0-5.そして少女は明日へ踏み出す
ここは、どこだろう。
目を開けて、アメリアは自分がどうして寝ているのか、すぐには思い出せなかった。
「…………」
「…だから、目が覚めたなら声くらい出したらどうなんだ」
陽の差し込む窓を背に、少年が呆れた顔を隠そうともせずに、こちらを覗き込んできた。
そうだ、ここは病院だ。夜、自分が飛び出した病院。それから、襲われて――――
「……し、神父様……っ」
はっと思い出し、一も二もなく飛び起きた。途端、ぐらりと頭が揺れて、吐き気がし、ベッドの上で蹲る。
「うう…」
「そんないきなり起き上がるからだ。安心しろ、無事だよ。お前が寝こけてるこの二日で、もうだいぶ回復した」
よかった、無事なんだ、生きてるんだ。アメリアは、ほっと安堵の息を漏らした。
「お前がユキトの命を助けたんだ」
穏やかに言われて、しかしあまりに烏滸がましい言われように、情けない気持ちになる。
「……元はと言えば私の所為なのに、助けたも何もない…」
「そういう元も子もないことを言うんじゃない! 『わぁい、よかったですー』とか言って莫迦みたいに笑ってろ、莫迦が! ったく、何が“うじうじするのは嫌い”だ。お前はうじうじの虫だ、虫。芋虫」
何て酷い言い草だろう。今まで虫と言われたこともあったけれど、ここまではっきり明瞭に、しかも厭悪もなく罵倒されたのは初めてだ。
「………」
「少しは言い返せ!」
理不尽極まりない。
大層ご立腹な様子で腕を組んでいる少年を見る。彼も無事だ。あんな、助かるとは思えないような音を立てて海に投げ出されたというのに。傷だらけになってアメリアを護ってくれた。無事を喜んでくれた。
ああ、とても胸が痛い。
じわり、と瞳を涙の膜が覆ったアメリアに気がつくと、少年はギクリと肩を揺らして目を見開いた。
「い、言い過ぎた。虫は言い過ぎだった。俺が悪かったから、泣くな」
「いいんです、虫でも」
「いやよくないだろ…少しは堪えてくれなけりゃ、こっちとしても言った甲斐がない…」
少年は渋面を作りながら「聖者ってのは何で変なところのメンタルが強いのか…」と、ぶつくさ垂れている。
アメリアは滲んだ涙を手で拭った。最後くらい、ちゃんと思ったことを伝えようと。
「違います。天使様も無事でよかったと、思ったんです」
しかしその言葉に、少年は不服そうに頬を膨らませた。
「天使様じゃない、セファードだ。俺は神の御使いでも何でもない。起源を考えりゃ皮肉なことだがな。むしろ笑える。神の所為で背中に鳥の羽根がくっ付いただけの、何のありがたみも無い存在だ」
感慨もないそのつっけんどんな言い草を聞くと、あの神々しい見目が本当にありがたみを感じなくなる気がする。誰がどう見ても天使様だが、人に翼がくっ付いているだけ、と端的に見れば単純すぎる事実は確かだ。それこそが神秘的に見える所以なのだが、本人にとってはそうではないらしい。
思えば、人間であった彼にとって一番呼ばれたくない呼称だったかもしれない。
「ごめんなさい、セファード様…」
「やめろ、居心地が悪くなるから様をつけるな! 呼び捨てでいい!」
「……せふぁあど………」
「何で様取ったくらいでそんな呼び辛そうなんだ…」
何でと訊かれても、こんな風に人の名前を呼んだのは、とても久々なのだ。長年アメリアの居場所を与えてくれた人はご主人様か旦那様か奥様で、他の誰かの名前を呼ぶ機会もなかった。稀に呼ぶことがあったとしても、全て様付け。こんな親しげに呼ぶような相手は、遠い過去にしかいなかった。
セファードはふと気付く。
「ああ、そういえばずっと訊きそびれていた。お前、名は?」
「……アメリア…」
ぽそりと答えたアメリアに、彼はひとつ頷く。
「そうか、アメリア。悪かったな、訊くのが遅れて」
「――――――――――――」
こんなに。こんなにも自分の名を呼ばれることは、胸の裡が揺さぶられることだっただろうか。
何の衒いもなく、感情もなく、愛情も親愛も執着もなく、ただ何気なく呼ばれただけ。たったそれだけのことが、“普通”のことが、こんなにも痛い。
「まあ訊いたところで、お前の方も教えてくれそうな雰囲気ではなかったけどな。…………? どうした、アメリア?」
呼吸も止まっているような様子で固まるアメリアを不審に思ったセファードが首を傾げたので、咄嗟に首を横に振る。喉が張り付いて声は出なかった。
「なあ、この先のことは決めたのか?」
「……え…?」
「教団に来るかどうかってことをだ」
アメリアは再び首を振った。決めるも何も、気持ちはひとつも変わっていない。
「お前、この期に及んで…」
「だって、またあんなことになったら、嫌です。私の知らないところで、誰かがあんなことになるのも嫌です。もう二度と、駄目です」
目の前で起こった惨劇は、余計にアメリアの決意を固めたと言ってもいい。今回最悪の事態は免れたものの、次はどうかわからないのだから。薙ぎ飛ばされたセファードも血塗れの神父も、自分が生きることで再び引き起こしてしまうかもしれない恐怖は、選んだ結末を変えさせるはずもなかった。
たった一度だけれど、二人を助けられたというなら、それだけで充分だ。アメリアは充分に救われた。
セファードは再び腕組みして盛大な溜息を漏らした。
「あのな、あんなことは滅多に起こらない。そもそもこの国は《魔》が多すぎるんだよ、普通はあんな莫迦みたいな数発生しない。信仰の少ないこの国に生まれてしまったことも、お前には不幸に働いただけだ。この国の現状はこれから変えていくとして、お前は教団本国に来ればそうそう周りを危険に巻き込むこともない。気休めじゃないからな、信じろ。………ただな、言ったとは思うが、教団に来てもお前は辛い目に遭うかもしれない。それこそユキトは、お前にとって救いはそれしかないとわかっていても、教団を勧めようとはしないだろう。アイツは難しい立場だから余計、強い力を持ったお前の境遇に愁いを感じてる。…まあ具体的に言うとな、その力を知られれば教団の政治に利用されるだろうし、……加護の力の研究にも使われるだろう。お綺麗な外面の内側は、救いの教団が聞いて呆れるようなところだよ。そりゃ、一信徒になるだけなら別の話だがな」
感情の窺えない瞳で静かに話を聞くアメリアは何も応えない。沈黙に焦れた様子の彼は、一息ついてから続ける。
「信徒になるだけでもお前は生きやすくなると思う。けどな、お前の望む幸せを手に入れる為にはその力を制御する術を手に入れるべきだ。たった一度きりで満足するなよ」
「………でも……」
そんなことが赦されるのか? これまでたくさんの人を死に追いやってきた自分がこれ以上生きることを赦されると?
答えは否だ。誰が赦しても、自分が赦せないのだ。自分の幸せのために生き延びるなんて。
「まあ…これ以上、無理強いはしない。どんな未来が待っているか、俺は保証してやれないしな。だがな、お前の救いの力を必要としている人間がいることは忘れるな」
セファードは立ち上がり、アメリアの手に小さな紙を握らせる。
「俺たちはこの宿に居る。明日の朝にはこの街を発つ予定だ。あとはお前の好きにしたらいい」
紙に落としていた視線を上げると、少しだけ寂しそうに目を細めたセファードの瞳があった。困ったように笑った彼は、アメリアの頭をくしゃくしゃと撫でた。アメリアと変わらないくらいの細い手なのに、とても大きく思える手。
「選ぶのはお前だ、アメリア」
じゃあな、と言って、セファードは病室を出て行った。
見えなくなったその背から視線を離すことができず、アメリアは閉じたドアを見つめ続けていた。ぽつり、と自然に、口から声が漏れる。
「選ぶ…? 私が………?」
それはこの人生で、一度もしてこなかったこと。ずっとずっと流されてきた。死を選んだことすら、正しくは選択ではなかった。アメリアに与えられた選択肢は決して多くなかったけれど、ひとつもなかったわけじゃない。それでも流され続けたのは、自分で選ぶ未来を恐れたからだ。
私の選ぶ道の先は本当に合っているの? その所為でまた不幸になる人が出たらどうするの?
自分から踏み出すのが、死ぬことより、怖い。選んだ未来に付随する責任が怖くて、逃げ続けた。
そんな自分が選ぶなんて。勇気を持たない自分が、何より権利を持たない自分が。
ベッドの上で立てた膝に額をつけ、セファードの言葉を反芻する。この国を出て人を脅かすことが無くなるのなら、きっとまた流されるようについて行けたかもしれない。けれど、彼も『誰もいなくなる』とは断言しておらず、保証できないと言っていた。
だったら死んだ方がいい――――――――そう、思うのに。
どうしてか、選ばなければいけない未来にも踏み出せなくなってしまった。
本当に、本当に、自分が苦しむ誰かの力になれるのだろうか。二目と見られない姿の《魔》、彼らを浄化することは本当に彼らの救いになるのだろうか。それは果たして、《呪われた子》の生きていい免罪符になるのだろうか。
今までのことを思えばとんだ甘えた話だ。どんな免罪符を持ち出したところでアメリアが重ねてきた数多の不幸には値しない。誰を救ったところで、奪ってしまった人への、アメリアによって奪われてしまった人への贖罪にはならない。それでは意味がないのだ。
選べる未来は二つ。
死んで、まだ見ぬアメリアの所為で命を落とす誰かの可能性を消し去るか。
生きて、《魔》を浄化し、彼らによって命を奪われてしまうかもしれない誰かをこの手で護るか。
「…………」
どうしたらいいのか分からない。
ひとつ確かなのは、死ぬことはアメリアが楽になるということ。これ以上痛くならないでいい、誰かを不幸にすることに怯えなくていい、そういう幸せなのだ。
ああ、うじうじと。こんなのは嫌なのに。猶予はアメリアを後ろ向きにさせる。
身体に力が籠ると、手に持っていたメモがくしゃりと音を立てた。小さなその音と共に、耳に声が降る。
――――どうか、自分を諦めないで
神父の声。自分を救うことを赦してくれた人の声。胸がきりりと痛む。
――――なら生きろ。その手伝いならしてやる
セファードの声。傷ついたのに護ってくれた人の声。アメリアの生を赦してくれる声。絞り上げられるように胸の奥が痛み、息も苦しくなる。
何故こんなに胸が痛くなるのだろう。身体を痛めつけられているわけでもないのに、不幸に直面しているわけでもないのに、何が痛くさせるのだろう。
気付けばアメリアは、ベッドの脇に立ち上がっていた。一昨日の晩――――アメリアにとっては昨晩のことだが――――酷く傷つけた足の裏が、包帯で保護されているにも関わらず、ずきりと痛む。けれどアメリアは構わなかった。
何も考えてはいなかった。頭の中は空っぽで、どうしたいだとかどうしなければいけないだとか、先のことを想像することすらせず、それは紛れもない衝動で。
胸を一杯に埋め尽くす、希ってしまった“もしも”。赦されない“もしも”。けれどもう目を逸らすことができなくなってしまった、“願い”。
一歩。刺すような痛みが足を襲う。
炎症と包帯で膨らんだ足では、ドレスに合わせてアメリアの為に仕立てられた高価なオックスフォードシューズは履きようもないが、そのことに問題はなかった。
要らない。ベッドの脇に置かれた椅子の上に畳まれたドレスも目に入らず、寝巻きのまま、包帯だけに覆われた足のまま、駆け出す。
胸に抱く小さなメモ用紙に書かれた宿の名前など見ても分かりはしないけれど、掻き抱くようにしながら走る。
心臓がはち切れてしまうんじゃないかというくらい跳ね、足を踏み出す度、心臓がどくりと脈打つ度足の裏がズキズキと痛むけれど、人々が何事かと言う目でアメリアの姿を追う街の中を彼の背を探して走り回る。
息が切れて苦しい。跳ねる心臓が痛い。だけれど足は勝手に進む。
そして辿り着いた、海を望む高台の、欄干が半分壊れてしまった石造りの橋の上。小さな少年の背中が目に飛び込む。
「ま……って、待って、ください、セファード……!」
太陽にきらきらと煌く銀髪が弾かれるように振り向いた。その目は驚いたように見開かれていて。
その瞳に一瞬怯んで、ゼィゼィと胸を上下させて足は止まってしまったけれど。
踏み出す。
今度は海にじゃない。彼に、一歩。
それはたった一歩だけれど、アメリアにとって今までの何よりも重い。
初めての、希望の一歩。
✳︎
そうして彼の背に追いついたアメリアに、セファードはにやっと口の端を上げて、人の悪い顔で笑った。
覚悟しろよ、と。
「何が、“幸せだった”だ。なぁにが、“好きになってほしいなんて贅沢は言わない”、だ! お前が宣う幸せを俺は幸せとは認めない。お前の莫迦みたいに低い価値基準と鈍感さと考え方を、ぜんっっっっっっっっっぶ、改めさせてやる。頭の中お花畑にするくらい、その性根、根こそぎ叩き直してやるからな」
正直何を言われているのかは全く分からなかったけれど、腹を立てて叱る様子の言葉ばかりに反して機嫌が良さそうに前を歩く彼に自然と繋がれた手が温かくて、アメリアはほんのささやかに顔を綻ばせた。
自分でも気付かないほどの、他人から見れば笑顔でも何でもないものだったそれは、しかしアメリアが長い年月の果てに見せた、心からの笑顔だった。