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2.Ⅱ-4


 ディオンの意図するところを、すぐに理解出来る者はいなかった。

 唯一アルブレヒトだけが思案げに眼を伏せて、ちらりとアメリアを窺い、納得しないまでも何かに思い至った様子だった。

 聖なる乙女とは、《聖女》のことを言っているのだろうか。アメリアは考えるが、けれど自分がその立場に置かれているとは言っていない。それどころか、自分からミラリュキア教団の話は一言だって――――そもそも宗教の事情に明るくないのだから言えることが大してないだけだが――――話さなかった。それはグレースも同じだ。

 ではディオンは、自分に何を見ているのだろう。神の末裔であるというからには、聖者のような特殊な力を秘めているのかもしれない、そんなことを思う。


「しかし、アルカディア――――いや、ミラリュキア教、か。諦めないものだな、君たちは」


 ディオンはアメリアの胸に下げられたロザリオを一瞥し、つまらなそうに言った。

「我が国は大国とはいえ、国一つを手中に収めずとも、既に各国に充分影響力はあろう。それとも、欲しいのは資源か? 技術力か? 何を以って、神を擁する国に別の神を降ろそうとしているのだか、いよいよ解せぬ。さて、レディー、君は説明できるのかな」

 問われたアメリアは口籠る。説明できないこともないが、詳しく説明するのは無理だ。《カタストロフ》のことに触れずに誤魔化しながらとなると、アメリアには荷が重すぎる。

 事情に通じているようで通じていないことを察したらしいアルブレヒトが、そういえば、と眼を細めた。

「君はウィランド出身でしたね。どういった経緯でアルカディアに渡ることになったのです」

「渡る……?」

「アルカディアに行き、ミラリュキア教に入信したのではないのですか?」

 アメリアはかぶりを振った。

「シズルのお屋敷に居ました。これからアルカディアに行きます」

「ほう……?」

「それは…」

 アメリアの言葉にディオンは眼を細め、マクロンが片眉を上げて口髭を弄んだ。

「では使節団の伝道者の言葉に感銘を受けて、入信することを決意した、ということですね?」

「そういうこと…だと、思います」

 生きると決めた限りアメリアに選択肢はなかったのだが、ユキトの言葉に感銘を受けたというのも本当だし、神父様の言うことなのだから教団の言葉だと思っていい筈だ。

 ディオンは頬杖を付き、冷めた眼差しでアメリアのロザリオを見る。

「伝道者は、何故この国にミラリュキア教を広めたいと?」

「人を護り、救いたい、って」

「それはまた、随分と傲慢なことだ。君はそれに縋るほど救いを求めていたのか?」

「………」

 そうだとも言えるし、そうでないとも言える。

 救いを求めていたのではなく、事実救ってくれたのだ。

 シズルでセファードを追ったあの時、生きるとか生きないとかは頭になくひたすらに衝動的で、後からやっぱり赦されないのじゃないかと何度も思った。森で死んだって当然の報いだし、誘拐されてユキトやセファードの許に帰れないのも今までの罰ならば仕方のないことだとも思った。

 それでも、彼らの許に戻りたいと強く意識するようになって、悪魔の少女と出逢って、今確かにある意志。叶えたいと願う己の“幸せ”。

 アメリアにとっての、救い。


「私でも、人を、救えると言ったから。私も誰かに報いて生きたいのです。誰かの幸せを作る人になりたいのです」


 黄金を真っ直ぐに見詰める。

 ディオンは興味深げに一度瞬きし、彼もアメリアの宵闇色を見詰めた。不躾ではないが、値踏みするような関心を感じる。

「……少女ながら、見上げた気概だ。危険を顧みず、剣の前に飛び出すだけのことはある。果敢と無謀が違うことは知らぬと見えるが」

 常の穏やかさがない、ディオンの表情と声。憤りや不快感があるのではなく、強い決意を持つアメリアに上辺の顔なく向き合っているようだ。

「それに、この国は行方不明になる人が多いのですよね。私の周りもそうだったから、なくしたいです」

 この言葉には、全員が訝しげに眉を顰め眼をしばたたかせた。その中でも顔色を変えたのは、無表情が板についている筈のアルブレヒトだ。

「ちょっと待ちなさい。何故、行方不明者の話が出るのです。ミラリュキア教と何の関係が?」

「あの……人の心には孔があって、そこから不浄が溢れて、神様…ミラ様を信仰することで塞がって、人は護られるって」

「行方不明から? 関連性が見えなさすぎる。莫迦莫迦しい」

 ジャン=ジャックの説いた教義を引用して辿々しい説明をしたアメリアに、アルブレヒトは言い捨てる。

 行方不明者のことは、ユキトがはっきり口にした訳ではない。けれどアメリアの周囲にいた人たちは変死か行方不明で命を落としたし、先日見た《魔》の全てが元人間で、しかもその姿を普通の人には捉えられないのだとしたら、あれだけの人々が忽然と姿を消したことになる。《魔》が発生しやすいとはつまり、行方不明者が多いということだ。犯罪によるものや己の意思で消える場合もあって、全部が全部ではないのだろうけれど。

 アメリアにできるのは《魔》を浄化することだが、そもそもを防げるのなら尽力したい。それがこの国の王様にミラリュキア教を認めてもらうことなのだとしたら、目の前の王子殿下は、とても近しい人物なのだ。

「でも、本当です」

「非科学的すぎる」

「さいな、昔は妖精に攫われたとか、妖精の取り替え子(チェンジリング)なんてのはよく言われる話でしたがなぁ。確かに忽然と姿を消し、消息が掴めないとなると、そういった超自然的な存在を信じてみたくもなりますな」

「自然科学の最先端に座す方のお言葉とは思えません、マクロン先生」

「取り替え子については、意に沿わない者を糾弾するための手法…言い掛かりを正当化したものであろうがね。人が忽然と消えるのは世界中で観測されておりますよ。ふむ……つまりお嬢さんは、その心の孔というのが妖精に類する超自然的な現象を呼び寄せて、人が行方を晦ますと。ミラリュキア教は祈りによって人智の及ばないそれらからお護りくださると、そう言いたいのかな?」

 否定を挟むアルブレヒトに、マクロンが己の考察を混ぜながら纏めてくれた。事実とは違うが恐らく教義の内容に近しいとみて、アメリアは素直に頷く。

 結局《魔》についても若干触れてしまっているような気がするが、妖精と称するのは世界中であることのようだし、問題ないだろう。

 アルブレヒトは煩わしげに溜息を吐いた。

「莫迦げています。君は“呪い”だの妖精だの、伝道者に唆されて洗脳されたんじゃないのか。口の巧い使節団にはさぞ扱い易いでしょうね、頑固でも常識に欠けた小娘の思考など」

「…どうして“妖精”は信じないのですか? この国にはたくさんの神様がいるのに」

 アメリアは、アルブレヒトからディオンへと視線を滑らせる。

 まさか妖精と同列に並べられて存在の有無を確認されるとは思ってもみなかったのか、ディオンは少しあどけなさを感じさせる表情で眼を丸くした。

 裏を返せば、妖精の存在を否定するなら、神の存在も否定するべきだと取れる不敬な言葉。

 これが愉快だったのか、ディオンは艶然と微笑んだ。

「一理あるぞ、アルブレヒト。我が国の神とは、神籍しんせきに入るまで目視できるが故、御魂となっても存在を疑われぬ。視えていないのに、おかしな話だ。――――しかし、“呪い”とは穏やかではないな。何の話をしている?」

 興味深そうに目を細める。しかし、その話に続きはなかった。


 コンコン、


 と、話を遮るように重厚な扉がノックされ、扉の向こうから「旦那様」と女性の声が掛かる。それに目を向けたアルブレヒトは、一度ディオンと視線を交わらせ無言のまま同意を得ると、入室を許した。

「入りなさい」

「失礼致します」

「!」

 頭を下げながら部屋に入ってきた女中と、その後ろに連れられた人を見てアメリアは思わず立ち上がっていた。

「ご苦労、良い仕上げだ。しばらく下がって構いません。ヴィトリー氏がお越しになったら、三名ほど迎えに寄越しなさい」

「かしこまりました」

 再びアルブレヒトに頭を下げ、女中は部屋から出て行った。

 残されたのは、ぽつんと佇む、小さな悪魔。

 アメリアは近くに駆け寄った。

 彼女は湯浴みをさせてもらったのか、髪も肌も見違えるように綺麗になっている。身長よりも長かっただろう薄桃色の髪は、それでも長いとはいえ膝ほどまで切られ一つに括り、なかった前髪も作られている。

 服は貴族令息の軽装に似て、シャツにサスペンダーで吊り下げたハーフパンツという出で立ちだった。脚は人のパーツでないので、靴や靴下は履かせてもらっていないが。

 少年にも少女にも見える中性的な仕上がり。性別不詳なのは、彼女を余計未知の物に見せている。

 手首と翼は未だに拘束されているが、つい数時間前に較べればまともな扱いだと言えよう。

 彼女は探るような瞳でアメリアを見上げる。明らかな警戒と少し怯えたような色が見えるのは、彼女の欲に応えてしまったからだろうか。とにかく何事もされなかったようで良かったとアメリアは安堵する。

 何も流されるまま、この部屋で無為な時間を過ごしていた訳ではない。教団の話を王子殿下に出来たのは重畳であったが、それはたまたまの幸運で、本来の目的は彼女を待つことだった。


「いや……これはまた…、アル坊ちゃん、これを見て尚、非科学的と仰いましたか…」


 悪魔の姿を初めて目にしたマクロンは、ポカンと口を開けて眼をまん丸に見開いていた。そしてアメリアの横にそそくさと寄り、フロックコートの内ポケットから丸眼鏡を取り出し、興味深げに悪魔の頭から足許までをまじまじと観察する。

 先ほど悪魔を連れてきた女中の顔色が一切変わっていなかったのは侯爵家の使用人教育が行き届いているからで、マクロンが畏れを感じていないのは好奇心が勝るからだろう。未知の生物に老爺は眼を爛々と輝かせ、まるで少年のようにわくわくしているのが窺える。

「先生が研究なされば、案外呆気ない結果かもしれませんよ」

「君、空は飛べるのかね? 体重は? 翼は確かに大きいが、ああ、一体どういう骨格になっているのか……見るに子どもの背中に翼が付いているだけだが、これで飛べるのだとしたら確かに神秘の為せる技だ!」

 マクロンはアルブレヒトの言葉など聞いてもいない。

 しかし、一瞬で状況は一変する。


「私に近付くな!!」


 遠慮なくぐいぐいと迫る老爺に、少女は眦を吊り上げ、大声で攻撃した。

 そう、()()だ。声が衝撃波となって、全員の身体を衝いたのだ。

 衝撃波自体は痛みを感じさせるような強さではなかったが、声は鼓膜をビリビリと震わせたし、ドンッと押されたような衝撃にアメリアは数歩後ろによろけ尻餅をついてしまった。真正面から受けたマクロンも、彼女から三メートルほど後退させられている。

 それと同時に、彼女の手首を拘束していた鉄の手枷が、バギッ! 、と強烈な音を立てて破壊された。

 唸り、総てに威嚇する少女。

 流石にこの様子には全員が色めき立ち、しかし微動だに出来ず息を呑んだ。これまで存在を主張せず、静かに部屋の端に佇んでいた二人の使用人も、彼女を連れてきた張本人であるセルクルも、無表情のアルブレヒトも、今まさに生物、医学的関心で畏れもなく彼女を観察していたマクロンも、彼女が元人間であると知っているアメリアすら。

 自らを命を刈られる小動物と勘違いしそうになるほどの、威圧。本能が、対峙してはいけないと警鐘を鳴らす。まるで蛇に睨まれた蛙。だがそれも食べられるだけまだいい。目の前の彼女が行うとするなら、生きる本能のためなんかじゃなく、生きとし生ける物総てに向けての復讐劇のごとく、全員、嬲り殺し。


 だが、ディオンだけは違った。


 彼は悪魔の咆哮など意にも介さず、迷いのない足取りで、彼女の眼前に立った。

 その危険な行為にアルブレヒトとマクロンがハッと息を呑んだが、誰一人として動けない。

 凄みのあるディオンの冷たい瞳に見下され、悪魔は威嚇を続けるも僅かにたじろぎ、遂には伸ばされてきたディオンの手を弾く事も避ける事も叶わず、不躾に顎を掴まれた。そして無抵抗にも、顔を上向きに首を反らされる。


「成る程。腕が落ちても立ち所に治るというのは事実らしい。杭を打たれていた事が嘘のようだな」


 グル、と少女の喉が、煩わしげに鳴る。

 憎々しげにディオンを睥睨するが、彼の黄金の冷たさは変わらない。

 生物として、悪魔の少女の方が数段階上のステージにいるのだとしても、この場に支配者として君臨しているのはディオンだった。生来のものか、王族として培われたものか、それとも神の末裔たるものか、彼は圧倒的な生態ピラミッドを覆すだけの資質があった。

「触るな穢らわしい!」

 一時は大人しくされるままになったが、好きに扱われることに苛立ちを募らせる少女は、思い切りディオンの手を弾き飛ばした。だが、憤懣遣る方無い様子ながら、それ以上危害を加えるつもりはないらしかった。ディオンから距離を取り、忌々しげに睨むに留まる。

 額の冷や汗を拭ったマクロンが、ディオンの横に並ぶ。

「殿下、先ほど何と仰いました?」

「言葉の通りだとも。この悪魔はつい一時間前まで喉を鉄杭が貫いていたが、跡形もなく治癒している。見た目ならず神秘の存在であるのは間違いないだろう。そう、自らを神の一族と傾倒し妄信する愚かな王族よりも、余程、な」

「ほう…それはまた……人類の進化に寄与できるかもしれませぬな…」

 何だかぞわりと背筋が粟立ち、アメリアは力の抜けた膝を奮い立たせて立ち上がると、不穏な輝きを宿した瞳で悪魔を観察するマクロンの前に出て、視線を阻んだ。

 いつからか睨みつけるという行為自体忘れてしまっていたが、今はそれを総動員してマクロンとディオンを見詰める。彼らには取るに足らない、子猫の戯れのような気迫だろう。

「レディー。そう目くじらを立てずとも、それに手は出さぬ。大人しくしている限りはな」

「私、この人と一緒に、教団に帰りたいです」

「残念ながらそれは叶えられぬ。君の身柄はフォンヴァンス侯の預かりだ。使節団に戻るのは今しばらく後となる」

「何故ですか……?」

 信じられない思いだった。人攫いから救ってくれたのは確かであるが、国を統べる王族というのは人ひとりの進退を左右する権利があるものなのだろうか、と。

 厳格で冷徹な支配者の顔をしていたディオンは、クク、と喉を鳴らして笑い、柔らかでどこか嗜虐性のある微笑に戻った。

「まあ、そう言うな。延いてはミラリュキア教団のためになる。宣教を許してほしいのだろう? しかしウィランド王家は、今のままでは決して認めぬだろうよ。レディー、君が私のままごとに付き合ってくれるのならば、いずれその願いは叶えられよう。総てが終わった後、アルカディアに行けば良い。悪い話ではないだろう?」

「ままごと……? 私は何をするのですか?」

「簡単なことだ。私のエスコートを受ける、それだけで良い」

「……? 分かりません」

「分からずとも支障はない。明日また指示しよう。さて、随分と長居をしてしまったものだ。セルクル、今後については追ってフォンヴァンス侯より伝える。来てもらって悪いがマクロン翁、“それ”の生態についてはまた今度だ。アルブレヒト、諸々話したい。卿の書斎に移ろう」

「かしこまりました」

 部屋を振り返り全員にさっと指示を出し、ディオンは颯爽と部屋を出て行った。室内にいた女中の一人と扉の外に待機していた彼の二人の護衛も付き従い、去って行く。

 アルブレヒトがその後を追おうとアメリアの横を通り過ぎざま、ピタリと足を止めて目を向けてきた。

「今度こそ自分の立場を理解しなさい。ミラリュキア教の今後は君の双肩にかかっているものと、ゆめゆめ忘れないことです。もし悪魔(あれ)と逃げようものなら、ディオン殿下は、決して宣教を許しませんよ」

 何度目になるか分からない忠告を置き、彼は踵を返した。

 しかしアメリアはアルブレヒトの袖を掴み、再び足を止めさせた。胸に下げたロザリオを痛いくらい握り締めながら見上げる。彼は目を瞠るが、構っていられない。

「侯爵様」

 アルブレヒトは一度溜息を吐いて、アメリアの腕を引いて廊下に連れ出し、窓際に身を寄せた。そして潜めて声を出す。少し乱暴で、バローに近い声で。

「お嬢さん、今君に構っている時間はない。用件は後で聞く。邸内でなら好きにしてて構わないから、大人しくしていろ。何かあるなら部屋の中のメイドに申し付ければいい。名前はリディアーヌ」

 捲し立てるアルブレヒトに、アメリアはかぶりを振った。

「でも」

「それから、私のことはバローでもアルブレヒトでもアルでも何でもいいから呼び捨てなさい。王子殿下についても、ディオンと呼び捨てでお呼びすること。必ずな。その奴隷のような口調も直して欲しいが……まあ、そこはいい。後で迎えに来る。それまで、く・れ・ぐ・れ・も、大莫迦な真似をしないように」

 ビシッ、と額を指で容赦なく弾かれ、痛みに眼を細めている間に、アルブレヒトはディオンの後を追ってスタスタと優雅に歩いて行ってしまった。

 本当は追い縋りたいけれど、急いでいる彼は決して話は聞いてくれないだろう。アメリアはしょぼくれた様子で佇む。

 “呪い”について、話せなかった。

 最早信じてくれるか信じてくれないかはどうでもいい。とにかくアメリアは自分を隔離してほしかったのだ。

 決して甘く見積もってはいけないことだが、過去の経験からして、たった一日、二日でアメリアの最も近くにいた人が消えたことはない。短くても二ヶ月。それは例えば《魔》が近くにいなかった、とか、その人がアメリアの所謂結界のような範囲から出なかった、とか、幸運とも呼べる条件が重なった結果なのかもしれないが、少なくともこの数日だけなら“聖者の移り香”は手遅れなほどではない筈だ。

 そう、確かに出逢った日の夜、ユキトは言っていた、


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 、と。

 つまりその何体だかは知らないが、アメリアの周囲を彷徨いていた者がいたとして、それが誰かを害すまでに猶予があったということは、移り香が臨界点を突破するまでも少なからず時間は必要なのだ。

 このフォンヴァンス侯爵邸に着くまでの車の中で、アメリアはその事に思い至っていた。

 だがあくまで仮定であるからこそ尚更、彼らの命を守るためにも、隔離されて人と接触しないようにしたい。そして出来れば彼ら自身にも危険が迫るかもしれないことを念頭に――――見えないのにどう対処しろという話ではあるが――――置いておいてほしいのだ。

 本当のことを言えば、隔離なんて曖昧な対処ではなく、今すぐこの屋敷を飛び出してユキトとセファードの許に戻りたい。そうすれば移り香の心配も、例え《魔》に遭遇しても対処する術はあるのに、彼らの最大の使命である宣教についての責任を一身に背負っていると言われてしまっては、アメリアごときにはどうしようもなかった。


「こんな所で所在なさげにして、坊ちゃん……フォンヴァンス侯に何か言われたのかね?」

 ポン、と肩に手を置かれて振り向けば、マクロンが人の好さそうな顔で立っていた。先ほどまでの、まるで獲物を追う肉食獣の瞳とは全く違う。その後ろにセルクルも続いている。だからこそアメリアは、部屋の中に悪魔の少女を置いてきたことにハッとした。

 すぐに部屋に戻ると、彼女は部屋の隅の棚の上に小さく座り、どこか虚空を見つめていた。異端に興味津々のマクロンも、さっきの今で悪魔に食い付けるだけの度胸は流石になかったらしい。

「お嬢さん? 今日は安静にしているんだよ。頭を打ったのだから無茶はいかん。よく食べて、よく眠りなさい。それじゃあ失礼するよ」

 部屋の外から皺を深くしながら笑い、マクロンは扉を閉めて帰っていった。

 そして、部屋に残される二人。正しくは女中も入れれば三人だ。

 アメリアは置物のように静かに立っている女中を見詰める。すると、彼女の方から声を掛けてきた。

「何か御用でございましょうか」

 かぶりを振って、否定した。

 用向きは、この部屋を出て行ってほしい、と単純なものだが、おそらく主人(アルブレヒト)に命ぜられているだろう彼女には言うだけ無駄だろう。せめて距離だけは取って、彼女に移り香が及ばないことを祈るしかない。

 もう自分の所為で誰も殺したくないなら、もっと必死に、心血を注ぐ気持ちで抵抗しなければいけないことも行動しなければならないこともあるのに、結局アメリアはそれを選び取ることができない。他に優先すべきことがある筈がないのに、僅かな可能性に縋って、今も教団の利を選んでいる。

 情けない。不甲斐ない。嘆かわしいほど、救いようがない。

 こんな選択をするために、生きることを選んだ筈ではなかったのに。譲れないのは、無辜の民の命なのに。

「…………」

 腕に抱えていた無骨な銃を手に握り締める。

 結界なんかなければ、アメリアの目の届かない場所で人が襲われることはなかった。もしかしたら、この銃で、人を護ることができたかもしれなかった。

 力を制御できるようになれば、結界も制御できるのだろうか。人々の危険をもっと減らすことが、アメリアにも出来ることがあるのだろうか。

 ああ、帰りたい。

 セファードとユキトの許に帰って、教えてほしいことが、知りたいことが、たくさんある。

 もう分からないままでは嫌だ。“分からない”、と思考を放棄しない自分になりたい。状況に流されない自分になりたい。


 ちっぽけな自分だけれど、()()()()()()()()()()()()


 せめて、今出来ることといえば、この銃に力を込めて、弾丸の様に力を放つイメージをすること。

 この銃に込められた弾は“聖弾セイクリッド”と呼ばれるもので、聖者の力が込められた特殊な“神還具たいまぐ”の一つだという。だから浄化の力を持たない者でも《魔》に対処できるのだが、当然聖者本来の力には遠く及ばない。そして何より生身の聖者が力を込めて作る物であるから、貴重な資源なのだと教えられた。

 だからもしアメリアが《魔》に遭遇してしまったなら、出来得る限り自身の力で対処すべきなのだ。この聖弾は浄化の力を持たない人が使うべき物なのだから。

 あの日の夜、ユキトに支えられながら、何をしたかも出来たかも覚えていない。頭の中は真っ白で、必死だっただけだった。ただ、ユキトの言葉を信じただけだ。

 今度はきっと、確実なものにしなければ。訳の分からない力だけれど、それを、この銃を介して放つ。

 それが出来たなら、アメリアは誰かに報いることが出来るのかもしれないのだ。


 銃を両手で握り締め、じっと立ち尽くすアメリアは、しばらく思考の海に溺れていたが、視線を感じて顔を上げるとこちらを向いていた悪魔の少女と眼が合い、ぱちり、と瞬きをした。

 アメリアを怪訝そうな表情で観察していたらしい彼女は舌打ちをした後、あからさまに顔を逸らした。

 全身から拒絶のオーラを放っているが、攻撃的ではない。先程は圧倒されてしまった悪魔然とした彼女も、今は大人しいものだった。

 いや、彼女は、この屋敷に来てからも来る前も、拒絶をするだけで、アメリアに対してだけはそれほど攻撃的ではなかったと思い出す。

「あの」

「五月蝿い、話し掛けるな」

「あなたのこと、何て呼んだらいいですか」

 何を言われているか理解できない、と言う顔で悪魔は顔を歪めて、まるで異星人でも見たような視線でアメリアを見た。

 ただ名前を教えて欲しかっただけだが、ややして再び顔を逸らしてしまった彼女は、何も言うことはなかった。敵視している人間に名前を告げるのは嫌なのかもしれない。

 結局その後、二人の間に会話はなく、悪魔の少女は棚の上で、アメリアはその棚の下で銃を手に膝を抱えて座り、アルブレヒトが部屋に戻り訝しげな顔を見せるまで、誰一人じっと動くことはなかった。




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