101 翡翠姫 Ⅲ
「救助者と負傷者は別の艦に別けろ!帰還者もだ!すぐ前線に戻れるよう補給と休息の準備をしておけ!!」
砲撃の轟音以上に騒がしい艦隊の喧騒。
その中、司令部の面々は動きを止め、皆一様に城塞を無言で見つめていた。
当然、そこにはアークもいる。
アークは、僅かに口角を上げて静かに笑った。
「ティアラのやつ、『翡翠宮』を使いやがったな。・・『黄金獅子ノ咆哮』の効果があるからと言って・・・無理しやがって・・。・・もう限界だろうに」
「・・・閣下。姫様はご無事でしょうか・・・」
「リーシャに関しては何の心配もいらない。・・『月ノ妖精』の『妖精の揺り篭』に守られているのだぞ。・・我ら、レオンハートが認めた『魔導師』を甘く見るなよ」
「・・失言でした」
それはラルフの部下。ニコライに代わりその補佐を担ってはいるが、彼はファミリアの出身ではない故に、魔術師や魔導師といった者たちの心には疎い。
だが、アークはそう断じながらも、笑みが陰った。
『レオンハート以上の魔力を持つ魔導師など史上初だろうな』
――――・・魔力が弱すぎる。・・・やはり、限界を超えて『妖精の揺り篭』を使い続けていたな・・・
ハーフの身で、妖精の力を使うには負担も大きい。
それを常時発動など、負担などという程度のものではないはずだ。
そして、その事に気づくのはアークだけではない。
況してやここは司令室。
集まっている者の大半が、大なり小なり修羅場を超えてきた者たち。
さらに、言えばファミリアの艦隊。魔術に疎いわけもなく、魔導師たるティアラの事を知らないわけがない。
そして、それは、ラルフの部下はともかくラルフ自身も察した様子だった。
だからこそ、言葉にせず、ただ無言で頷いて見せる。
それに対し、彼らも同様に無言で頷きを返した。
「・・サーシスを信じて待とう」
そこに船員が飛び込むように司令室に入ってきた。
「失礼いたします!!先程、空から少女が城塞内に飛び込んでいったと目撃情報がありました!!」
息を切らしながらも、よく通る声で叫ぶように報告をする船員に視線が集まり、アークは再び司令部の面々と視線を交わした。
「・・恐らくアンネだ。・・もしかしたら『禍ノ芽』がいるのかもしれない。・・あの二人が揃って突っ込まずにアンネを送ったのならばその可能性が高い」
そう口にしながら、アークは無線に向き合う通信兵に視線をむけた。
しかし、その視線に返ってきたのは苦い表情。
「・・未だ通信は繋がりません」
「・・はぁ。全く、報連相ぐらいはしてくれよ・・。だが、あの二人だ。皆、『悪魔』の存在があると思って事にあたってくれ」
呆れた息を漏らしながらも、確定事項として判断するアーク。
不満はあれど、そこには確かな信頼がある。
「「「「「!?」」」」」
その時、大きな魔力が破裂するように吹き出すのを感じた。
その魔力は、あまりに膨大で、禍々しく、思わず背筋に汗が滲む。
その場の人間だけではなく、戦場にいる全ての人間がその衝撃に振り返り、皆一様に城塞の一点を見つめた。
「・・化物・・・」
誰からともなく呟かれた言葉は広く伝染して、同時に言い知れぬ恐怖心を生んでいく。
レオンハートをよく知っている面々でも例外なく、恐れを抱く。
人外の魔力の大きさも驚きの一助ではあるが、それ以上に悍ましいまでの禍々しさを凝縮したような、血に塗れた魔力。
「・・・まるで、ドラゴンだな」
アークの例えに、一様に頷くほど、獰猛で濃密な魔力と畏怖。
魔力のみで天災のそれと言えるだけの異常さを、否応なく感じさせる。
「・・うっ」
更に、そんな事を考えていると、その魔力が今度は波紋となって通り過ぎた。
身体を通り抜けた際の、不快さはあまりに酷く、腐臭の中に突っ込まれたようで、胃酸が登って来る。
アークはどうにか飲みこむ事ができたが、周囲には思わず吐き出してしまう者も居た。
「・・一体、何が・・・っな」
そう呟いた一人の船員は、窓から外を見て息を飲んだ。
その様子を見て、アークたちも窓に近づき外に目を向けた。
そこには突如立ち込める濃霧。
まるで超速再生でもしているかのように、急速に視界を塞ぐ霧。
だが、息を飲んだのは何も霧の発生だけが理由じゃない。
問題はその霧の姿だ。
まるで血風そのままのように深紅の霧。
日の明かりを遮るとか、そんな話じゃない。
視界すべてを真っ赤に染めるその様子は、薄気味悪さなど超えた、まるで別世界に迷い込んだような恐怖しかない。
だが、そんな皆の恐怖心以上に慌てた様子を見せたのはアークだった。
「退避しろ!!急ぎこの霧を抜けろ!!」
「え・・は、はいっ!」
一瞬反応に遅れたが、アークの慌て様にただ事ではないのだと船員たちが一勢に動き出した。
「閣下、一体これは――――」
ラルフも状況の理解に追いつけないようで、動き出す船員たちの邪魔にならぬように立ち回りながらも、アークに訊ねた。
その時のアークの表情は険しく、レオンハートらしくなく、余裕が完全に消え、焦りに強張る横顔。
だが、ラルフの言葉が終わる前に、その言葉はアークの手によって制され、遮られた。
アークの目は一点を見つめ、真剣に感覚を研ぎ澄ますような姿。
そこに生まれた沈黙。
耳を澄ますような沈黙。
しばしの沈黙の後、ラルフがもう一度口を開こうとした時。
~~~~~♪
唄が耳を掠めた。
その瞬間、アークは勢いよく顔を上げた。
「総員魔力制御を高めろっ!!」
だが、そんなアークの叫びと同時に、事態は遅いと言わんばかりに動いた。
「パガール艦自爆!!沈みます!!」
「ブノベ艦にて、船員が錯乱しています!!同士打ちや、自ら海に飛び込む者多発!!」
騒がしい報告が喧騒のように飛び交い始めた。
急襲のような内容の報告に慌ただしくなる中、それでもアークの命令を伝え、更に自分たちも実行する司令室。
だが、その自艦にさえ、似た様な事態が起きた様子でその報告も後を絶たない。
「閣下、これは一体――――」
「後衛艦が爆物を海中に投下!その起爆許可を求めております!!」
司令部の者たちは事態について行けない。
だからこそ、この事態を正確に理解しているだろうアークに視線を向けるが、そこに飛び込んできたのは意味不明の事後申請。
武器を海に捨てたような報告に怒号を上げようとした時、アークから穏やかな微笑みが漏れた。
「・・流石、普段漁師をしている者たちは対処が早いな。・・許可する!!それとその他の艦にも同様にするよう通達しろ!!」
「魔導師、魔術師問わず、使えるものは『音爆弾』を海中に放て!!」
それに続くように命令を飛ばすのはラルフだった。
理解が追いつかない他の司令官たちとは違い、すべてを察したラルフの判断。
それは正しかったらしくアークと視線のみで頷き合い、指揮権を引き継いだ。
アークはラルフに方面への指揮を譲り、状況についていけない面々に向き合った。
「閣下、一体何があったのですか」
「『水妖』だ」
「人魚ですか!?」
「・・・それだけならいいんだがな」
耳に響く唄は強さを増し、ハープのような音色も重奏となり始めた。
「・・・ジウ・・この魔力って」
「グレース。その呼び名はふたりの時だけだろう?」
「あ、えぇ。ごめん」
中に浮かぶ大鎌の上、ゼウスとグレースは城塞を睨むように見つめていた。
「・・残念ながら、予想通り悪魔が出てきたな。それもこの魔力。『禍ノ芽』で間違いないだろうな」
「アンネは『漆ノ葉』か『玖ノ葉』に初見で当てたかったけど、どうやら違ったみたいね」
「だな。・・まぁ、『禍ノ芽』は『禍ノ芽』だし、アンネのいい経験になると思えば十分さな」
二人はまるで我が子の成長を願うような穏やかでアンネの笑みを思い出していた。
「そうね・・。ってそうじゃなくて。そんなことより。何?この化物みたいな魔力。戦場の血と硝煙を煮詰めて、更に憎悪をふんだんに塗したような醜悪な魔力」
「・・醜悪かぁ。大体はドラゴンとかに例えられるけどな」
「ドラゴンって・・。こんな禍々しいの屍龍か暗黒竜くらいしか該当しないでしょうに。・・ドラコスパイン家の人達に怒られるよ?」
「いや、あそこなら領民にさえ怒られるな」
「確かに・・って、だからそうじゃなくて」
「あぁ。あの魔力だよな。ミルだよ。間違いない。・・・幼い頃に一度だけとは言え、私もマーリンも決して忘れないさ」
「・・・えぇ。これは忘れようとしても忘れられない」
そう言って顔を顰めたグレースは変わらず城塞を見つめた。
そこには明らかな嫌悪感が滲んで、魔女を名乗る者として、その存在を決して認められなかった。
「・・ところで、グレースさん」
「ん?」
「この体制どうにかなりませんかね?」
「え?無理」
「あ、はい・・」
空飛ぶ大鎌の上。二人は共に腰掛けてはいる。
だが、仲良く並んでいるわけでも、相乗りしている訳でもない。
大鎌に横乗りで腰掛けるグレース。
その膝にお姫様抱っこのように横向きに抱き抱えられるように腰掛けるゼウス。
思わず羞恥に両手で顔を隠してしまうが、その姿が余計ゼウスの姫感を助長している。
だが、仕方なかった。
ゼウスが空中に滞在するにはグレースに頼るしかない。
だが、さっきまでのように浮かしてもらおうにも、グレース本人から「疲れる」と一蹴されてしまえば、二の句を継げない。
結果、この方が低燃費だからと膝の上。
その際、わざわざ、ずぶ濡れのゼウスを乾かす魔法を使ってはいたが、それは手間にならないらしい。
「それにしても、この霧は何かな?」
「・・水妖だろ、どうせ」
グレースの興味は眼下に立ち込める赤い濃霧に移ったが、ゼウスのほうは全く自身の状況を受け入れられず葛藤していた。
「水妖って・・人魚、とか?」
「・・人魚もいるだろうが、この音色はたぶん――――」
『――――――!!』
その瞬間、耳を劈くような奇声が襲いかかり、それと同時に濃霧の中から突き抜けるように美女が二人に飛びかかって来た。
だが・・。
ヒュン
風切り音のみが通り抜け、ゆっくりと美女の首と胴体がずれて、離れた。
「セイレーンだな」
横抱きのまま手首だけを振ったゼウスは、感情もなく首と胴体の別れ、落ちてゆく姿を見遣った。
美人が台無しだと見当違いの感想を抱くようなその表情は狂気に歪み、口が裂けるほど開かれ、黒目のみの目は鋭く見開かれ、光を失っていく。
クリーム色の髪は癖ひとつなく柔らかく流れ、汚れ一つ無く、溢れた血さえ弾き穢されない。
目を引く容姿は何も顔だけではなく、整った身体のバランスも同様。
緩やかな、一枚布のような服から覗く肌は扇情的で、男を容易に惑わす。
そして、腕には羽毛、足には鉤爪という姿。
首と胴体がゆっくりと離れ、重力に従い落ちていく様子にさえ一瞥を与えるだけで、それ以上の感情を見せる事がないゼウスに比べて、グレースは痛ましげに海面に叩きつけられるその姿を最後まで見送った。
「・・正気を失って・・・」
「妖精とは言え、可愛そうだな」
本当にそう思っているのか淡々とした声のゼウスに、少し不満げな視線を向けるグレースだが、ゼウスはその視線に気づかない。
だが、これが魔術師の普通。妖精は彼らにとって虫か獣と変わらない。・・いや、もしかしたらそれよりも感情を抱かないのかもしれない。
ただ、ティアラの存在から、ゼウスの態度はその中で柔らかいほうだ。
魔術師の中には、熾烈なまでに妖精を嫌うものも少なくない。そうじゃなくても、妖精を『物』以上に扱わない魔術師が多い。
だからこそ、生まれが違い、魔術を学ぶ以前に魔法を開花させたグレースにとってその価値観はあまりに馴染めない物だった。
それこそティアラの事も知っていて、彼女に対するゼウスの甘さも見ていただけに、初めて『妖精』に対した際のゼウスを見たときなど、その非情さに震えるほどに恐怖した。
「・・あの『霧』が原因?」
「だろうな。人狼にとっての月みたいなもんだろ。その上、正気を失わせるだけじゃなく、誘蛾灯のように引き寄せ、更には催眠にでもかかったかのように術者の命令に従う。・・確実にミルの魔法だろうな」
「・・こんな魔法見たことない」
「そりゃそうだろうよ。こんな他者の意識も尊厳も奪うような術、禁忌呪術だ」
ルネージュでは見ないが、他国ではセイレーンも人魚もまた普通に社会に溶け込んで生活している。
かつては、人を喰らう害獣と同じだったが、それは遠い昔の話。今では、当たり前に人間社会に適応し、中には人と家庭を築く者も少なくなどない。
寧ろセイレーンも人魚も人との共存において比較的早い段階で馴染み、更には人と同様の生活をするようになった種族である。
最近では、妖精ではなく異人種として扱われることもあるほどの種族なのだ。
そんな、理性と知性を持つ種族のあまりに獰猛な姿。
これを成す術など、あまりに道徳に反している。
「胸糞わるいな」
赤い霧の中から響く悲鳴。
だが、同時に響く唄も奇声も、その悲鳴の一つに聞こえた。
『謳う英雄』
「え!?ちょっ、ジウ!?」
無感情に呟かれたゼウスの声にグレースは目を見開いた。
『十二宮』
ゼウスを中心に天を覆うように展開された金の魔法陣。
金の粒子が粉雪のように舞いながらその光を増していく。
「・・ごめんアークリフト君・・・油断してしまった・・・・」
諦念の想いを呟くグレースの瞳からは光が消え、何処か泣いているようにさえ見える。
『麦穂の母娘』
「ごめんなさい・・・」
「おにぃぃいいいぃぃぃいいぃい!!!!!?????」
本人に届くことの無い叫びが響いたが、グレースにはきっと伝わっていた。
『真珠穂』
海も陸もなく、眼下には黄金の絨毯が広がり、乳白色の実を揺らした。




