0-3.神の齎す悲劇
橋の欄干を背に膝を抱えて座り込んで身動きも取れず、アメリアはただぼうっと惚けていた。もう何をする力も残っていない。
疲弊はある程度心の落ち着きを取り戻させたが、落ち着いたところで絶望は変わらないどころか、余計に冷静に真実を認識させる。贖罪になりはしないが、これ以上の罪を重ねないには死ぬしかないのだと。自身にとってもそれが一番いいのだと、惚けた思考が冷静に囁く。
隣に腰掛け、黙って寄り添っていた少年は、アメリアが幾分落ち着いたのを察して語りかけてきた。
「お前は神を信じるか?」
莫迦げた質問を――――少なくともアメリアを莫迦にする質問を――――、緩慢に首を振って否定する。本当ならもっともっと力一杯否定してやりたい。
この国にも神はいるというが、アメリアの所為で不幸になった人を救ってくれることはなかった。神がどんな存在なのか知りもしないけれど、不条理に咽ぶ弱き者に光を齎してくれないものを、その存在そのものを、アメリアが信じる理由など一つもなかった。
「まあ、そうだろうな」
少年は苦く笑って肩を竦めた。そして、アメリアの胸を指差した。
「けどな、神はいる。お前の中、俺の中、世界中の人間の心の奥の奥の奥、ずっと先の、全ての人間と繋がる水底に、神は住んでいる。いや、正しく言うなら、其処そのものが神なんだ。人は誰もが等しく同じ神を飼っていると思うとわかりやすい。これを、《原初の神》と言う。この《原初の神》こそが、世界に与えられた理不尽だ」
「…………?」
何を言われているのかさっぱりわからなすぎて、アメリアは力なく彼の瞳を見つめていた。
そういえば彼は何とかという教団の遣いなのだから、彼らの考える神とはそういうものなのかもしれない。アメリアには教団というものも宗教というものも、何かは全くわからないけれど。
「ああ、いや、違うぞ。俺たちの教団の神はまた別物の話で、今は世界の成り立ちの話をしている」
「…なりたち…?」
少年は背を預けていた欄干から、隣のアメリアへと向き直った。
「そうだ。《原初の神》は別に俺達を見守っちゃいない。守ろうだとか、罰を与えるだとか、願いを聞いてくれるものでもない。其処に居るだけ。意思も、意志もなく、ただ存在しているだけのもの。人間が生み出されるにあたって核となったものだ。人間の祖と呼んでもいい。人は《原初の神》から幾億と枝分かれして存在していて、俺とお前も心の水底の神を通じて繋がっている」
わからない。この胸の中に神がいると言われても、この胸の中ですべての人が繋がっていると言われても、実感が湧かない。
理解が及んでいない様子のアメリアに少年は「集合的無意識を説明した方がわかりやすいんだろうが……いや、まあいい…」などとブツブツ言っている。
「とにかくだな、神はいるんだよ、人の深層、奥深くに。だがな、何もしない神でも、人の祖になる強大な力を持っている。その上、世界に存在する全ての生命の情報を有した『生命の母』、莫大な情報生命体だという。つまり人の中にありながら、人の身には余るものだ。だからな、人は深層から漏れてくるその力を受け止め切ることができない。そうして神の力に中てられた人間が、『魔』に成り代わる」
「え――――――――――――」
目を見開く、アメリア。
だってそれはつまり、
「人が……みんなを殺したと、いうこと………?」
「ある意味ではそうだが、『魔』――――俺たちは《悲劇的な結末》と呼称しているが、そうなってはもう人間じゃない。人としての意識も姿も失っていて、化け物と呼んで差し支えがないほどに酷いものだ。彼らは性質上、人を喰らう。…それ以上に《聖者》を喰らいたがる。
聖者は、正直なところ発生がわかっていない。《原初の神》の力の一部を取り込んで発生したのか、他の起源があるのか。わかっているのは神の侵蝕に対抗できる、相殺できる力を持っているということ。侵蝕から守られているという意味で“加護の力”と呼んでいる。《魔》はな、自身を侵蝕した神の力に対抗するための力を求めて、元に戻ろうとする本能で、聖者を喰らおうとするらしい」
少年は俯いて、ふう、と重い溜息を零した。一拍置いて、再び視線をアメリアに向ける。
「……随分長々と話したがな、つまり、お前の今までの境遇は、この世界の仕組みの所為なんだよ。お前の周囲の人々を奪ったのは神の力の所為で、お前が強大な加護の力を持ったのも勝手に与えられたものだ。全て世界の理不尽の所為だ。――――だから、お前が責められる謂れはない」
アメリアは瞠目する。
彼は、アメリアを慰めるひと言の為に、アメリアが否定しないように一つ一つ丁寧に理解させようとしていたらしい。
半分は理解しただろうか、それすらアメリアには分からないが、彼が自分を慮ったことだけは理解できた。訳の分からない説明で頭はこんがらがって、死に臨むことだけに支配されていた思考が解き放たれてしまったくらいだけれど、優しさならば非難はできない。
――――ああ、けれど、優しいひと。その話の結末は、同じものでしかないのです。
「……でも、だからこそ、私さえいなければ、誰も死ぬことはなかったんです」
例え世界の所為だとして、アメリアの存在が死を齎したのは変わりがなく、失ってきたものを想えば、何の慰めにもなりはしないのだ。そしてこの先選ぶべき結末も。
アメリアは抱えた膝の上に顔を埋めた。そうして縮こまるアメリアを横目に、少年は眉根を寄せる。
「誰も選ばれたくて選ばれたんじゃない。それがどうして苦しい決断をしなければならない。お前みたいな年端もいかない小娘が、そんな悟った眼をして、何で。…それに俺は納得がいかない。お前はお前の世界を害した《魔》を目にもしていないくせに、知りもしない宗教を広めにきた訳のわからん俺の話を疑いもせず信じる。お前にとって辛い真実だっただろ、どうして証明されてもいない莫迦げた話を鵜呑みにするんだ」
何を憤慨しているのだろう。信じさせるように真摯に語ったのは少年の方だ。
それにアメリア如きを騙してどうなるというのか。小娘一人を死に追いやっても逆に救っても、彼らには何の得にもならない。
ともかく彼が言いたいのは、アメリアには何の咎もないということで。それを受け入れられないアメリアには話の真偽などどうだっていいことなのだ。
「矛盾してます…」
「そんなのは分かってるんだよ。俺はただ、その諦観が許せないんだ」
ふんっ、と少年は鼻を鳴らす。
話す言葉は老爺のような視座を感じるのに、今は年相応の拗ねた少年のよう。
「いいか、お前はこの先《魔》に堕ちてしまった人間を浄化し救う術を手に入れられるかもしれないんだ。それは未来《魔》に襲われる人間を救うことにも繋がる。…教団に来ればの話で、…………正直に言えばそこでもお前は辛い目に遭うかもしれないが……死ぬよりは希望があるだろ」
「…でも《魔》は私に近付けない。私の知らないところで、私の力の気配を移された人が、また命を奪われることになるかもしれないです」
「――――あああ、もう! そういう妙に頭が回るところも腹が立つな!」
少年はやけくそに自身の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回して声を荒らげた。
叱るような調子でアメリアの命を繋ごうとしてくれる少年には悪いが、彼も理解している通りアメリアは災害なのだ。観測できない災害。それでも生きる選択をできるほどアメリアは図太くない。図太く生きてきたが、最早その形を失ってしまった。
しばらくの沈黙。少年は気に食わないように言う。
「……お前が死にたいことは分かった。なら逆に問うが、生きていたくはないのか」
「……!」
ぴくりとアメリアの肩が跳ねた。ただでさえ小さく縮こまっていた身体を、更にぎゅっと固める。
既に一度死を選んだ人間にそれを問うのか。
「…………私、うじうじするの、嫌いなんです」
アメリアが自分の膝の中にボソリと言葉を吐けば、少年はぽかんと口を開けた。当然の反応だ。彼から見ればアメリアは、今まさにうじうじと自身の不幸を嘆いているだけの小娘にしか見えないはずだ。
けれど本当なのだ。だからこそ、アメリアはどんな環境でも生きてこれた。
「うじうじしていても始まらないわよね!」、などと宣って明るく前向きに生きることは流石にできなかったが、無感動と無感情の中にうじうじ後ろ向きになる気持ちはなかった。いや、これは強がりかもしれない。都度都度生きるのに精一杯で、うじうじしている余裕がなかったというのが正解だろうか。
本当に、生きる居場所を他人に与えてもらえるだけで、アメリアにとっては充分だった。
この街に来てからはまるで宝物のように丁寧に扱われたから、生きる余裕が多すぎて、少し、後ろを顧みることが増えてしまっただけ。少し、後ろを向いて胸を締め付けられてしまっただけ。
少年は難しげに顔を歪めて首を傾げた。
「――――いや、いや? うん、お前のその思い切りの良さはうじうじとは無縁か……? いやお前のは自棄だろう、自棄」
「どんな人が、私と同じ境遇で生きていこうって思えるんです。そんなのは厄災です。そんなの消えてしまった方がいい。だから私は死ぬんです」
「お前滔々とそういうこと言うなよ…」
「いいんです。私は幸せでした。だから、もういいんです。まだ見ぬ誰かを死なせたくない。未来に怯えて、過去を嘆いて、うじうじするのは嫌です…」
誰もアメリアの生を赦さない、望まない。過去に出逢った人々も、未来に出逢う人々も、アメリア自身も、誰一人。
「………未練は、何もないと? お前はお前が満足するだけの幸せを、手に入れられたと?」
静かな少年の声に、アメリアの喉がグッと締まる。耳から胸に差し入れられた手に、心臓をこれでもかというほど鷲掴みにされる。
痛い。もう空っぽの筈なのに、吐きそうに、いたい。
どうしてそんなことを言うのだろう。
どうしてそんなことを言わせようとするのだろう。
「さいごの幸せは、死ぬこと、だから」
声が震える。
本当だ。本当に本当だ。本心なのだ。
「誰も脅かさないわたし……それはとても、しあわせ、です」
「………」
固く自分の膝を抱えていた手を痛いほど握られて、アメリアはそろりと目をあげた。夜闇の中薄暗い街灯に照らされ揺れる、少年のターコイズ色の瞳がそこにはある。
「――――――――本当の、幸せは?」
乞うような問いに、鼻の奥がツンと痛んで、急速に視界が歪む。
大きな宵闇色の瞳が揺れ、ぼろりと大粒の涙が溢れ、気管が妙な音を立てながら息を吸っていた。
「――――特別だって、思いたい。誰かにとって、特別だって、私の、価値が欲しい……。誰かの幸せの一部になりたい。幸せに必要な人になりたい。理不尽な人生だっていい。ただそこに、笑ってくれる誰かがいて、楽しくお喋りしたり、喧嘩したって――――私を、必要としてくれたら。好きになってほしいなんて、贅沢言わないから、幸せを作れる人になりたいんです。……でも、そんな奇跡みたいなこと、呪われた私には、決して手が届かない…」
涙が止めどなく溢れて、濡れた声で嗚咽を漏らしながらたどたどしく口にした。
アメリアには、自身の頬を濡らすものが何かわからなかった。視界がどうしてこんなにも歪むのかも。けれど絶えず溢れ続けるそれが頬をしとどに濡らす頃には、自分が泣いていることに気が付いた。
無感動と無感情の中でしか生きる術のなかったアメリアは、ずっと、何があっても涙なんて流れなかった。それなのに、幸せを願ってしまった途端、もう止まらない。ずっとずっと幸せだったのに、それ以上を望んだ途端、決壊してしまった。
「う……ひ、っく、……ひぐっ、…っう、ぅうう――――――~…………!」
私には泣く権利すらないのに。赦されないのに。泣いちゃ、駄目なのに。
嗚咽は引き絞るような泣き声に変わる。
ずっと仕舞っていた気持ち。考えてはうじうじしてしまうから、見なかったことにして蓋をしていた気持ち。
こんな事、今まで誰にも言えなかった。身の程知らずだと蔑まれたり、嘲笑われるのが怖くて。それはお前には無理なんだ、と、他人の口から事実を思い知らされるのが怖くて。
そしてこんな身の程知らずな願いは、ついには忘れてしまっていた。
どうして思い出したんだろう。どうして話してしまったんだろう。やっと希望を捨てたはずだったのに、どうしてまた、それが浮かび上がってくるんだろう。
どうして彼なら、否定しないでいてくれるかもしれないと、信じられたんだろう。
「なら、生きろ。その手伝いならしてやる。理不尽を耐えられると思うなら、生きて、お前の価値を、幸せを――――――――」
その先は、続かなかった。
突如現れた黒く巨大な節くれ立った四足の何かが、その大きな前足で少年を石橋の欄干ごと薙ぎ払ったのだ。
「………え…」
ゴキリ、と骨の折れる嫌な音と、石橋が崩れる音。吹き飛ばされた石の建材と共に、少年は真っ暗な奈落の底へと吸い込まれていった。
「――――うそ………うそ…っ…」
石橋から乗り出して暗闇を覗き込んでも少年の姿は認められず、ただ大きな水音が数回に渡って聞こえるだけだ。
その場から立ち上がることはできなかった。首を回して見た背後の化け物に、足が竦んで動くことすらできなかった。
人の顔のパーツをこねくり回したような丸い胴体から、蜘蛛のような蟹のような、節くれ立った四本の脚が四方に生え、しかし地に着く部分だけ人の手と足を持つ全身漆黒の奇怪な化け物。一つの関節だけでアメリアの身長程もある、巨大な生き物のような何か。
混乱で真っ白になった頭の中、片隅が冷静に叫ぶ。これが、《魔》だと。
どうして私は今まで一度も目にしたことがなかったの? これが、みんなを、私の周りに居ただけの何の罪もない人たちを殺していったの? 今度は私の目の前で、また。ぐるぐると、吐き気と共に思考が混ざる。彼は無事なんだろうか。いや、あんな奇妙な音は人の身体が立てていいものじゃない、無事で済んでいるわけがない。身体が自分のものではないように震える。怖い、こわい、こわい。
その混乱は、一瞬が永遠に感じられるように、時が止まった感覚を作っていた。
しかし、目の前の化け物が、節の四肢が出る中心の部分から醜い口をがぱりと大きく開いたのを見た時、ついに思考は冷静になった。
――――なら、私が喰われるのは、当然のことじゃないか。
瞼を閉じ、祈るように、その時を待った。
「“土は土に、塵は塵に、神は、神に”!」
瞬間。凛とした祈りのような声と共に、夜の街に響いた銃声。
アメリアは自然と目を開いていた。目の前で化け物の前足が吹き飛び、今度は目を瞠る。
「こちらへ!」
声へ顔を向ければ、硝煙を上げた銃をこちらに向けている神父と目が合った。彼は素早く駆け寄り、腰を抜かしたアメリアの腕を引ったくるようにしてその場から逃げ出した。