0-2.神に仕える異邦人
目が覚める、とは、思っていなかった。
「…………」
気が付いたら、目を開けていた。
沢山水を飲んだ記憶がある。布地の多いドレスが水を含んで、まるで水底から伸びた手に引っ張られるように海へ沈んでいった記憶がある。
呼吸できない苦しさは、しかし自分に与えられる死としては軽すぎると思ったけれど確かに、死を、感じたのに。
質素な天井、壁。屋敷とは比べ物にならない造りのベッド。ここはどこだろう、と呆然とする。
「何だ、目が覚めたのなら声くらい出したらどうなんだ」
視界の端からひょいと顔を覗かせたのは、自分と同じ年頃くらいの、背もアメリアと変わらないか少し小さいくらいの、線の細い少年だった。身体に合わないサイズの服を着ているのか、大分ゆったりした着こなしをしている。
彼の背後の窓の外は夜で、サイドテーブルに置かれたランプの光によって、少年の淡くブルーに輝くような銀色の髪はちらちらと光っている。左耳に付けた、彼の目と同じ色をしたターコイズ色のピアスも、同じように角度を変えては光っている。
そういえば身投げした後、天使を見たような気がするが――――彼には羽根など生えていない。ここは天国ではない。そもそもアメリアは天国に招かれることは決してなかったと、自身の罪を数え直した。
「……死んだ後も生きさせられるのは、地獄が与える罰だからですか…?」
「だとするなら、お前には俺が悪魔や悪鬼にでも見えているんだな」
アメリアがまるで年寄りのように嗄れた声で問うと、少年は呆れたように肩を竦めた。
そうしてやっと、自分が生きているのだということを理解する。理解と同時に実感が戻ってきて、全身がが痛くて堪らないことに気がついた。水面に強打した頬は腫れているようで湿布を貼られていて、いっぱいに海水を飲み込んだ肺と気管はヒリヒリと灼け付き、声を出すのは辛かった。
――――死ねなかったのだ。
「…どうして」
痛む身体を起こした。
およそまともな声は出せないが、それでも問わずにはいられなかった。
「『何で生きてるのか』って質問なら、助けたからとしか言いようがない。『何で助けたのか』、なら、見殺しにするほど人間ができちゃいないから、だ」
「……」
彼の皮肉な物言いを聞き、ぎゅっと、シーツを握りしめる。少年はその様子を横目に見た。
「……余計な事を、と、口には出さないんだな」
「………」
それがわかっていて、何故。けれど非難をぶつける事はできなかった。
沈黙した部屋の中にコンコンと木戸を叩く音がして、室内の返事を待たず、胸に特徴的な十字のネックレスを下げた黒い装束の青年が姿を現した。
「ああ、よかった。目が覚めたんですね」
「……」
誰だろうと思うより先に胸を占拠する――――何がよかったものか、と。
しかしこれも口には出せない。青年は柔和で優しげな笑みを浮かべている。きっとその言葉に嘘はないのだろう。
長く美しいプラチナブロンドの髪と、宝石のように輝くペリドット色の瞳を細めた微笑みは彼を高貴に見せていて、アメリアの生きてきた陰鬱な世界とはかけ離れた場所にいる人間に見えた。まるで違う生き物のようだった。
「私はユキト。アルカディアから参りました、ミラリュキア教団の神父です。彼はセファード。私の伴徒です。この国には宣教のために訪れました」
聞いたこともない場所、組織、不思議な響きの名前を名乗って、彼は運んできた洗面器の中でタオルを水に漬けると、丁寧に絞ってアメリアへ差し出した。
「神父というのは神に仕える聖職者でして…ああ、いえ、“聖職者”というのも“宗教”というのも、この辺りでは馴染みのない言葉ですよね」
「……」
「ここは街の病院ですが、身体の調子は如何ですか? ご自身のことはわかりますか?」
「……」
タオルを受け取る気にはならない。彼らがどこぞの人間だというのもどうでもいい。神に仕えるという人間なら、人が死ぬのを看過できないのかもしれないが、それもアメリアには関係がなかった。ただ俯いて押し黙る事しかできない。
代わりに答えたのはセファードと呼ばれた少年の方だ。
「助けられたのが不服だと。明らかな身投げだったしな」
「ああ…」
神父は納得したような息を漏らした。
そのたった一言に、どく、と心臓が鳴ったのがわかった。
わかっていたのに、よかった、などと言ったのか。わざわざ死のうとしていたのを、勝手な都合で助けたとわかっていて、そちらの安堵を押し付けたのか。
ふつり、とアメリアの中で何かが湧きあがる。
「ええ、噂程度の話ですが、貴女の事は聞いています。『呪われた少女』と。世を儚むのはその事が原因で? よければ少しお話を聞かせていただけませんか。身投げをするにしても、もう一度考え直してみてからで……」
「オイ。お前は今神父として至極誤った発言をしている」
「ええ…? これでも理解のある方と言いますか。どうあれ頭ごなしに否定するというのはよくありません」
「自殺願望に理解を寄せるもんじゃない。同情はいいが共感はダメだ。そいつの為にも否定してやるべきだ。それがお前の仕事だろ」
「けれど他人には分からない、死にたいほどの人生というものもあるでしょう」
「お前、俺に向かってよくもそんな事言ったもんだな、ユキト?」
内容こそ真面目かもしれないが、口調はあくまで軽口な彼らの会話が遠くに聞こえる。
ああ、この気持ちはなんだ。
あの一歩、たった一歩だけれど、あそこに至るまでの不幸を、一つも知らないくせに。勝手に助け、勝手なことばかりを。
「…私は貴方たちの玩具じゃありません……!」
気が付くと、喉の痛みなど忘れ、大声を出していた。
心臓がばくばくと早鐘を打ち、息が荒れる。こんな気持ちになったのはいつ以来だろう。いや、こんな気持ちになったことは、終ぞなかった。アメリアの世界はいつだって、凪いだ幸せしかなかったから。
全て受け入れるだけの選択肢しか持たないアメリアは与えられた行為を非難するなど初めてのことだった。他人を勝手だと思うことすら。
唖然とした男二人だったが、すぐに少年の方が、ふ、と吐息を零して小さく笑った。
「……何だ、そんな顔もできるんじゃないか。押し殺すな。押し殺さなくったっていい」
その態度は、余計にアメリアの激情を煽るには十分だった。ベッドの上に立ち上がり、枕を、布団を、彼らに力の限り投げつける。
この気持ちが何なのかわからないまま、必死に。
「勝手な事ばかり言わないで――――――――!」
アメリアが叫び終わると同時、突如として神父の胸元がカッと強い光を放った。
驚いた彼が自身の胸元に手を伸ばすと、強い光を放つ石のようなペンダントが、服の中からふわりと宙に浮かび出る。
「っ、試聖石が…触れてもいないのに…!」
あまりに眩しい、純白の光を放つ石。
「な、なに…きゃっ…!」
目を開けていられない程の光が爆発的に広がり、光と同時に発生した爆風でアメリアはベッドの上から弾き飛ばされた。あわや壁に叩きつけられるところが、あの爆風の中どうやってかいつの間にか背後に回った少年が身体を受け止めていてくれて、痛みは感じなかった。
少年の腕の中、床に座り込んで身動きも取れないまま、呆然と光の治まった神父のペンダントを眺める。見たこともない光。現実で起こる現象とは思えない、不思議な光弾。
まるで邪悪なアメリアを浄化せしめんとするような、力強く清らかなもの。
「な、に………?」
「貴女は……、…………」
呆然としているのは神父も同じだった。アメリアの顔を見て、しかし言い澱む。そんなに言い辛いことなのか。それは自分が、《呪われた子》だから…?
「……私には、悪魔でも憑いているんですか、神父様。…だから、人が死んでいくのですか? だから、皆、不幸になるの」
絶望的な気持ちで、訊く。
もうずっと無感動の中で生きていたアメリアだったが、今度ばかりは感情無く問えるわけがなかった。ただの憶測が、謂れなきはずの偶然かもしれなかった多くの悲劇的な事実の確かめようもなかった原因が、まさしく真実になろうとしているのだから。
「――――違う。逆だ」
「セフ」
少年が答えるのを神父が咎めたが、彼は続ける。
「お前は聖なるものだ。無辜の民を救うことのできる、特別な力を持っている、《聖女》だ」
何を言っているのか、理解ができない。できるはずがない。
「……人を、救う……? ……だったらどうして私の周りでは人が死ぬんですか、不幸になるんですか。私が、いるから、なんですよね? それがどうして人を救えるなんて言うの…!」
壊れ物でも扱うように優しく包んでいてくれた少年の腕を振り払い、振り返って責める。
アメリアの自殺を思い留まらせようとしているのだろうが、冗談にしてはあまりにも滑稽だ。人を救える人間であったなら、アメリアは足を踏み出す結末を選ぶ事はなかったし、苦しい想いを誰にさせることもなかった。
非難の視線を送るアメリアの頬に少年の手が添えられ、アメリアはびくりと肩を震わせた。
「お前は、あまりに加護が強過ぎる。今の今まで俺も感知できないほど強大な…。その分周囲の人間に“移り香”があったんだろう」
それは憐むような瞳。何を言われているかわからないが、わかるのは、彼がアメリアの知りたくない真実を知っているということ。
「《聖者》と、呼びます。私たちの教団では、貴女のように“加護の力”を持つ男性を《聖人》、女性を《聖女》と」
神父の声がして、恐る恐る振り返る。彼は先程とは打って変わり、毅然とした瞳で、射抜くように真っ直ぐアメリアを見つめていた。
アメリアを暴く瞳。アメリアを、断罪する言の葉。ここは、裁きの場だ。
「聖者は狙われやすい。けれど貴女は加護が強いあまり、近付ける者はいなかったのでしょう。――――そしてその強い力が周囲に“聖者の移り香”を持つ人々を作り、“彼ら”を引き寄せてしまい………最期を迎えることに」
そう、神父。
加護の力って、何だ。アメリアは無力だ。普通のことすら人並みにできず、それ以上に優れた力など持っていやしない。人の迷惑にならないように慎ましやかに生きる術しか知らない無能な小娘だというのに、それを捕まえて、特別な力を持つなどと。
けれど。
彼らの言うことが、本当なら?
それが示す真実は。
「……狙われる、って……誰か、が、私の周りにいただけの人たちを、わ、わたしのせい、で、……ころした……?」
震えて、声が上手く出ない。
「貴女を狙う『魔』と呼ぶべき者に、命を刈られたのでしょう」
淡々と告げられた、大罪。
「っ………!!」
「おい、待て!」
弾けるように走り出していた。寝間着のまま、裸足のまま、人気のない夜の街に。少年の止める声など耳に入らない。冷たい石畳が足の裏を傷つけるのも、気にならなかった。
自分が人を不幸にすると信じていた傍ら、本当は心のどこかで、ずっと思っていた。私の所為じゃない、ただの偶然だ、と。ずっとずっと願っていた。私がいるだけで人が死ぬはずはないのだ、と。
なのに。
『魔』が何なのか、そんなことはわからないけれど、アメリアの知らないその『何か』が、アメリアの知らないところで人を殺していた。ただアメリアの周囲にいたという理由だけで、罪のない人々を喰らい尽くした。
何が、“無辜の民を救うことのできる聖女”か。
存在すら知らない妙な力のせいで、無辜の民が死んでいた。――――いや、そんなのは甘えた言い方だ。“死んでいた”などと、生温い。
私が、皆を、殺してきた………!
「うぐっ!! げほ…っげほ…!」
急激に内腑が絞り上げられ、胃の中身が迫り上がり、にわかに道端に蹲って全てを嘔吐した。
痛い、痛い――――痛い。
胸の奥が軋む。潰される。喉が締め上げられて、息もできない。痛くて堪らない。
ヒィヒィと気管が妙な音を立てて、再び迫り上がってきた胃液をその場に戻した。
呆然と、ただ呆然と吐瀉物で汚れた石畳に向き合うアメリアの瞳は、何ひとつとして捉えていなかった。
頭の中を駆け巡るのは記憶。
いっぱいに愛してくれた両親。引き取って自身の子どもと変わらない愛情を注いでくれた叔父夫婦といとこの兄妹。遊んでくれた悪ガキ。孤児院の母。気を塞ぐ自分を労ってくれた優しい女の子。厄介者だとしながらも困った人を放っておけなかった強面のお爺さん。思い出さないようにしていたみんなの笑顔が、次々に蘇る。温かかった人々。優しかった人々。幸せに包まれたあの日々。
小間使いとして家に置いてくれた男。金稼ぎの商品として家に置いてくれた女。甚振る玩具として家に置いてくれた金持ちの女。噂を聞きつけコレクションとして保管してくれた大金持ちの男。痛いことも数え切れない程あったけれど、幸せだった。誰もが居場所を与えてくれる人だったから。どんな理由でも必要としてくれたから。“ここに居ていいんだよ”と、言ってくれているのと、同じだったから。
その誰もを、殺した。きっともっとたくさんの人を殺した。
「ごめ…っごめん、なさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ……」
汚れた地面に蹲る。掠れた声で喉を潰すように、ただひたすらに謝り続ける。
懺悔すら許されないであろう大罪。けれどアメリアにはそれしかできない。
痛くて痛くて痛くて、今まであった何よりも痛い。
「――――――――――――………かえして……………っ……みんなを、かえして……………」
懺悔の中に零れる、たったひとつの祈り。
人の寝静まった静かな街に、嗚咽のような声が響く。
喉がひぃひぃと音を立てるだけになっても、アメリアは延々と懺悔し続けた。
時間の経過はわからない。ただアメリアにとって蹲ってからひどく長い時間が経った頃にはとうとう頭の中は空っぽになっていて、ふらふらと無意識に歩き続けていた。
歩き続け、宛てもなく彷徨い続け、気が付けばいつの間にか昼間に飛び降りた石橋に辿り着いていた。
欄干を乗り出して、海を見下ろす。昼間とは違う、真っ暗の闇。吸い込まれそうな、まるでアメリアを呼んでいるような、地獄の門。
再び、死への出で立ちに登る。
――――考え直すまでもありませんでした、神父様。
失った思考に、金色の神父の断罪の瞳が思い出される。
アメリアには最初からこの選択肢しか用意されていなかったのだ。だというのに、十五年もよく生き延びた。充分すぎるほどに許されざる年月を生きた。人々の善意に生かされた。
奪ってしまった人はもう取り返せないけれど、これから奪ってしまう人はいなくなる。もう誰も不幸にせずに済む。傷付けずに済む。アメリアももう、痛くならず、済む。
それはとても、幸せなことだ。
「やめておけ」
踏み出そうとした時、後ろ手を掴まれた。振り返ると、少年が厳しい瞳でこちらを見上げていた。
「自分をそんなに責めるな」
反駁したくとも、取り留めもない懺悔に体力を根こそぎ奪われていたアメリアには、それだけの気力は残されておらず、手を振り払うこともできず、ただ胡乱な眼で少年を見下ろす。
「………どうして…」
声ではない、空気の掠れる音をぽつりと零す、アメリア。
何を問うているのかは自分でもわからない。アメリアの中には“どうして”が沢山あって、そしてそれ以外の言葉は持ち合わせていなかった、それだけのこと。彼に問うているのか、自分に問うているのか、それさえもわからない言葉。
「綺麗事は言わん。お前が原因となって死んだ人間は事実大勢いるんだろう。けどな、世界に与えられた理不尽のせいで、お前が死ぬ必要なんてないんだよ」
怒っているのか、厳しい目付き。険しい顔。けれど瞳の中に濃い悲哀が窺えるような気がする。
「だから、降りろ。自分の意思で戻ってこい」
「………」
かぶりを振る。必死に、振る。
無理なのだ。もう生きれない。知らぬ間にズタズタに引き裂かれていたアメリアの心は、真実によってとうとう元の形も分からないほどぐちゃぐちゃにすり潰されてしまった。
戻れない。戻りたくない。
「ここに居ていいんだよ」――――そう言われても、もう無理だ。
幸せになりたいのだ。たった一つ、この一歩だけが、アメリアの幸せなのだ。
「戻ってこい」
「……っっ」
必死に、残った気力と体力の全てを使って、首を振る。
「戻ってきてくれ」
軽く、本当に軽く、掴まれていた手を引かれた。
たったそれだけのこと。それだけなのに、どうしたってもう生きれないと思うのに、首を振る力を奪われて、アメリアはひたりと少年を見つめることしかできなくなる。彼の瞳に見据えられるとこれ以上抗うことができなくて、ほんの少し、半歩にも満たない足が少年の方に動いた。はくはくと口を動かすが、肯定も否定も、言葉は何も浮かばない。
憐むように目を細めた少年は今度は強くアメリアの腕を引き、抵抗なく欄干から滑り落ちた痩身を細い身体とは思えない力で抱き留めると、「勝手を許せ」、と、アメリアの耳許で小さく呟いた。
少年の身体は、とても温かかった。