⒈呪われ聖女の旅立ち Ⅰ
黒光りする巨大な鉄の塊を前に、大きな革のトランクケースを両手にぶら下げたアメリアは、ぽかんと口を開けてそれを見上げていた。
「初めて見たか? 蒸気機関車。地上を移動するのに一番速い乗り物だ」
普段は表情の動きの少ないアメリアが分かり易く感情を見せたことに気を良くしたのか、並び立ったセファードはどこか自慢げに言った。
同じように機関車を見上げる彼の、淡くブルーに輝くような美しい銀髪が機嫌良く揺れ、ターコイズの瞳が愉快そうに細められる。
アメリアが“コレクション”されていた港街シズルから街道で繋がれ、馬車で二十分程の距離にある内陸の街、モントレード。
都会に較べれば田舎ではあるものの、汽車の終点駅とシズルからの物流とで、付近では一番賑わう街だ。シズルは中継港と住居に多くを割く長閑な街で、店舗と交易を主に担うのはモントレードである。
街路を石畳に舗装された街は駅と駅前円形広場を中心に三つの大通りが伸び、そのどれもに商店や露店が並び、市場として人通りが絶えない。特に舶来品の数々は観光資源としても扱われていて、わざわざ市場に足を運ぶ為に遠くから街を訪れる人もいるという。
これからこの国の王都に向かうというセファードとユキト、そしてミラリュキア教団の十数名で構成された使節団とともに、アメリアは初めてこの街に訪れていた。
街の賑わいにも驚いたが、何せ驚いたのは目の前に鎮座する黒鉄の塊だ。この大きな物が乗り物で、沢山の人を載せて動くということがアメリアには信じられなかった。その上馬よりも速く動くとは何事なのか。
驚愕は、先日語られた《原初の神》等の世界の成り立ちとやらもそうだが、実感の湧かないそれらの真実よりも目の前にした蒸気機関車の方が余程優っていた。
「すごい……」
「乗るんだぞ、今から」
呆気にとられた声を零したアメリアに、セファードは片頬を上げながら笑った。
「でも…本当に良かったんでしょうか」
言うアメリアの視線は、先頭から少し離れた客車の横で他の信徒と話しているユキトを探るように注がれる。
柔らかなプラチナブランドの髪の毛のかかる穏やかそうな横顔も、ペリドット色の瞳も、今は決して厳しい色は見せていないが、しかし彼はアメリアが教団の旅路に同行することを快く思っていないのだ。
セファードは腰に手を当て、溜息を吐く。
「ユキトが連れて行くって決めたんだ、気にするな。大体、お前を一人で置いてって、また『死にます』とか言い出したら堪らんだろうが。死にます宣言どころか、俺たちが居ない間に死んでる可能性があるだろうが」
「………」
全く信用がない。けれどアメリアも、その可能性がないと断言できないくらいには、自分の生に未だ希望が持てていないことは確かだ。
「口先だけでもいいから否定しろよ」
額に青筋を浮かべながら静かに怒るセファードはアメリアの両頬を、むにっ、と痛みのない程度で左右に抓った。
「ごめんなひゃい…」
「全く、お前はマイナス思考を改めるところからだな…」
素直に謝ると解放された。
アメリアとしてはマイナス思考をしているつもりはないのだが、セファードにとっては違うらしく、「情操教育ねぇ…」と呟き腕組みし、気難しげな顔で眉を寄せている。
「とにかく、子どもは大人の事情なんか気にするな。汽車に心でも奪われてりゃいい」
「…はい」
頷くと、セファードも眉尻を下げて困ったような笑顔ながら、満足そうに頷いた。
額面通りに受け取ってはいけないとは思うけれど、彼の厚意を踏みにじるのは嫌で、アメリアは“ただの子ども”として扱われることを受容した。
昨日のことだ。
アメリアの処遇は、それはそれは揉めた。
セファードと連れ立ってユキトが休んでいるという宿に招かれ、最後に見た今にも死にそうな顔ではなく生気の宿るユキトの微笑に、アメリアが大きな瞳に涙を溜めて部屋にも入れず打ち震えていると、歩み寄りその胸に強く抱擁し安心させるように背を撫でてくれた彼であったが、アメリアの同行については難色を示した。
「彼女を王都へは連れていけませんよ」
「お前がアメリアを聖女にさせたくないって気持ちはわかるが、今さら放り出していけっていうのか」
「勘違いしないでくださいね。教団に入ることや、聖女になるのを否定しているのではないんです」
非難するセファードにではなく、ユキトは斜向かいの椅子に腰掛けるアメリアへと弁解する。次いでテーブルを挟んで立つセファードに向き直った。
「私たちは何のためにこの国に訪れたか、分かっていますね?」
「宣教だろう」
「分からない振りが上手ですね。優しい貴方、私への気遣いなら不要です。私たちは、国王より宣教のお許しを戴く為に訪れた『教皇名代』の、“露払い”としてここに遣わされています。名代、聖人ジュリアンの為の剣であり盾であり、最前線で命を賭すことを求められている」
驚くアメリアに対しセファードは苦々しげに眉を寄せた。理解している、とでも言うように。
セファードは歪んだ表情のままアメリアを振り返り、険しく言を放つ。
「アメリア、外に出ていろ。お前が聞くような話じゃない」
しかしアメリアはかぶりを振った。
自分の所為で彼らが言い争いをするのは嫌だったし、もし止めてくれないとしても彼らの真実を知った上で己の今後を選ぶ必要があると判断したからだ。
「アメリア」
「っ」
叱るように言われるが、もう一度首を振る。
「いいですか、セフ」
どちらも譲らない様子を見て、ユキトは話を再開することにしたようだ。先程も使命について、分かっている風だったセファードにわざわざ丁寧に言葉にして説明したのは、何故同行を拒否しているのか、アメリアにこそ理解させる為なのだろう。
「この国では何があるかわかりません。どれ程の《魔》が聖者を狙うのかすら。更にこの娘を連れて行けば余計に《魔》を呼び寄せ、聖者を危険に晒すことも考えられます。浄化の力を持つのは貴方とジュリアンとグレースの三人だけ。侍祭も神還祭も物資が尽きてしまえば浄化は叶わなくなります。そんな中、万が一にも先日のような状況になった場合貴方には、ジュリアン以外を見捨てる選択肢を選べない。それでは駄目なのです」
「冗談も程々にしろ。俺の最優先はお前だ。どんな状況に陥ろうと、元よりお前以外を選ぶつもりはない」
「ならば尚更危険を増やすわけにはいかない、そうでしょう?」
「アメリアを傍に置けば、聖人の安全は確保できるだろう。この間のは力を放出してしまったからあんな惨状になっただけだ」
「当然、その万が一も考慮すべきです。それに“移り香”がどの程度の範囲、どの程度の時間で他人に残ってしまうか検証されていない以上、無闇に移動させて見も知らぬ他人を害されれば、傷付くことになるのはアメリア本人ですよ。その点、この街一帯は彼女が浄化しきっている分、彼女も周囲の人もしばらくの間は安全でしょう。彼女の為にも私たちの使命が終わるまで待っていてもらった方がいい」
「どちらにしろ“もしも”がある。なら俺たちが傍で周囲まで目を配ってやるべきだ」
「私たちが目を配るべきはジュリアンです。今だけに限っては」
「話にならん! お前は、こんなちっぽけで非力な小娘を放っておける人間じゃないだろ! それを何だ、ジュリアン、ジュリアンと! お前を蔑むあんな餓鬼にまで博愛などくれてやるな!」
「それでも、セファード。彼はこの国において誰よりも脅威に晒されているんですよ。――――彼女よりも」
バンッ!!!!
と、我慢の限界とばかりに、セファードがけたたましい音を立ててテーブルの天板を両拳で殴りつけた。
横にいたアメリアは思わず、びくっと肩を揺らすが、ユキトは静かな瞳で強かにセファードを見詰め返すだけだった。
睨み合い。アメリアはユキトの言葉に従うべきだと思ったが口を出していいのか分からず、内心はらはらと彼らを見ていると、突拍子もなくセファードがその左耳に付けた、彼の目と同じターコイズ色のピアスを引き千切るように外した。
「……!」
ぶわりと風が吹いて、メキメキ、と骨が軋む生々しい音がする。
みるみる内に少年から立派な成人男性のそれに変化する、身体。
大きめに着ていた服はサイズ感がタイトになり、元より上下に割れる仕組みになっていたらしいシャツの背中から、めり、と皮膚を突き破り、二対の純白の翼が姿を現す。
少年から、神々しい天使へ。
その変化を初めて目の当たりにしたアメリアは、大きな宵闇色の目を零れそうな程まん丸に見開いて、真横で起きた異常な現象を見上げた。
世界の成り立ちや、この後目にすることになる蒸気機関車と同じく、このこともアメリアにとって驚愕であったのは言うまでもない。
「……えっ…?」
一般的な男性よりも体格の良くなった長身のセファードは、事もなげにアメリアを片腕に座らせるように抱きかかえると、状況についていけず目を白黒させるアメリアには構わず、部屋の窓を勢いよく開いた。
そしてユキトを振り返る。
「俺たちには――――俺には、こいつを助けた責任ってものがあるだろう!」
少年の中性的な声とは打って変わり、低く耳を揺さぶる声を荒らげる。
そうして捨て台詞かのように言い放ち、彼はアメリアを抱えたまま、まるで人攫いの如く、だがただの人攫いでは取れない方法で。
宿三階の窓から直上の空へと飛び上がったのだった。