95 魔導女帝
全てを薙ぎ払うような暴風は花々を根元から荒々しく抉るほどの獰猛さを持っていた。
そして、そんな災害のような暴風はたった一人の人間から生み出されている。
その姿は規格外などという言葉では足りないだけの畏怖を抱かせる、まさに猛狂う神が降臨したかのような威圧感。
そこに理性など全く感じない。
その証拠に傍に控えるナンシーとアリーは胸を押さえ青ざめている。
ナンシーはあまりに膨大で、荒れ狂う魔力の奔流に。
アリーは激流のように濃く荒い空気に息苦しく。
そしてそんな中、元凶であったとしても、その中心に立つマーリンも平気ではいられないはず。
妖精とは違い呼吸は必要だし、自身の魔力で生み出したとは言え、魔力の乱れに敏感なレオンハート。
恐らく傍にいる二人よりもマーリンの方が辛いはずなのだ。
だが、それでも風が弱まることはない。
寧ろ更に勢いを増し、ついには陽光が届かぬ程に厚い雲を、空に集めてしまっている。
彼女の理性はそこにない。
怒りにも、嘆きにも感じる激情は、ただ真っすぐに目の前の騎士に向けられているのみだった。
燃えるような蒼い瞳。
あまりに冷たく、全てを焼き尽くすような眼光。
それを一身に受けるサーシスは息を呑む事しか出来なかった。
蛇に睨まれた蛙のように、畏れを抱くのみ。
自身の心臓の音さえこの時は、止まってくれと願うほどに。
『万象ノ紡糸』
だが、関係なく無情で冷淡な声が、響いた。
呟くような小声なのに、その声だけは確かに耳に届いた。
瞬間。
吹き荒れていた風が、夢であったかのように消えた。
凪などと言うにはあまりに不自然な程に。
風だけではなく。音も、命も、全てを飲み込んだかのように、静寂だけを残した。
だがそれも一瞬のだけのこと。
時が止まったかのような無も、瞬きにも満たない程の刹那だけのこと。
『深緑ノ糸』
風は消えたのではなかった。
吹き荒れ、縦横無尽に暴れていた風は一瞬で収束し、一本の筋となってマーリンとサーシスを繋いだ・・。いや、サーシスを貫いていた。
「・・?」
本人すらも何が起きたのかわからない。
全ての感覚が理解に追いつかず、何も感じない。
それ故にサーシスは、目で追うようにマーリンから伸びる一本の糸を辿り、ようやくその糸が自身の肩を貫いているのに気づいた。
そしてようやく、目視とともにジワリと広がる感覚。
「ぐっ!!」
痛みが広がると同時に服を滲ませる血。
全ての物が、あまりにも刹那の出来事に反応が遅れていた。
サーシスは肩を押さえ苦悶に顔を歪めた。
だがそれでも、視線を落とすことはない。
自身の状態を確認しても、すぐに前へと視線を戻した。
しかし、それはマーリンを見るためではない。
それどころか、サーシスの視界からはマーリンが見えなかった。
その理由は単純。目の前にたなびく燕尾の執事服。その背中がサーシスを庇うようにマーリンとの間に立っていたからだった。
「・・全く。爺に対する人使いが荒い雇用主ですね。・・最近話題の労働組合にでも訴えて参りましょうか・・」
「はは。弟子の暴走は師匠が止める。至極当たり前の事だろう」
「並みの弟子ならともかく、レオンハート。それも『導師』と呼ばれる程の弟子など、もう手に負えないほど格上ですよ」
「最近じゃ、『魔導女帝』などと呼ばれているらしいぞ。『魔帝』の弟子らしいな」
「・・ご勘弁ください。過分なあだ名です・・。それに、マーリン様がそう呼ばれるのは、魔導王の娘で姉だからでしょう?私など関係ございませんよ」
穏やかで聞き取りやすい口調と声色。
感情を見せないことなど、普段から息をするように当たり前にやっているのに、主人の声に不快さを僅かに匂わせる手腕は、実に自然で素晴らしいものだ。
そして、そんな執事の反応を楽しむような、趣味の悪い主人。
ジキルドとリチャード。年季の入ったレオンハートの主従。
レオンハートの他の主従ならば主人の無茶ぶりに、振り回されてしまうが、リチャードにあっては、その表情さえ完璧にコントロールするどころか、そこにアドリブさえ交えてしまう程の余裕が有る。
・・・果たして、その練度は羨ましいものなのか。は、さておき。他の主従との格の違いが見える。
「リチャード!!」
「・・・ふぅ。ジキルド様には、あぁ申し上げましたが、マーリン様、私が貴女の師であることは事実です。なれば、そこに敬意をお示しなさい。レオンハートの女傑なればその程度の礼儀を欠くのではありません」
叫んだマーリンに対して、静かに、しかし重く。毅然として一括したリチャード。
その言葉と共に放たれた鋭い魔力。
同時に、マーリンは収束していた風の糸から魔力を解いた。
その瞬間二つの空気の爆弾がぶつかりあった。
「・・うむ。虚を突いても意味ありませんか」
「・・・貴方から教わった事です。周囲の状況を利用するのが、もっとも基本で効率的な魔術運用だと」
「流石です。・・しかし、私の主戦術でもあるそれを、こうも私以上に使いこなされては、師として喜べばいいのか、同じ魔導師として妬めばいいのか・・。なんとも複雑な心境ですね」
涼しい顔で行われた一瞬の攻防。
正直何があったのか良くはわからない。だが、少なくともそんな淡々と会話を交わせるようなことではない。
無詠唱で、それも一瞬で魔術を行使したリチャードも。
そんなリチャードの魔力の動きのみで即座に反応して見せたマーリンも。
二人は何てこと無いように行ったが、そんな簡単なことではない。
況してや、マーリンの作り出した空気の激動を二人とも、手足のように利用するなど言うほど簡単ではない。
天災や天候を操るなど魔導師でもひと握りにしかできない上に、負担も異常なものだ。
故に、自然を操ったり発生させるのではなく、手を添えるように利用するのが魔術の基本なのは確かだ。だが、だからといってそれがこんな顕著に効果を示すなど、はっきり言って異常を超えている。
それを、息がするが如く行う二人。
間違いなく常軌を逸した師弟だ。
「それに、風壁さえ貫通して防ぎきれませんでした・・。サーシス様、肩は大丈夫ですか?」
「・・はい。ありがとうございます・・」
「何をおっしゃっているのです。私は心臓を『繋ぎ』ましたのに、それを逸らすなんて、それだけでも信じられませんわ。一応、『絶対不可避』の魔術と銘打ってますのに」
「そうですね・・。魔障壁のような『防御』では無理でしょうね。ですが、『指向』の特性を持つ空気の術なら、防げなくともその指向を少し逸らすくらい出来てしまいますね。・・ともなれば、この環境を作ったのは悪手でしたね」
師匠からの指導。
だが、そんな事よりもマーリンが狙った標的の方が問題だ。
マーリンは間違いなくサーシスの命を刈り取るつもりだった。
サーシスは喉を鳴らし、恐怖に背筋が震えた。
しかし、何故か、青ざめる様子などなく。寧ろ、覚悟を決めたかのように活力を満たした目を二人に向けた。
「精進いたしますわ。・・・ところで、そろそろそこをどいていただけませんかしら?先程は激情から礼儀を失ししてしまい、申し訳ありませんでしたわ。・・しかし、私の行動については手を出さないで頂きたいのですけど」
「・・サーシス様がフィリア様に手を掛けたことは擁護などするつもりはありませんし、レオンハートの肉親に手を掛けようとした者の凄惨な末路もよく存じております。・・しかし、それは、あくまでレオンハート大公家としての制裁であり、きちんと国から容認されたという公的な建前がございます。・・・それは、教育も担うマーリン様ならば、よくお分かりでしょう。・・そして、ジキルド様の『手』たる私が間に入った意味も」
レオンハートが罪に問われることはない。だからこそ、そんな免罪符を持っている彼らは人並みの倫理観を持ち、人並み以上に自らを律しなければならない。
過剰な家族愛故に、行われる苛烈な制裁は有名ではある。しかしそれが公的な承認があっての事であるとはあまり知られてはいない。
ほとんどの者が、当然のように勘違いしている事実。
普段の行い故の自業自得ではあるが、意外にも私情のみの私的制裁ではなかったりする。
そして、彼女は『導師』の名に相応しく、多くの教え子を持ち、現在はフィリアの指導も任されている。そんな彼女が、その事を知らないわけない。
更に言えば、淑女の鏡とまで称されるリーシャの教育もマーリンが担ったものだ。なればこそ、リチャードが割って入った意味を察せないほど無知では決してない。
従者の一挙手一投足の全ては主の代弁。
つまり、マーリンを止める事はリチャード個人の意思ではなく、ジキルドの意思。
「・・サーシス様を、貴女自ら断ずる必要がございますか?」
「それが、レオンハートの・・。・・愛する家族への断罪ですから」
家族を害した『敵』ではなく、『家族』。
レオンハートは特異な存在故に、家族の断罪は家族に一任される。
というより、それ以外の者には手に余るからという本音がある。
それが、レオンハートにとっての『家族』。
蜜のように甘い愛は、毒さえ甘露に、引導を渡す。
「・・マーリン様は彼を家族同然に愛してらっしゃるのですね。・・・しかし、それでもサーシス様はレオンハートではありません。・・きちんと国の法にて罪を裁けるのです。いや、裁いて頂かなければなりません。マーリン様が家族同然とおっしゃるならば尚更です。本来ならばレオンハートに手を出した時点で、破滅以外ございませんし、自業自得で同情の余地もございません。・・・ですが、そんな他の愚か者と同様に彼を滅してしまえば、世間もまた、サーシス様をそんな痴れ者と同族だと断ずるでしょう」
レオンハートではないサーシスは、マーリンがどのように殺そうが、世間から見れば他の刺客と何ら変わらない。
『愚か者』『痴れ者』『身の丈もわからぬ阿呆』――。無数の蔑みが容赦なく注がれるだろう。
犯罪者というだけでも人々の嫌悪感は強かろうに、この土地で、『魔導王』と賞賛を集める一族に唾を吐いたとなれば、罪状以上の大罪となる。
マーリンが『家族』として断ずるのは、せめてもの情なのだろうが、そんな気持ちが汲まれる事はない。寧ろ、サーシスへの過剰な断罪を増長させる免罪符ともなり得る。
そして当然ながら、その矛先は亡き本人よりもその周囲に向き、何の権利も持たない『自称正義』が執行されるだろう。
「・・それでも・・っ。ニコライっ!!ティアラの顔に泥を塗りたくりって満足!?」
殺気を滲ませたままの怒号にサーシスは肩を跳ねさせた。
その時、喉を鳴らし、歯を強く噛み締めた。それはマーリンの殺気ではなく言葉に刺されたもの。
リチャードも横目に後ろを見てそれを確認したが、何も言わない。
しかし、サーシスを庇っている者とは思えないような、冷たい視線を向けていた。
「・・ティアラが残した物。ティアラが積み上げた物。・・功績だけじゃなく、繋がりや信頼まで、貴方の行動で全てを溝に捨てて。・・ニコライ、貴方はいったい何の為に今回の事を起こしたの?ティアラの為じゃないの?・・それなのに、ティアラを蔑ろにするような事までして・・。そんなの・・許せるわけないじゃない・・」
「・・・・・」
泣いているような、弱々しい声。
だが、そんなマーリンを前にしてもサーシスは声を発せなかった。
そして、その沈黙を待てるほど今のマーリンは平静ではない。
「っ・・。サーシス様、出来る限りお守りいたしますが、覚悟も決めておいてください」
噎せ返る程に濃い魔力が吹き出す。
息苦しいだけではなく、身体も軋む。
対峙するだけ吹き出すような汗と、歪むような視界。
マーリンの姿が魔力の渦に飲まれ、蒼い双眼だけが妖しく揺らめいていた。
その蒼い瞳に息を呑む。魔術に精通するものならば余計、そこに畏れを抱く。
その点、リチャードはその恐さを、よく知っている。知りすぎている。
マーリンを包むのは魔力のみではなく、荒れ狂う暴風とそれによって舞い上がる砂塵と花弁。
空の黒雲は濃さを増し、完全に太陽を遮り紫電が走っている。
その上、黒雲は空が落ちたように近くまで降りてきている。
それは巨大な爆弾となる。
落ちればこの場には何一つとして残らないだろう・・・。
それをたった一人に向け、マーリンは術式を発動していた――――、が。
「!?」
「なっ!?」
「は!?」
「えぇ!?」
「・・ほぅ。これはまた」
「・・・う、そ、でしょ・・」
天が割れた。
比喩でもなんでもなく、黒雲が切り裂かれたように割れた。
射し込むというより、溢れたように雪崩込む太陽の光。
そして割れた黒雲との対比が顕著な、澄み渡る青空。
その様子は、黒く氾濫した瀑布となり、空に落ちているようだった。
その場にいる者はもちろん、恐らく広く多くの人々が皆同じような表情だろう。
まさに『開いた口が塞がらない』状態・・。
いくら魔術の発展した世界とは言え、こんなのは有り得ない。
こんな事が出来るのは神か精霊しかいない。
神の御技。
割かれた黒雲。
星さえ望めそうな青空。
丸く摘まれた白いハンカチーフ。
・・・。
・・・・・。
いや、訂正。
神じゃなくとも居たわ。そんな理不尽。
「ちょっと待ったぁぁぁーーー!!!!」
そこに響く叫び声。
少女から大人に変わるような声だが、安定感のある柔らかな声。
『麗しの氷華』とは誰のことか。
これがフィリアの姉だと言葉以上の説得力を持つ姿。
黒雲の割れ目から文字通り飛んでくる箒。
それに跨る金髪の美少女。
深窓の御令嬢など欠片もない、お転婆姫。
豪速で、空気を切り裂いて飛んできた長女。
フィリアの間違いなく姉。リーシャ。
ふわふわと、ゆっくり『てるてる坊主』が後架していった。




