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2.Ⅱ


「いやっ、いやああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 突如響いた金切り声に、アメリアの意識は瞬時に覚醒した。

 横たわっていた身体を起こすと頭がくらりとしたが、その間にもヒィヒィと声を殺して泣き喚くような濡れた声が耳に届いていて、その正体を探そうと視線を周囲へと走らせる。

 全く見慣れない場所。運ばれていた馬車の荷台の上ですらない。薄暗いとはいえランプの明かりで照らされた、倉庫のような窓のない部屋だ。倉庫といってもそれ程物が置かれているわけではないのだが、家具のなさがアメリアにそう思わせた。

 唯一明かりを取り入れている小窓は、ドアの上部に開いたもので、立ち上がってもアメリアの身長では覗き込めそうもなかった。

 未だ止まぬ泣き声は、そのドアの向こう側から聞こえているようだ。

 結ばれた手足でドアまで這いずり、壁に手をついて何とか立ち上がる。試しにドアノブを回してみたが、ドアの鍵とは別に外側から何かしらの施錠がされているようで、ノブは回ったが開かない。

 泣き声の主は誰だろう。再びグレースが捕まり何か酷い目に遭っているのか、それともあの悪魔姿の少女だろうか。恐怖に慄く悲鳴は、あの少女には似つかわしくないように思えたが、手酷い仕打ちを受ければどうかは分からない。

 もう一度ドアノブを回して、身体を使ってドアを押す。


「――――!」


 と、思い切りドアが向こう側に開いて、全体重を掛けて寄り掛かっていたアメリアはバランスを崩し、そのまま倒れ込んでしまう。

 すぐに、どんっ、と軽い音を立てて何かにぶつかり、床に転げて痛い思いをすることはなかった。それを見上げると、顎の下を湿布で覆われた眼鏡の男が冷たい瞳でこちらを見下ろしていた。

「お嬢さんは本当に懲りないな。痛い思いをしたばかりじゃなかったか?」

 男は衝撃で軽くずれた眼鏡のリムの下部を、親指で押し上げ言う。そしてアメリアの左側頭部を人差し指でピシリと弾いた。

「!!」

 たんこぶでも出来ているのか、ズキッと鈍い痛みが走った。しかし男の指が直接頭に当たった感覚はなく、それも当然で、ご丁寧に手当てをされ頭には包帯が巻かれていた。彼らはアメリアのことを相当高い商品として売ろうとしているらしい。

「全く、お前がとんだじゃじゃ馬なお陰で商品に傷を付けるなんてな。良質な商品の提供がウチのモットーであり定評を得ている所以なんだが?」

 攫った人間を売るのは果たしてモットーに則しているのかは甚だ疑問だが、今はそんな話をしている場合ではない。

「その大事な商品に何をしているんですか」

「……ああ。丁度良かった。お前でいい」

「っ!?」

 男の向こう側を覗き込もうとしたアメリアを見て何かに思い至った彼は、アメリアの腰に腕を回して軽々と小脇に抱え上げてしまった。

 まるで荷物のように運ばれながら周囲を見廻す。部屋は真四角で割合広くそれなりに整えられていて、中央には大きな執務机が一つと、その前に応接にも使えそうな二人掛けのソファがローテーブルを挟んで向かい合わせに二台、執務机の向かいに一人掛けが一台と並べられている。男たちはここで金勘定をしたり商談をしたりしているのだろう。

 部屋の壁は全て石壁で、窓もなく、肌を撫でる空気は埃っぽいがひんやりとしている。人様に誇れる商売ではないことは明らかなので地下室かもしれない。

 男はアメリアの体重など無いもののようにスタスタと歩くと、この部屋に見える五つのドアのうち開け放たれた一つへ進んだ。泣き声が徐々に近づいてくる。


「おい、バロー。コイツじゃ話になんねぇぞ」

「だろうな」

 部屋の中は寝台付きの小さな牢屋が二つあって、手前の牢屋の中にいた見覚えのない赤毛の少女が鉄柵を背に、ヒィヒィと泣きながら肩を震わせ怯えていた。

 その様子を、もう一人の男が退屈そうに腕を組み、部屋の石壁に寄り掛かって眺めていたのだが、バローと呼んだ眼鏡の男を見るなり肩を竦めた。


「あ……」

 怯える彼女の見据える先には、悪魔の少女が、いた。


 アメリアが小さく漏らした声に気が付いた少女は振り向き、必死に鉄柵にしがみ付く。

「だ、出して……っ! 出してぇ! ほ、他のことならします、から! っだから、やだぁ…!!」

 頬をしとどに濡らし、泣き喚きながら牢の外のバローを見上げる。

「ゴルド、こいつ出して。連れてっていいわ」

 バローはアメリアを床に下ろしながら、視線で指示を出す。ゴルドという名らしい屈強な男は、牢屋を開けて泣く少女を引き摺り出した。彼女は腰が抜けて歩けもしないようだった。

 肩に荷を担ぐように男に抱き上げられた少女は、さめざめと泣きながら力なく身体を脱力させ、しかし手だけは、もう二度とあそこへ戻してくれるなと言わんばかりにゴルドの服を握り締めたままどこかへと連れて行かれた。

「………」

 彼女も商品だろうか。それとも、この男たちに飼われている小間使いだろうか。どちらであろうが幸せではないことに違いない、とアメリアは二人の背を眺める。

 可哀想なことだが、アメリアは彼女まで逃してやりたいと思えるほど博愛ではなかった。そもそもここから放り出された時、行き場があるか分からない彼女を逃しても、今後の生にアメリアは責任を持てない。自分が生きるのに精一杯なのに、他人の面倒など見れるわけもなく、逃げたところで彼女が苦しまずに生きれるかどうかは全く与り知らぬこととなる。

 アメリアがずっと誰かに養われていたことで生きてきたように、彼女もそうしなければ生きられないかもしれないと思うと、逃したいと思う気持ちすら湧かなかった。

 ただ、悪魔の少女は別だ。見るだに到底人とは思えない彼女を見る。

 彼女は《神呑者フィリウス》。ユキトやセファードのような理解者がいなければ、きっと苦しい生しかないのだから。

 そうしている間に、アメリアの手足の縄の拘束が解かれていた。馬車で暴れた所為か、手首は縄で擦れて傷だらけだ。しかし解放された意図が分からず、眼前のバローの目をじっと見詰める。目と鼻の先の至近距離で視線が交差した彼は、一瞬苦虫でも噛み潰したかのようなおかしな顔をしたが、すぐにアメリアの首根っこを掴まえて牢屋の中へと放り込んだ。

 バローは低い牢の入り口に手をかけ、腰を曲げて中を覗き込む。

「ソレ、綺麗にしてくれる?」

 顎でしゃくった“ソレ”は、悪魔を示していた。

「綺麗に……?」

「そう。そんな薄汚れたんじゃ売り物としてピカイチでも価値が下がる。丹念に磨かないとな」

「どうして、私にさせるのですか」

「おかしなことに、お嬢さん、お前はその未知の生き物が怖くないんだろ。さっきの娘にやらせようと思ったが、あのザマじゃどうにもならん。こっちの商品管理担当は強烈な頭突きを喰らって頭をかち割られかけた。なら、妥当だろ?」

 バローは、にや、と嗜虐性に満ちた笑みを浮かべる。


「嫌です。この人を売り物にするための準備なんか、私は手伝いません」


 だがアメリアは、きっぱりと断った。

 身の程を弁えない拒絶。相手が彼でなければ、横っ面くらいはとうに張り飛ばされていただろう態度。けれどやはりバローは、商品を大事にするという信条の所為なのか、暴力で従順にしようとはせず、それどころか笑みを深くして、

「そう言うと思ってたよ」

 、と余裕の態度で納得の言葉を吐いた。

 そうして彼がポケットから徐に取り出したのは、一丁の拳銃。

「!」

 アメリアが咄嗟に腰を触ると、スカートの下のポーチは付いていたが、中身が抜き取られていた。

 あれはアメリアの、ユキトの、銃だ。

「ははっ、余程大事な物らしいな。お嬢さんがこっちの言うことを聞かないのは充分に理解したんだ、ならやり方は変える、そういうもんだぜ? こいつはウィランドじゃ見たことがない型だ。アルカディア製なら、市場には一切出回らないから相当珍しい。中々の値段で取引できるかもしれないなぁ」

 銃をまじまじと眺めるバローに、アメリアは自由になった手足で飛び掛かる。しかし正面から行ったところで、荷台の時のように優位を取らせてもらえるわけもなく、簡単に両腕を絡めとられてしまった。

「置かれた立場を理解しろと言ったろ、お嬢さん。返して欲しいなら、俺の言うことを聞け。お前の所為で一つ商品を逃したんだ。本当なら返してやる寛容さなどないことを、よく覚えておくことだ」

 ぐ、とアメリアは口を引き結ぶ。

 ユキトから預かった大切な物。託されたそれを勝手に手放すわけにはいかない。あれを持っていることはアメリアにとって義務のようなものでもあるし、もしバローの言う通り珍しい物であるのなら、失くしてしまえば酷い損失かもしれない。何よりユキトが預けてくれた物を失くすなんて不義理を働くことは絶対に嫌だった。

 アメリアには嫌なことなど殆どない。大抵は許容してしまえる。その少ない“嫌”の中で、今最も嫌なことが、目の前に提示されていることだった。

 けれどそれを取り返すために、自分は彼女を商品に仕立て上げなければならないのか。腕を捕らえられたまま、悪魔の少女を肩越しに振り返る。

 逃げ出す隙を窺うために今は従うべきだろうか? 石壁に備え付けられた鎖に繋がれた彼女を、アメリアの力で連れ出せるとは思えないけれど。

 ああ、でも。あんなに汚れていては酷く不快だろう。可哀想なことに、荷馬車の中では付けられていなかった犬用だろう網目状になった口枷まで付けられ、動物のような扱いを受けている。せめて綺麗にしてあげられればとも思う。

 考えが纏まらない。どうすべきか、普段は迷いなど殆ど生じないのに、今は分からない。

 何を言うかも決まっていないまま、口を開いた。

「……あんな、手拭い一つじゃ、綺麗になんて、無理です。拘束されてても、出来ません」

「残念ながら危険すぎて拘束は解けないな。とりあえずは目に見える肌と、髪と、荒れた羽根を整えるだけでいい」

「でも……」

「いいか、二度と言わせるな。俺は格別に優しいんだ。俺以外に口答えしてみろ、本当に大切な物は売り飛ばされるし、お前自身も薬漬けで犯されるくらいは覚悟することになるぞ。それでも尚聞かないのなら、何を手酷く痛めつけるか、分かるな?」

 冷ややかな瞳で見下ろしてきたバローは、その視線を分かりやすく、すい、とアメリア越しの悪魔に向けたので、アメリアは口を噤んだ。元よりやり込めるための言葉も対策も持たなかったが、例えあったとして、この場を上手く誤魔化すなど出来よう筈もなかったのだ。

 大人しくなったアメリアを、バローは再び牢に押し込んで、ひらひらと手を振って部屋を出て行ってしまった。不用心なことに牢の鉄扉も部屋のドアも開け放ったまま。

 彼は分かっているのだ。少女を傷付けられることを厭うアメリアが、これ以上表立って彼らに抵抗しないということを。そして捨て置いて逃げ出す選択肢を取らないということも。ならばどれだけ自由にしたところで不都合はないのだろう。一度怪我を負ってまで抵抗されているにしては、甘い対応にも思えるが。

「………」

 抵抗するのを諦めて、悪魔と対面する。

 ずっと視線を落としていた彼女は、アメリアが前に立つと、ギリリと音でもしそうなくらいに睨み上げてきた。フーフーと息を荒らげて威嚇をする彼女は声帯を鉄杭で留められているからだろう、唸り声さえ上げられないが、もし声が出るならば野犬のように怒りを唸りに込めていた筈だ。

 身動ぎし、こちらに来るなと主張する彼女の前に膝を付く。

 どのくらい身を綺麗にさせてもらっていないのか、近付いた少女は野生の獣のような臭いがする。こんなに不衛生では病気になってしまいそうだ。湯浴みして全身磨くくらいしなければ到底綺麗になるとは思えない汚れぶり。あの男たちならシャワー設備くらい用意していそうなものだが、それもこの牢に繋がれ、拘束されていては叶わない。


「痛い、ですよね」


 あまりに痛ましい喉を貫く杭に触れると、少女はびくりと身を震わせ、何とか身を捩ってアメリアの手から逃れた。何の躊躇いもなく触れてくる人間を、信じられないものを見るような瞳で見返す。

 せめて顔を綺麗に拭こうと、アメリアは逃げようと抵抗する彼女の首の後ろに手を回して、口枷のベルトを外した。

 よく見えるようになった顔は、本当に幼い。セファードと同じで、この外見が彼女の本当の年齢かどうか定かではないが、見た目は十一歳か十二歳くらいに見える。小振りな鼻、今はがさがさに荒れているがふくりとした小さな唇、手負いの獣が如くぎらつく大きな瞳の目元は造形としては丸く、ただ相貌だけを見るならお人形のような愛らしい少女。

 人を憎み、何もかもを恨むように歪む表情は全てを台無しにしているけれど、こんな扱いをされて人相の変わらぬ人間などいないだろう。アメリアは自分のことなど棚に上げて、そう思った。

 成長途上にある子どもの特徴そのままに、手足も身体つきも薄く幼く、ほっそりとした少女。だからこそ、そんな印象を根こそぎ覆すほど強烈な主張をする、悪魔を象るパーツたちが酷くアンバランスで、余計に目を引いていた。そして目を閉じてすら感じる、身体から滲む存在感も人々を圧倒し、彼女の素地など見ようともさせないのだ。

 例え悪魔であったとしても、少しでも彼女の貌を見る努力をしたならば、畏れも僅かに留まったかもしれない。


「………ッ!!」

 盥に浸かった手拭いを搾り、少女の顔を拭こうと手を伸ばす。しかし彼女は仰け反って避け、その際に喉を貫く杭に内部を引き千切られたのか、ブチブチッ、と肉の裂ける嫌な音が喉元から響いた。

「拭くだけ、です」

「ッ」

 宥めようとするも少女はアメリアを睨み付けて拒否を示した。そういえば言葉は通じているのか、考えが及んでもいなかった。

 アメリアは少し考え込んで、少女に問い掛ける。

「あの……例えば、手と脚の拘束が解けたとしたら、壁に繋がれた鎖を壊して、ここから逃げる力は持っていますか?」

 厭悪するように眇めた目で、悪魔はアメリアを見る。何の企みがあるのか、と疑っているようだった。反応を見るに、言葉は理解しているようだ。

「あ、でも、金具…」

 彼女の背側を覗き込むと、手足の拘束具は錠になっていて、鍵がなければ外せない仕様になっている。アメリアが解けるのは、両腕全体を巻いて固定している幾つもの革ベルトと、膝の開閉を完全に阻害している脚の付け根の革ベルトの二つきりだ。ベルトを解いたところで彼女の後ろ手に纏められた手首と、そこに繋がれた両足首の拘束は変わらず、大して可動域は広がりそうもない。

 でも、それなら尚のこと、外したって構わないですよね。

 そう思い至ったアメリアは、さっさと彼女に取り付けられた革ベルトを外していった。少しは不快さが減るかもしれないし、その分綺麗に拭けるところは増える。バローに問い質されたなら、言い訳くらいは出来そうだ。

 少女は抵抗を見せず、ただずっと澱んだ猜疑の瞳でアメリアの動きを追っていた。

 バローたちにとってもそうだが、彼女にとってもアメリアはおかしな娘なのだ。無表情で淡々としたアメリアに害意がないことは感じるが、あまりにも異端(あくま)を畏れないことが逆に何か企てているように見える。例えばバローと一芝居打って、自分を陥れようとしているのではないか――――猜疑心が強ければ、この程度は当然考える。アメリアにしてみれば思いも及ばない疑惑で、ここに至っては売り物に仕立てる云々すら忘れ、少女の露出した肌をせっせと丹念に拭いていた。少女の中で猜疑は深まっていくばかりだが、アメリアの奇特な言動が抵抗する気を失せさせただけだ。

 黙々と続け、一通り肌は拭き終わった。次いで少女の身長を超えていそうな驚異的な長さの髪の毛を拭こうと手を伸ばしかけたのだが、これ程汚れた髪が拭くだけでどうにかなるとは思えない。元は薄桃色だろう髪は、土埃や煤などで灰がかって、艶も何も無かった。

 湯浴みをさせてもらえないのなら、頭からバケツの水を被せて、石鹸で洗うくらいはしたい。少女が少しだけ綺麗になった様をつぶさに見たアメリアには、人生で初めて使命感のようなものが湧いていた。


 広間を覗くと、バローとゴルドはソファに腰掛け、大量の紙を見て交互に何か言い合っている。

 アメリアに気付いたゴルドが、かぱりと口を開いた。

「おい、バロー。自由にさせすぎじゃねぇか」

「何だ、お嬢さん。終わったのか? それとも手が付けられなくて音を上げたか?」

「おい。アレの所為で一人逃したんだろうが」

「落ち着けよゴルド。アレを脅したきゃ、悪魔を痛い目見させりゃいいんだ。どうもご執心のようだからな」

「バケツに水…出来ればお湯と、石鹸が欲しいです。髪の毛は拭いてもどうもなりません。香油もあったらもっと良いです」

 彼らの話を遮り、アメリアは最大限の希望を伝えた。言ってからやっと思い出したが、綺麗な商品にしたいと言う彼らのために、香油まで使って整えようとするのはやり過ぎだったかもしれない。

 しかしアメリアの要求には応えてくれず、バローは少し目を丸くした。

「まさか、そこまで大人しく綺麗にされてるのか? アレが? 正直無茶な要求をしたつもりだったんだが……」

 アメリアは首を傾げる。綺麗にしろと言ったのはバローなのに、変な話だ。それは例え抵抗にあってもやれという意味だと思っていた。幸いアメリアは抵抗に遭わず、頭をかち割られそうになることもなかったのだが。

「アレに何か言ったのか?」

「何か…?」

「例えば、貴女の味方です、とか? 莫迦正直で陳腐な、絆すようなことを」

 アメリアは首を振って否定する。少し声は掛けたが、大層なことを言った覚えはない。

 それに例えそんなことを言ったとしても、彼女は心を開かない。あの昏く澱んだ瞳を見れば、人心に疎いアメリアでも痛いほど分かることだった。


「まあ、いい。そこまでやってくれるというなら、喜んで用意しようじゃないか。ゴルド、こっちは任せた」

 バローは顎でアメリアについて来るように示して、ドアの一つに入っていった。狭い部屋だがそこには簡素なキッチンが備えられていて、キッチン向かいの棚には所狭しと沢山の瓶が詰められている。食品か薬品か判別はつかないが、まるで薬屋のようだ。

 クッキング・ストーブの戸を開けてマッチで火を入れ、水を入れたケトルを天板に置くバロー。

 例え逃げないだろうからといってどうしてここまで自分に自由を許すのか、アメリアは疑問に思いながら彼の様子を見ていた。例えば今ここで、アメリアが沸騰したケトルを奪って彼の顔にかけてやることも、勿論人を傷付けるのは本望でないとしても試みようと思えば出来るのだ。悪魔の少女を人質にされているからといって、逃げるための策を講じれるなら再び抵抗する胆力を持っている。

 アメリアを気に入ったらしい最初に遭遇した熊のような巨漢もそれなりに甘かったが――――そこまで考えて、アメリアはハッとする。彼の姿を見ない。一体どこに行ったのだろう。

 思わず胸のロザリオを強く握り締めた。

「あの、もう一人は何処に行ったのですか」

「あ? 赤毛の娘か?」

「あなたの仲間です」

「ああ、セルクルのことか。逃げる算段ね。抜け目がない、流石だじゃじゃ馬。残念ながらすぐに戻る」

 残念どころか、本当にそうならいいのだけれど。

 セルクルという名の男は一体どこまで離れたのだろう。例え数分の間といえど、彼はアメリアに接触したのだ。《カタストロフ》に襲われないか気掛かりで仕方ない。

 ユキトに貰ったロザリオは本当に効力を発揮して、アメリアの移り香を抑えてくれているのか、目に見えない力とは本当に厄介なものだ。

 大丈夫。きっと大丈夫なはずだ。例え移り香があったとして、あまりにも短期間で襲われるまでになってしまうのだとしたら、アメリアの周囲の人々はもっともっと沢山死んできたはずだ。自分に言い聞かせるように、己を傷付けながら、言い訳じみた念で胸を充満させる。

「ああ、噂をすれば、帰ってきたな」

 階上から、ガコン、と微かな音がして、バローは天井に視線をやった。アメリアは内心安堵の息を漏らす。悪人だったら死んでいいなどとは、とてもじゃないが思えない。

 だが、その安堵はすぐに掻き消えた。


「何だ、お前ら!!」


 広間から、厳しく誰何すいかするも狼狽を含んだ男の声が響いた。

 遽に変わった空気にアメリアが広間を窺おうとすると、バローに手で制された。彼がドアの陰に身を潜め騒動を確認する後ろから、アメリアも同じように広間を見る。

 そこには帯剣している一人の男と、セルクルとゴルドに抜身の剣を突きつけ威圧する二人の男がいた。


 そして三人に続き、ゆったりと広間に入室してくる黒髪の男が一人。


 彼の出で立ちは黒のフロックコートとパンツに銀の細やかな刺繍の施されたアスコット・タイを巻いた白のシャツ、革靴、そしてシルクハットにステッキと、一般的な市民装を少し飾った程度の他の男たちと較べて、一等に上質な身なりをした紳士だった。

 男は入ってくるなり、ハットを脱ぎ、机に広げられた羊皮紙を手に取って笑った。


「成る程。流石は我が国が誇るリヴィエール商会。その名に相応しく、上流から下流まで、手広くやっていらっしゃるようだ」


「お、あ………!?」

 セルクルが言葉を成していない驚きの声を上げる。

 五人が向かい合っている間にも、一人手の空いた男が室内を検分して回っていて、隠れていたバローとアメリアは広間へと引き摺り出されてしまった。


 また何かややこしい事に巻き込まれている――――アメリアはすぐに悟った。こんなに目まぐるしい日々を送ったことはない。

 これが助けに繋がるなら有難いことだが、自分を助ける何かが教団以外の他人から齎されるとは全く期待していなかった。


 少女が引っ張り出されてきた事が意外だったのか、押し入ってきた男たちはアメリアを怪訝そうに見た。自由にしている様はとても商品には見えないだろう。

 だが黒髪の男だけは、アメリアの頭から爪先までを一度眺めて、何かを納得したように笑みを深くした。

「闇商売は余程金回りがいいんだろうな、セルクル殿。いや、エルネスト・ダヤン殿?」

「…………まさか、殿下御自ら摘発にいらっしゃるとは、思いもしませんでしたよ」

 殿下と呼ばれた男は、フフ、と小さく笑った。



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