思わず漏れた声を漏らした悪魔。
その鼻先が付く程に近い眼前に、光の聖母が居た。
聖母は優しく、包み込むように悪魔を抱きしめた。




