0 暁の明星
白く懈るような世界
そこは確かな感触も感覚も曖昧で
夢幻の中を逝くような世界
視界も朧げで乳白色に包まれ
自身の状態や思考も不明瞭で
微睡んでいるような心地
遠くで何か音が鳴っている気もするが、それも耳を掠める事さえできずに潜っては消えていく
漂うような心地よさに身を委ね
抗う考えなど浮かびもしない
時折ふと居心地の悪い感覚を覚えても、億劫に寝返りを打とうと身じろげば直ぐに解消される
そこは只々心地よい微睡みの世界
故に夢幻の世界へ行く事さえ容易く
意識は滑るように遠のいて逝く・・
――――――――――
「あれが。北斗七星で、あれから、こう・・伸ばした先にあるのが北極星だ」
子供のように楽しげな様子で話す父の言葉にまだ幼い少年は目を輝かせた。
小さな体躯に対して比重の大きな頭を傾け天を仰ぐ少年。
傍から見ればそのまま後ろにひっくり返りそうで心配になるほど反らされた体勢の少年は微動だにも出来ずに只々大きく目を見開き、瞳を輝かせていた。
満天の星空。
親子の立つその場所は遮蔽物はおろか、僅かばかりの明かりも皆無の草原。
そしてそこは、格別の一等席だった。
今にも零れ落ちてきそうな程に近い満天の星星は宵の天幕を所狭しと飾り付けている。
雲一つない空とは言えなかったが、その雲達もまた天蓋の星星を引き立てる美しいベールとなって淡く彩りを添えていた。
白金色だけでは足りずに赤紫や淡い橙、青緑の光も多い。星の体を成せないモノたちも薄い雲母のようになって淡く幻想的で複雑な極彩色を描いていた。
美しい夜空を見上げる少年は無意識に息が漏れ、そこには少年の溢れ零れた心情の全てがあった。
父はそんな息子の情緒を見て口端を僅かに緩ませると自身の手柄と言わんばかりに胸を張って見せた。
「すごいだろう。ここから見える星たちが一体いくつあんのかもわからない。まだ誰も知らない星たちも沢山あるし、もちろん名前のない星も沢山ある。ここから見えるのは宇宙のほんの片隅・・片隅の更にほんの一部。なのに、それでもだ・・。どうだ。宇宙にはロマンがあるだろう。夢があるだろう」
「うん!!ろまん!!」
勢いよく振り返った少年は夜空へ向けていた瞳をそのまま父に向けて声を上げた。
純粋な輝きをふんだんに蓄えた少年の目を受けた父は自慢げに、そして誇らしげに『だろ?』と満面の笑みを返した。
そんな父の笑みに少年は感極まったように震え、体中の熱が駆け巡るような興奮を覚えた。
「とうさん!ボクがこのおホシさまぜんぶにおなまえをつけてあげるのっ!それで!それでねっ!このおホシさまぜんぶにいくのっ!!」
少年の言葉に一層笑みを深めた父はふわりと優しく少年の頭に手を置いた。
「そうか。なら、お父さんも伸之に負けないように頑張らなくちゃいけないな」
「あ」
その時。
一筋の流星が夜空を駆けた。
二人は視線を合わせると揃って空を見上げた。
いく筋もの光が空を翔る。
それは次第に群れを成すように増え、軌跡を残しながら降り続けた。
二人はそれを見つめ。
心の中で三回、願いを唱えた。
そんな幼き日の思い出―――
そして、時は流れ―――
「えぇ。皆様。急なお話ではありますが私、綾瀬伸行は今月を持って退職させていただく事となりました。前々から部長や一部の方にはお伝えしていましたが、改めて皆様にご報告させていただきたくこの時間を作っていただきました。今月と言いましても残り二週間弱程度しかありませんが、皆様よろしくお願い致します」
畏まった伸之の挨拶は完全に寝耳に水の事で、フロアは時を止めた。
そんな中・・一人の女性社員が倒れた。
「未来ちゃん!?」
「里中さん!!」
「だ、誰かっ救護室に!!」
一瞬で喧騒を取り戻したフロアだが、それは全くの予想外の事態を起因としてのものだった。
故に、伸之は笑みを引きつらせ、冷や汗を嫌にはっきりと感じた。
この時送られた皆の視線と表情を伸之は忘れることはないだろう・・。
いや、忘れられないだろう・・。
二十八歳となった伸之。世間ではアラサーなどと揶揄されるような域に入ってしまった。
先日、二年連れ添った彼女へと退職する旨を伝えたと同時に別れを切り出されてしまった。
この機会にプロポーズをしようと指輪の準備もしていたが修羅場と呼べる程の最後。
恐らくは、この先のドラマティックな展開は期待薄でしかないだろう。
辞める会社は上場企業の出版社。待遇も給与も申し分ないし、出世もして将来への展望も明るい。人間関係は良好。苦労も少なくはないが、その分やりがいもあった。
そんな会社を辞めようというのだ正気を疑われても仕方ない。
だから彼女の言葉は当然だったし、むしろ非常識なのは伸之の方だった。
なので、修羅場と言っても実情は正論の雨を一方的に伸行が浴びるのみのもの。
その結果。それでも考えを変えない伸之に三行半が叩きつけられただけのことであった。
大学進学と共に上京した伸行は第一志望であった文系の大学に入学した。
司書資格取得を目的として入った学校だったが、それだけではなくその大学には文系では珍しく天文サークルがあったのも理由の一つだった。
好きなことだけに没頭出来る場所。それは楽しく充実した大学生活だった。
司書資格も取得し、目当てだった講義やサークル活動は伸之に多くの実りを与えた。
だが就職難の時代。
伸之も例に漏れずその中のひとりだった。
選考落ちばかりで何度今後の活躍を願われたかわからない。
そんな時に運良くアルバイト先の書店で繋がりができて出版社の営業に紹介してもらえたのだった。
当時はまだ小さな出版社で人手も足りなかった。
しかし直ぐに会社は大きくなっていき上場だ合併だと騒ぐようになっていった。
後から思えば人員募集も規模拡大の前準備だったのだろう。
おかげで会社の柵が出来る前に仕事を覚えることもできたし、それなりに大きな企画にも参加できた。
気づけば営業成績も何度か社長賞をもらえたし、同級生に比べれば出世も早かった。企画などのリーダー抜擢も少なくなかったし、手当やボーナスもそれなりに貰えた。当然給料も中々だ。
順風満帆。何の不安もない現状。
仕事自体も楽しめていたし、私生活にも不満はなかった。
それでも伸行は会社を去ることを決めたのだ。
営業先での偶然で運命のような出会い。それに導かれるかのように。
伸行は新たな道を行く決断をしたのだ。
困難な道。
それどころか普通ならば現実を見ろと叱咤される程に無謀な挑戦でしかなかった。
当然、伸之自身もそう思っていたし、駄目で元々程度の淡い期待しか抱いてはいなかった。
その為、恋人はおろか周りの誰一人にも伝えず。それでも僅かな希望を夢を見て一年間努めたのだった。
そして、その結果。
伸行は奇跡的にも狭きその道の先へ進むための切符を手にしたのだった。
彼女からしてみれば完全に寝耳に水な出来事。
しかもその上。長期海外滞在で基本国外。給与は今の半分近く下がり昇給の目処は立てられない。その他にも多くの制限があり、更には危険もあるという。
それだけでも彼女の怒りは大きかったのに『名誉』だの『ロマン』だの一銭にもならぬ報酬を伸行が口にしたものだから彼女の怒髪天は余りにも正当だろう。
結局、伸之の興奮じみた情熱は当然のことながら彼女にとっては到底理解できたものではなかった。
口論となり修羅場となり。遂には別れを切り出されたのも当たり前の流れ。
「先輩。この机はどうします?これも貰っていいですか?」
「ん?あぁいいぞ。家具関係は新しく買いなおすし」
「マジすか!?じゃぁもぅいくつか欲しいのもらいますね」
「あーずるい!私も欲しいです!センパイの家の家具って結構いい感じの多いんですよねー。元カノさんの趣味ですかー?」
「いやぁ。紬実の物は全部、別れたその日に速攻持っていったから全部俺の。俺こうゆうアンティークで隠れ家的な感じの好きなんだよ。ま、だから残ってるのは俺のだから遠慮しなくてもいいぞ。持ってくのもあるから要相談ではあるけど家具は大体好きにしてくれていいよ。引越し手伝いの駄賃がわりに」
「うわぁー。駄賃セコッ」
日本を離れる事になった伸行は学生の時分より暮らしたアパートを引き払う準備をしていた。
そこで伸之は手が足りず大学時代からの後輩二人に手伝いを頼んだ。
もちろん謝礼は別途それなりに渡すつもりではある。
「・・海外かー・・。遠いですねー・・」
「ま、時々は帰ってくるさ」
「そん時は声かけてくださいよ?」
雑談を交えながら手を動かす三人。上京してからずっと暮らした部屋には否応にも物が増えている。今日一日で終わるのか不安なほどだ。
そして、その原因の大半は・・。
「・・それにしてもホントにこれ全部持っていくんですか?」
溜め息混じりに呟かれたボヤキは目の前のその光景を漠然と捉えて溢れ漏れたものだった。
部屋中。それは一室に留まる事ではなく、玄関から寝室までをリビングや廊下なども網羅して壁一面にぎっしりと収められた『本』達。
浴室や脱衣所はそこから逃れてはいるが、台所にさえ侵食している。
天井にまで隙間なく本が収められ、壁を望むことはできない。更にはそれでも収まりきれずにいたるところで本のビルが乱立され、多くのビル群がその部屋での居場所を形成させている。
その量は明らかに個人の収集できる量を超越しており、更にはジャンルも多岐に渡って、年代も様々だ。
正直下手な図書館よりも所蔵数が多い。
本気で部屋の底が抜けないか心配になるほどだ。
「ん?もちろん。全部もってくよ?」
「売ったり捨てたりしないにしても実家に預けるとか・・」
「ははっ馬鹿だなぁ。こんなにいっぱい置く場所なんかある訳無いだろう」
楽しげに笑う伸之にイラッとしたのはおそらく正しい。
実際後輩二人は一瞬右手に鈍器を構えた。
しかし二人は心底面倒くさいという心情の吐露を隠さず溜息を吐いて一時の衝動を鎮めた。
・・まぁそれで収まるわけないのだが。
「・・それにしてもせっかく紬実さんと別れたのに直ぐに遠くに行っちゃうなんて。『未来ちゃん』が可哀想だなぁ」
意趣返しに呟いたその名に確かな反応があった。
背中越しにも分かるほどに。
それでも当の伸之は聞こえていない振りなのか。それとも意識しないようにしてできていないのか。
作業の手を一瞬不自然に止めたのをしっかりと確認した二人は歪に口角を釣り上げた。
「折角、大学からわざわざ追いかけて同じ会社にまで入って。知ってます?うちの会社、結構倍率高いし採用基準も高めなんですよ?そのあとも少しずつ親交を深めながら仕事も人一倍頑張ってようやく同じ部署に配属。先輩の部署って営業の要みたいな所だから一年目の新人はまず配属されないんですよ?わかってます?そんな部署に一年目で配属される程の血滲むような努力。・・なのにこれからって時に先輩には恋人ができて。もう可哀想で可哀想で。それでも一途に想い続ける未来ちゃんに涙ちょちょ切れます。ぐすっ。更には一途に想い続けていた先輩が彼女と別れたと思ったら。その原因が転職。それも海外に。・・・はぁ、内気な未来ちゃんなりに頑張っていたけど・・・些か・・多少・・ちょっぴり、ストーカー入っていたけど・・・健気な想い。・・まぁその想い人には伝わっていたのかどうなのかわからないけど・・報われなかったなぁ・・」
「しかもそれどころかその人、辞めることも海外に行くことも上司にしか言わず。その上、口止めまでしてたんだから信じられないわよねぇー。当然、言わずもがな未来ちゃんは何も知らず今日を過ごしている・・・報われないわねー。・・可哀想」
「・・・寧ろ俺はそんな中お前らがどこから情報を得て、何故知っていたのかが疑問だよ・・」
本来ここにはいなかった筈の二人の後輩へと呟くその愚痴は届かない。
「あんなに可愛い子なのに、可哀想。社内でも意外と人気ある子なのになぁ。女性社員みんなから全力で男どもの毒牙から守られる程に可愛い子なのになぁ」
「大学時代も一部から結構な人気だったよねー」
「意外とか一部とかって・・失礼じゃないのか?」
「そんな子の十年の一途な想いを無碍にするとかマジ最低!ありえない!考えらんない!人間のクズ!!」
「「ねっ先輩!!」」
「・・・」
どうやら二人の罵声に伸之の意見は求められていないようで、間接的に見せかける気もない関節表現に若干涙目だ。
精々「クズって・・」と悲しげに呟き、そんなひどい言い方しなくても・・と肩を落とし落ち込んでみせるのが関の山だった。
伸行は精一杯開き直って憎たらしい後輩二人に恨めしげな視線を送った。
「っ!う、うるさいやい!とっとと手を動かせ!終わるまで帰さねーからな!飯も抜きだかんなっ!!」
「「ほーい」」
怒る先輩。なのにそれを見た二人はニヨニヨとしてまるで悪びれた様子のない返答を返すだけ。そんな軽くいなすかのような二人に苦虫を咬み殺すしかない伸之はフンと不機嫌に見せることでしか報復できない。
当然、背に届くのはクスクスとした嘲笑だった。
だが直ぐに後輩ふたりの瞳には状況とは異なった熱が込み上げてきた。
それは慣れた掛け合いがあまりにいつもと同じだった故のものだった。
学生時代から変わらず、未だに毎日のように交わされてきた掛け合い。
「・・・先輩がいたから、未来ちゃんだけじゃなく俺らも今の会社に入れたんですよね。あの大学じゃ、まず望み薄の就職先で。先輩が頑張ってくれたおかげで後輩の俺らにも間口が広げられて・・。最初の頃は悩みましたよ。学生の頃からそうでしたけど、先輩はいつも先頭に立って行く人で、問答無用で周りを巻き込んでは『この人に誰か自重という言葉の意味を教えてやってくれ』なんて思うようなことばかり。それなのに先輩の周りは憔悴しながら、苦言を呈しながら、それでも先輩の背を信じる人たちばかりで。・・そんな人を基準とされても無理ですもん。」
「・・・」
「そうだったわね・・。センパイのコネみたいなものだからある程度は仕方ないし、綾瀬伸之の後輩なら皆通る壁だと分かっていても悩んだわね。・・でも皆言うのよね。『君は自重してくれるんだね』って。あれは笑っちゃったわよ。あーセンパイはないなーって。そうしたら一気に楽になって・・。そりゃそうですよねー。こんなダメダメな脳内幼児センパイの二番煎じなんて迷惑なんですから。」
「確かに。後から『綾瀬二号か!?』って、周りが戦々恐々としてたって知った時にはもう息が出来ない程にツボにはまったからなぁ」
「お前らな・・」
「だからまたいっぱい振り回して来てくださいよ」
「そうね。そしてたまに帰ってきたら私たちの説教を聞いてください」
伸之は言葉に詰まった。しかしそれは言葉に困窮したわけではない。
気丈な声色で紡がれていた筈の会話。なのに振り返って目に入ったのは、歪んだ表情と滴るほどに溢れた涙。
「頑張ってきてください。それで絶対帰って来てください」
「見せ付けてきてください。そしてまた私たちに自慢させてください。『これが私たちの自慢のセンパイだ』って」
ありがとう・・。
そう呟くのがやっとで俯いてしまった伸之は溢れる涙を堪えるのに必死だった。だから自然と微笑んだ口元は繕う事もなく二人の瞳に映った。
電車のつり革に揺れる伸之は早朝の冴えない思考で今後の予定を確認していた。
今日は午前だけの引き継ぎ業務からの直帰。仮眠を終えたら深夜バスで実家へ向かう。明日以降は・・。と大まかな予定を確認して。次いで細々としたスケジュール。
そんなふうにスマホを見つめながら僅かな電車の揺れに身を任せていた。
ふと昼飯は何にしようかとか、土産買ってないなとか。取り留めのない事を思い出したりもした。後輩の未来を思い出した時などは一瞬背筋が伸びた。
昨日皆に残り一週間で辞めることを伝えた時の事を。
上司や引継ぎに必要な人間、もちろん担当の取引先など最低限の人間には伝えてはいたが他には全く伝えていなかった。
なのにあのふたりの後輩は何故・・とは思ったが今では感謝しかない。
そしてそのふたりが示唆した予言は現実となった。
伸行が朝礼にて退職を伝えた際、皆驚いてはいた。
しかし、それ以上に鮮烈な印象を残したのはその未来だった。
一瞬で青ざめた彼女は、そのまま意識を失い倒れた。
どよめきが起き、更には拍車をかけその場が騒然となった。
その上その時に伸之に送られた視線や表情は虫やゴミを見るようなもので、到底人間に向けるそれではなかった。
その日すれ違う社員、ひいては特に女性陣からの冷たい視線を浴びる事となった。
後輩二人に至っては会うたびに説教という名の暴言をありがたく頂くことになってしまった。
おかげで調教されたかのようにあの時の未来を思い出しては背筋が伸びる。
そんなことがあったりもしたが、今朝はいつもと何一つ変わらない朝。
内容はともかく、思考に沈むのは朝の電車内でのいつものルーティンだ。
流れる車窓からの景色も代わり映えしない。
精々は冬が近づいた朝日が低くオレンジ架かるようになっていることぐらいだろう。
宵闇は流石にもうないが薄紫の空はまだ少し残っている。
もう少しでこの景色や毎日ともお別れか・・。
などと多少の感傷すら沸く。
そこで伸之は小さな気づきにささやかな感動を抱いた。
まだグラデーションの残る空に一点の明星。
そんな小さな発見が何気ない日常の些細な幸福。
自然と表情が柔らいだ。
そして、伸之はそのまま視界を白く染め。
静かに意識を手放した。
穏やかに。
満ち足りたように。
その日。
綾瀬伸行は二十八歳の若さでこの世を去ったのだった。