97 悪魔の悪意
「ディーニ。『悪魔』が居るのなら急ぎ戻らないと」
「大丈夫だろ。リーシャを送り出したのはそういう事だろうしな。それにグレースもいるしな」
焦りを見せるナンシーとは反対に落ち着いた様子が変わらないジキルド。
ナンシーはそんなジキルドの様子に更に焦れ、苛立ちを向ける。
「閣・・アーク様は今、体調を崩されているリリア様の傍にいるのよ?」
「ナンシー。あそこは魔導王の居城だぞ?どれだけの国々があの城を落とせずに滅んだと思っている」
「それは・・そうだけど・・」
しかし納得は行っていないように、視線を巡らせる。
ジキルド、リーシャ、そしてマーリン。その視線が何を言いたいのかはよくわかる。
「確かに、我が家の最高戦力は城主であるレオンハートだが、それだけではない。魔導の聖地ミーティアを甘く見るなよ」
「でも、相手は悪魔よ?」
ナンシーの不安はもっともだ。
悪魔と呼ばれる精霊は最低でも上位の精霊。神にさえ例えられる事象の存在。
そんな相手に備えすぎるなんて事はない。
そしてこの場には、レオンハートの主戦力たる人間が三人もいる。
なればこそ、彼女の焦りもわかる。
「大丈夫だ」
「そうよ。大丈夫よ」
だが返ってくるのはあまりに朗らかな微笑みと、何一つ揺らぎのない声。
そんな事で不安が払拭されるわけはない。
だが、それでも、大丈夫だと思えてしまう程に、ジキルド達の「大丈夫」は確信に満ちていた。
「そうですよ。ナンシー。大丈夫ですよ」
「リーシャ様・・」
「ま、フリードもいないんだけどね」
「え!?」
貴重な主戦力の欠落。それをあたかもついでのように・・。
一気に不安がぶり返したナンシーだった。
「ちょっと待ってください!!先程から何の話ですか・・」
その声は明らかに焦り以上に、理解が追いつかない絶望が滲んでいた。
「何って、タヌス。悪魔の話ですよ」
「そうではなく!!・・皆様の話ようでは悪魔がミーティア城内にいるようなおっしゃり様ではありませんか」
「・・そう言っているのだが?」
「お調べになったのですよね・・。悪魔を降ろしたのは私だと・・私の中に悪魔がいると、それなのに何故にそのようなお話になるのですか!?」
「・・・タヌス。貴女、気づいていないの?」
タヌスはリーシャの側近でも筆頭。
そんな彼女がこんな鈍いわけがない。頭の回転は早く、臨機応変。空気を読み、察することも人並み以上にできるはず。
それなのに今の彼女には、違和感しかない。
そこで初めて、皆、息を飲んだ。
確かに目に灯る、狂気の色。
あまりに何気なく、気づきにくいほどに隠された異様。
今だって、僅かに顔が覗くかどうか程度のもの。
それがどう言うことか。
落ち着いた様子だったジキルド達さえ目を見開いた。
「これは・・」
「・・まさか、悪魔は悪魔でも、『禍ノ芽』か」
「・・ミルの直近とは、大物が出てきましたね」
タヌスの瞳に隠れ潜む狂気。それは明らかに異様のもの。
だが、タヌスはレオンハートの側近でリーシャの侍女。
精神耐性には、ほぼ絶対的な自信がある。筈だった。
例え、それが高位の精霊であっても、そう簡単に堕ちる事など有り得ない。
況してや、自我を違和感なく残すなどという繊細な技。誰でもできるものではない。
リーシャはハッとして振り返った。
そこには複雑な笑みを貼り付けた騎士がいた。
「・・副団長・・まさか、これが理由なの?」
サーシスに視線が集まった。
「・・・いえ、最初のきっかけはジキルド様の仰った通り、私の心の弱さから、蜃気楼のような希望を盲目に見てしまったことが始まりです。・・ですが気づけば、協力者であったタヌスに悪魔が宿っておりました。・・それも徐々に彼女の精神を汚染する程の悪魔。そんな悪魔など限られます・・」
「人質か・・」
「・・はい。私はそう思いました」
マーリンは語るサーシスの瞳に陰る一瞬の鈍い狂気を見た。
「ニコ・・。貴方も、もしかして・・」
「・・マーリン様・・はい。・・なんとか押さえ込んではいますが、私にも少なくない影響が及んでいます」
「・・レオンハートの副騎士団長ともあろう者が、情けないわね」
「・・全くもって、仰る通りです」
そう言って下手くそに笑って見せるサーシスに、マーリンは眉を顰めた。
その時、悲鳴のようなタヌスの叫びが響いた。
「いない!?いないっ!?なんでいないの!?なんでっ!?なんで!?」
「タヌス!落ち着いて!!」
胸を叩くように握り締めるタヌスは半狂乱となっている。
隣で支えるナンシーが必死に抑えようとするが、タヌスは混乱から帰っては来ない。
いつも皺一つ無い彼女の侍女服も乱れ、深い皺を作っていた。
タヌスはようやく自身に宿っていた悪魔がいない事に気づいた。
その意味すること、皆が話し合っていた内容。
タヌスの思考は大いに乱れた。
『隠匿の雌馬』
空から光が降り注いだ。
「あ・・・」
「タヌス!」
その光を一身に浴びたタヌスは身体から赤紫の光の粒子を弾けさせたと同時に意識を失った。
力を失い地面に落ちかける身体をナンシーが慌てて支えた。
「もう・・。リーシャ姉様。飛ばしすぎですよ」
空から穏やかで、しかし呆れたような声が降りてきた。
「やっと追いつきましたぁ・・」
もう一つ、幼い少女の声は安堵と疲労が入り混じったような息と共に吐かれた。
視線を上げた先。そこにはゆっくりと舞い降りる箒と、それに跨る少年と少女。
「フリード。遅いじゃない」
「・・姉様。スピードの出しすぎは厳禁だと注意されたばかりじゃないか。・・また、叱られますよ?」
「むぅ・・。緊急事態なのだから大丈夫よ・・・・・たぶん」
泳ぐ視線をチラリとマーリンに向けたが、視線がかち合った瞬間、微笑まれた。
その微笑みに「ひっ」と声が漏れた。
「フリードの『星を謳う者』は素晴らしい練度になったな」
「御祖父様にそう言っていただけるなんて、光栄です」
普段飄々として感情の起伏が見えづらいフリードだったが、ジキルドの褒め言葉には、含羞むような年相応の喜びが滲む。
「・・全く。タヌスは只でさえ怖がっていたのに、あんなに速度を出すから正気を失っていたじゃないですか」
「だ、だって、メアリィがあまりにも楽しそうだったんだもの・・。フィーの側近に負けてられないじゃない!」
「貴女はどこで対抗心を燃やしているのよ・・。それとフリード、タヌスが混乱していたのは別に空を飛んだせいではないわ。・・・まぁそのせいで憔悴していたのも心を乱すやすかった要因かもしれないけど、原因はあくまで別よ」
リーシャのポンコツな様子は、非情に既視感、と言うかフィリアそのままだ。
そして、偉そうに諭してはいるが、フリードもまたそんな非常識印のフィリア製魔導具を使っているのだから同罪。
「そうだフリード。ゼウスは何か言っていたか?」
「・・なるほど。『悪魔』が理由でしたか」
「やっぱり聞いていたのね」
「はい。叔父様の所見では、ミミに施されたのは誘導催眠系、であれば悪魔は『肆ノ葉』ではないかと」
「やはり『禍ノ芽』だったか・・」
意識を失ったタヌスを見つめ呟くジキルドとマーリンは無意識に手を握り込んだ。
だが、それはタヌスに向けた感情ではなく、そんなタヌスを利用し、遂にはレオンハートの逆鱗に触れる、無神経な愚か者に対する激情。
「さすが、ゼウスだ。『悪魔』の専門家だな」
「・・それおにぃに言ったら、怒られますよ?本人は好き好んで『悪魔』に詳しくなった訳じゃないですし、グレースさんも同様でしょうけど・・」
「それと、叔父様は相手が『肆ノ葉』ならば、アンネもいるし問題ないと言っていました」
「そうか・・。アンネが居たな」
「えぇ。確かに。『肆ノ葉』相手ならば、アンネは『特効』とも言えるわね」
「・・お二人共。お話しの最中申し訳ありませんが、それよりも『星を謳う者』を精神安定剤替わりに使われたことへ言及はないのでしょうか。結果として悪魔の精神汚染があったので効果的でしたが、フリード様はあくまで『取り乱していたタヌス』に最上位術式を使ったのですが、その事については何もないのですか?」
「ん?」
「え?だってフィーがそういう効果があるって立証したじゃない」
リチャードの常識的な意見に、本気で首を傾げる非常識一族。
フィリアが発見したのは、これまで知られていなかった新事実。
正直、革新的発見とも言えるべき事柄。
それは確かにすごいことだし、新たな可能性ではある。
だが、それはこれまでの常識外のこと、それをもうすでに当たり前のように受け入れている彼らがどれだけ異常か。
魔導に関しての異様なまでの柔軟さについていけない。
「ていうか、それなら、それ以前にこれの方が理解できないわよ」
指差すマーリンの言葉に深く頷くレオンハート達。
その指の向く先。リチャードは視線を上げた。
「・・確かに」
黒雲が大瀑布のように空に割れ落ちている異様で、あまりに現実離れした光景。
要は、フリードの非常識など、この事象を前にしてはまだ理解の範囲だっただけ。
現実から目を逸らしたとも言える。
だが、いつまでも無視は出来ない。
覚悟を決め、その理由に心当たりがあろうリーシャに視線が集まるが、リーシャは首を振り否定を示した。
そのリーシャが視線を向ける先、皆がその視線を追う。
それは、フリード。だがフリードもまた首を振る。
しかし、その表情は苦笑を含み、答えを知っているもの。
そして、フリードが促す視線の先。無言で繋ぐ視線のみのリレー、その終着は一人の幼い少女。
皆から少し離れ、地面に屈んで何やら大切そうに拾い上げる少女。
立ち上がった少女のその小さな手には純白のハンカチーフ。
それを宝物のでも触れるかのように優しく土を払っている。
「良かった。そんなによごれてない」
安堵の声を漏らす少女・・メアリィ。
そして、手には『てるてる坊主』。
一番の規格外が誰かなど、この場にいなくても明確だった。
「フィーか」
「フィーね」
「姫様ですね」
「フィリア様ですか」
「フィーだよ」
「フィーでしょうね」
満場一致の納得。
「ん?」
唯一よくわかっていないメアリィ。
周りの声に首を傾げる可愛い姿・・それがせめてもの癒しだ。
――――パンッ
そこに響く乾いた音。
だがそれはリーシャが先程鳴らした平手の音よりも、ひどく無機質な音。
皆一勢に振り向いた先。
そこには向かい合う二人の男女。しかし向かい合うといっても男は跪き、女はそれを見下ろしている。
そして何より、女の手には銃が握られていた。
銃口は男に向けられ、硝煙を上げて。




