2.Ⅰ-2
《神呑者》――――――――。
アメリアの瞳に映る目の前の少女が、途端にセファードと重なった。
悪魔だ。絵本で見たことのある悪魔そっくりの恐ろしい姿。どう見ても人間じゃない。セファードのように神々しく美しい天使でもない。
けれど、知っている。彼女は、《原初の神》の力に愛されてしまった、元人間なのだと。
姿形からはとても信じられないけれど、セファードと同じ存在であるのだと。
――――セフの言葉を借りるなら、彼は少し、得をしているんですよ。
そんな分かりたくもない皮肉が、嫌というほど分かる。
恐らく多くの人間に恐怖を与えるであろう彼女の姿は、教団で厭われていると聞かされてしまえば、納得してしまう。出来てしまう。セファードを厭うというジュリアンや他の人間に非難がましい気持ちを抱いたというのに。
アメリアでさえ感じる畏れは、最早本能的なものだ。人間が生命の一個体として恐れなければいけないと感じる、圧倒的強者の存在感。自然界の頂点に君臨する者。じくじくと皮膚から感じる、内包していると知らしめる強大なパワーも、ただ一目の外見すら。
セファードにも勿論ある君臨者のオーラは、しかしその種類を根本から異にしている。それは外見の齎す印象に因るものなのか、それとも存在そのものの違いに因るものなのか。
だが、アメリアが今何より気になるのは、そんな些末なことではないのだ。
あまりにも惨い、彼女のその格好。
巨大な両翼は開くことが出来ないよう、左右ぴったりと合わせて腱を何本もの鉄杭で留められているし、折り曲げた脚を動かせないよう足の付け根に巻かれた皮ベルトと両足首の足枷が繋がれている。両腕は背中で真っ直ぐにされ、全体を皮ベルトで固定され、手首が更に足枷と繋がれている。これでは幾ら人より抜きん出た底力があっても、到底身動きなど取れないだろう。
そして極め付けに、声を出せないようにだろう、喉の左右を鉄杭が痛々しく貫いている。
彼女は見詰めるアメリアと目が合うと、憎々しげに睨み付け、牙を剥き出して怒りを露わにした。
「さて、これだけの品、誰に売るか相当吟味しなけりゃなぁ。地方か、中央か…金回りがいいのは中央だが」
「国外のサーカスはどうだ? 悦んで大金出すぞ」
「あのゲートか。しばらくは頻繁に使う予定だし、いいかもしれねぇな。そうだ、国内ならファリブルなんかいいかもな。あそこは親子揃って闇市に行くような珍品好きだったろ?」
「オークションに出品して値を釣り上げるって手も――――」
三人の男は銘々に意見を述べながら荷台を出て行った。
少しとしないうちに車体が揺れ、馬車が出発したことを知らせる。
「何をしてるんです…!」
出て行く前、少女の檻を外から窺えないよう暗幕を掛けていったのだが、アメリアはそれを捲った。グレースが非難の声を上げるが構わず、少女の姿が見えるだけ腕を上げた。
ギョロリ、と睨む目と視線がかち合う。
姿は悪魔だ。けれどそれを除けば、あまりにもみすぼらしく薄汚れた、ただの少女だ。
多くの経験をして生きてきたアメリアだって――――本人に自覚のない事実だが――――ここまでの扱いをされたことはない。こうなってはアメリアには凶悪にさえ見えなかった。
何より、セファードと同じ存在。
彼女も売られるのか、どこの誰とも知らない人間に。その人は彼女を大事にコレクションする人だろうか? 何不自由なく大事にしてくれるのなら、それもいいかもしれない。世話人には畏れられるとしても凪いだ日々がある。あの鳥籠は幸せな世界だ。人を傷付けず、人に傷付けられず。アメリアはもう戻りたいとは思わないけれど、こんな扱いをされている彼女にとってはいいことかもしれない。
それとも虐げ玩具にする人? 甚振る人なら、駄目だ。彼女もセファードと同じように、酷く傷付けても死なないのだとすれば、目も当てられない仕打ちを受けることになるかもしれない。いや、これまで既に受けてきたのかも。
「私、この人も逃したい」
そう呟けば、グレースが驚いたように目を見開いた。
「何言ってるの、無理よ。私たちだけでも無理なのに、そんな大きな檻を抱えて逃げるなんて無理だわ」
「檻の鍵……誰が持ってるんでしょうか」
「貴女、無理ばかりです…! ナイフを奪うことだって出来やしないのに、欲張りすぎよ! 今は他人なんて気遣わなくていいの、貴女だけが逃げることを考えなさい…!」
否定ばかりするグレースを、アメリアはじっと見詰めた。
「人を護るのが、ミラリュキアの使命ではないのですか?」
「それは……そうですけれど…、…私たちは救いの賢者――――我らが父、ミラではないのです。救えるものには限りがある。取捨選択をしなくては、他のものだって取り零してしまいます」
「ユキトなら、きっとそうは言わない」
「ユキト神父はそれだけの力をお持ちなの。己が力量を超えたことを望めば身を滅ぼすだけです」
納得できない。身を挺して、死にそうな傷まで負ってアメリアを助けてくれたあの人が、領分の外にあるものを救わないと選ぶのだろうか。アメリアはユキトについて殆ど知らないが、きっとあの人は救うことを選ぶ筈だと思うのだ。
「……あ…」
唐突に、気が付いた。
「私たち、声が出せます」
「あ……っ」
会話をしている。アメリアがパンを食べると言ったからなのか、それとも珍品に興奮した故忘れられたのか、猿轡をされていないのだ。ランタンも点きっぱなしなのを考えると、後者に違いない。
グレースもその事実に気付き、口許に手を当てた。
「誰かが声を聞きつけてくれれば、助けていただけるかもしれない…! ああ、でもいつ声を出せば……」
「手立てができたのは良いことです。とても賭けになりますが」
「機会を待つしかないですね……。主よ、どうか我等に救いを」
縛られた手首のまま胸に手を当て、次に指を組んだ両手を額に当て、グレースは熱心に祈りを捧げた。ジャン=ジャックもしていたそれは、きっと教団の祈りの形だ。
祈れば神様は、教団で言うところのミラ様は救ってくれるのだろうか。“現人神”とか“救いの賢者”とか、何故様々な呼び方をされているのかはまだ教えてもらっていないけれど、きっととても偉い人に違いない。ならばアメリアの所為で不幸を余儀なくされた人々を救ってほしかったし、《神呑者》になってしまう人を護ってくれたっていいのにと思うのは贅沢だろうか。信仰を捧げない人間がそんなことを思うのは高望みしすぎなのか、逢ったこともない人間を護れと言われてもミラ様も困るのかもしれない。
世界の全てを護ってくれる神が存在するのなら、不幸になる人はひとりだっていなくなるのに。
アメリアは既に暗幕を下ろしてしまった檻を眺める。
泥濘のように澱みを孕んだ彼女の瞳は、きっと神どころか人も世界も憎んでいるだろう。救うなどと大それた言葉は口に出来ないけれど、惨い扱いから助けたいと願うのは身の程知らずではないと思いたい。
しかし、そんなアメリアをグレースは見咎めた。
「貴女、勘違いしているようだから言っておきます。《神呑者》は危険な存在なの。それは異端審問官の領分であって、聖者が相手にできるものじゃありません。セファード様と同じように考えないで」
厭うような色を含むも責める語調ではなく、冷静に諭す声。
「危険…?」
「精神が変質している者も多いのです。元型『悪魔』は特に、そう。トップクラスに危険なのです。故に物語の中で化け物として描かれたりするの。だから、その方は諦めることです」
「でも……」
「やめて。この話はうんざりなの。貴女を助けることには尽力します。けれど私にはそれだけで精一杯です。どうか分かって」
とうとう煩わしいと言わんばかりの顔になって、グレースは顔を背けてしまった。
それ以降は会話もなく、彼女は馬車の外の様子を窺うことに注力している。色々と知りたい知識があるとはいえ、今は逃げることに集中した方がいいのは確かで、アメリアはこれ以上深追いするのを諦めた。
大人しく、与えられたパンと水を口にすると、自覚していなかっただけで大分喉が渇いていたのが満たされるのを感じた。
その後、体調は何の変化もきたさなかったので、眼鏡の男の言葉通りおかしな物は何も混入されていないようだった。
✳︎
朝日が、荷台の外を照らしていると察せる時間。
ランタンがなければ真っ暗闇だった箱の中も光を取り入れていた。それも細やかなものだが、ランタンを消しても周囲のシルエットは掴めるくらいには陰影がある。
悪魔が運び込まれて数時間、結局何の機会も訪れなかった。
真夜中だというのに移動を続ける馬車は、それこそ寝静まっているだろう人々の往来とかち合うことなどなく、舗装もされていない道をひた走っていた。
朝になって一度停まると、眠たげな目をした眼鏡の男が荷台に現れて、二人の顔を見るとにやりと笑い、
「何だ、偉いじゃないかお嬢さん。可愛いお口がガラ空きだったのに、誰にも助けを求めなかったのか」
、と己の失態を反省もせず揶揄した。
用足しの休憩にしたらしい男たちは、お優しいことに少女二人も限界がきているのではないかと気を遣ってくださったのだ。荷台を汚されては堪らないにしては、随分と放っておいたものだが。
品ある淑女らしくグレースは怒りと羞恥にカッと頬を赤らめ、「結構です!」と強く拒否したが、腰に縄を結ばれ林の草むらに放り出されていた。アメリアは大人しく言うことを聞いて外へ出、草を掻き分けて男たちの目の届かないところで逃げ出す方策はないかと手を探したが、固く結ばれた縄を解くことも出来ず結局何もできなかった。
ただその際初めて明るい陽の下で、濃藍からアメジストにグラデーションするアメリアの不思議な宵闇色の瞳を目にした男たちは、商人として見たことも聞いたこともない稀代の宝石持ちに、相当値打ちが上がったと喜色満面だった。
こうなってはアメリアの戯言である“呪い”とやらも信じてみてもいいかもしれない、検証してみたい、などと興味本位で言い出したので、原理については断固として説明しなかった。そして、死にたくなければ教団に共に来るように、とも。当然彼らは一笑に付して、聞き入れることはなかったのだが。
それから昼に一度、眼鏡の男が食餌を持って入ってきて、そして夕暮れ時の今、もう一度彼が入ってきたのだ。
頑なに食餌を摂らないグレースと違い、疑いを持ったにも関わらず人攫いの言葉を信じ無用心にも口に入れるアメリアに、彼はどうやら興味を持ったらしい。愚直に見えるが莫迦にも見えず、気が狂っているようには見えないが呪いなどと口にする紙一重の様子のおかしな娘。
商品を見極めるのも彼の仕事なのかもしれない。
「なあ、呪いとやらの説明をしないのは、悪用されるとでも思ってるからか?」
木箱に腰掛け脚を組み、膝の上に肘を付いて頬杖をつく。彼が荷台に乗るまま馬車が走るでもなく、時間に余裕のあるらしい態度。
彼が愉快そうに首を傾げると、後頭部で一つに括った鳶色の長い髪がふさりと揺れる。アメリアは問い掛けにひとつ頷いた。
「お前の傍に居ると死ぬんだろ? その説明を拒むってことは、何かしらの条件なりがあるのは筒抜けもいいところだ。それでも説明しないのか? それでも俺たちは死ぬと?」
「……いずれ」
「ならお前、これまで誰を殺してきた?」
「……!」
殺してきた。
惨い事実を直球で投げ込まれ、アメリアの胸が握り潰されるように痛む。知らされてから日が浅過ぎる真実は、充分すぎるほど理解しているとはいえ、未だ受け止め切れていないのだ。
無表情ながら息を詰めたアメリアの反応は想定外だったらしい、男は眉を上げた。
「何だ、心が無いと思ったらそうでもないらしい。呪いを厭うているのは分かったが、人攫いさえ気遣うのは気が知れんなぁ。俺たちが死のうとお嬢さんは構わんだろ」
「おとうさんもおかあさんも、村の人も、おじさんもおばさんもいとこの子も、おともだちも、孤児院のお母さんも、お爺さんも、ご主人様も、奥様も、みんなみんな死にました。沢山死にました。もう誰も死んでは嫌です。誰でも、駄目です。二度と、嫌」
抑揚のない言葉。けれど噛み締めるように紡がれた言葉。一番驚いていたのは隅で膝を抱えて座るグレースだった。彼女はアメリアと男の方を見ようともしていなかったが、驚愕の表情でアメリアを凝視した。男も目を瞠った後、にや、と片頬を上げて笑んだ。
「物好きには相当な値打ち物だな。お前が傷付こうが、こちらには関係ないことなんだ、お嬢さん」
今度こそ傷付いたように僅かに目を眇めるアメリア。人を脅かす値打ちなど何になるというのか。
“悪魔”というあからさまに目に見える珍品と、目に見えない“呪われた娘”という珍品と。どちらを求める人間も気が知れない。それを売ろうというのもまともじゃない。
「人を殺す呪いねぇ。お前のところのカミサマは救ってもくれないのか。何とも無慈悲なもんだ」
「皆を護ってくれなかったのはこの国の神様です。本当にいるのなら、救ってくれてもよかったと思います」
「おっ、王家に喧嘩を売ろうとは尖っていていいね。まあ仕方ない、アレは碌なもんじゃないからな。人どころか、自分らを救いやしないのさ。いや、神と呼ばれるモノは、総じて碌なもんじゃねぇかもな」
男はつまらなそうに鼻息を溢し、どこか遠くを見ているように虚空を眺めた。次いで視線を暗幕に覆われた檻に滑らせる。
「しっかしまあ、悪魔なんてものが存在するなんてな。人の妄想の産物と思ってたが、まさか生きてお目に掛かるとは。これも神の思し召しってか?」
「………」
悪魔ではない、と否定したかったけれど、起源を説明することになっては堪らないので口を噤んだ。恐らく一般の信徒さえ知らないそれを、他人に話していいとは思えなかった。
物言いたげなアメリアを見て、男は冷えた笑みを浮かべる。
「アレがどんな風に売られるか気になるか? 悪魔と呪われた娘のセット売りも、中々パンチが効いていいかもしれないな。さて、地獄でも作るつもりか、人を恐怖で支配し覇権を握るつもりか、それとも人に在らざるを愛玩して味わうか、これは愉快だ」
「………趣味が悪い」
グレースが嫌悪感たっぷりにぼそりと呟いた。そもそも彼らに対して何か言うつもりなどなかったのに、醜悪な想像に思わず口をついて出てしまったそれを、男は耳聡く拾い上げてグレースへと顔を向けた。
「他人事じゃないぜ、お上品なお嬢さん? 貴族出ってだけで、欲しがる人間は多いもんだ」
「……何で…」
「お前の立ち居振る舞いは市井で育った娘の身に付けるものじゃない。厳格なアルカディアに属してようとな。どこのご令嬢だか知らんが、この国出身でもないだろうし、尚のこと売りやすくて有難いね」
「………っ……」
男の眼鏡の奥の、見透かすような瞳に射抜かれる。グレースは震えた自らの肩と顔を自由の効かない両手で隠し、視線から逃れるように顔を背けた。
その態度に満足そうに笑みを深める眼鏡の男。
それにしても、随分とゆっくり会話を愉しむものだ。商品たちに恐怖を与えて歯向かう気力を削ごうとするだけにしては態度が甘いし、荷台の周囲で他の男たちが何かをしている気配もない。
まさかとは思うが小娘を掌で転がして暇を潰しているのか、と莫迦げた疑念がアメリアの中で頭を擡げる。
「私たちに何の用があるのですか? 他の人たちはどこへ行ったのですか」
「お前はもう少し自分の立場を理解するべきだな。答える答えないに関わらず、口を慎む方が身のためだとは思わないか? 俺が頭の切れたおかしなヤツなら殺さなくとも手酷い仕打ちをしているところだ。人を従順にする術っていうのは色々とあるもんだぜ、お嬢さん」
「それなら最初のように口を塞げばいいのではないでしょうか」
「なるほど、自分から努める気持ちはないと。こりゃあ随分と調教し甲斐がありそうだ」
そうは言うが、口を塞ぐ様子もなく手を出す様子もない。組んだ足の重ねた方をプラプラと揺らして、嗜虐性を彷彿とさせる細めた瞳で微笑むだけだ。
「暇なのですか?」
「どうも口が減らないねぇ」
多分、暇だ。
「暇なら、鼠を外に追い払ってほしいです。パンを齧られました。食い出がなくなります」
「は? 鼠? 何処にいる、そんなもん」
アメリアの頼みに怪訝そうに顔を歪めた男は、頬杖の姿勢から若干起き上がる。
「何処って、知りません。こんなに荷物が積まれていては隅々まで見えません。昼過ぎにはあちらの箱の陰に隠れるのを見ましたが」
「何だよ…商品を齧られちゃ管理不足もいいところだ…ったく、いつの間に紛れ込んだ?」
男は至極面倒臭そうに腰を上げ、溜息を吐いた。そしてアメリアが指差した方へランタンを翳して、隅を窺っている。
だから、アメリアは渾身の力で、その背中に体当たりした。
「!?」
足首はきつく縛られ思い切り踏ん張ることが出来ないため、膝を立てて立ち上がる勢いを利用し、立ち上がるというよりは頭から激突するように飛び出した。
ガツッ!!
予想だにしていなかったまさかの襲撃に、前に倒れ込んだ男は所狭しと積み上げられた木箱の角に、痛々しい音を立てて顎を打ち付けた。眼鏡が軽い金属音を鳴らして何処かへ吹き飛ぶ。
アメリアはすかさず男の腰の上に両膝を乗せ、そこに全体重を掛けて乗り、衝撃にすぐさま身動きの取れない男の喉に繋がれた両手首の縄を引っ掛け、思い切り引っ張り上げて背骨がギシリと鳴るほど弓形に反らせてやった。
セファードはアメリアを非力でちっぽけな娘などと言うが、決して力が無いわけではない。
むしろ力と体力がなければ生活できない環境にいたことの方が多い。水道のないところでは井戸から水を汲むだけで非力ではいられなかったし、小間使いとして家事全般をするのもそう。他にも体力が必要なことは多くあった。そうした生活をするうちに、自然と身体を駆使する力は身についていた。
背丈だってグレースよりは低くとも、小柄に分類されはしないのだ。
押さえつけている体重こそ大の男には何の障害にもならないだろうが、どこをどうすれば痛いか、苦しいか、アメリアはよく知っている。人を従順にする術が沢山あることなど、言われずとも知っている。
きっとセファードは勘違いをしているのだ。護ってやらなければ死んでしまう、ひ弱な雛鳥と。
「ぐぅ………っ」
喉を縄で圧迫され背骨を軋ませられ、男は呻き声を上げる。
男はアメリアの出来損ないの駱駝固めを後ろ手で引き摺り下ろそうと藻掻くが痛めつけられながらでは力が上手く働かず、首を絞める手を引き剥がそうとするも手首を結ばれているのが災いして外すことが出来ない。
アメリアは腕や手を痛いほど掴まれ爪を立てられようが力を緩めはしなかった。
「グレース! ナイフを! 右後ろの腰です!」
「え……っ、は、はい…!」
事の成り行きを呆気にとられて見ているしか出来なかったグレースはアメリアの常にはないピシリとした声量に我に帰ると、縛られた手足で必死に身を捩りながら傍に寄り、男の腰のベルトから小刀を奪い取った。すぐにそこから身体を逃がそうとしたが、アメリア一人で男を抑え込むには限界があると気付いたようで、男の投げ出された足首の上に座り身動きを更に封じた上で足の縄を切ることに専念した。
「檻の鍵は何処ですか」
「い゛……ッ!」
アメリアは更に腕に力を込めて男の喉を締め上げながら問う。
顔を紅潮させ苦しげに歪めている状況にも関わらず、男はにやりと酷薄な笑みを貼り付けた。
「残念、だったな、おれは、持って、ない」
くぐもった、聞き取れるかどうかの声音で途切れ途切れに言う。
「本当ですか」
「さ、ぁな」
嘘か本当か、アメリアには判断できない。他人を弄ぶような言動の男だが、その割に忠告をしたりアメリアの嘘を信じたり、性根の腐り切った人間でないのは分かるのだ。しかしそれが嘘を吐かないという証左にはならない。何よりこの男は人攫いの一員なのだから、嘘を吐かないわけがないと思うべきか。
どうにかアメリアを引き剥がそうとする男を、いつまで抑え付けていられるかも定かではない。
服を探り鍵の有無を確認するのも、考えるのも、猶予がなかった。
グレースが何とか足の縄を切り自由に動かせるようになったのを確認すると、アメリアは言う。
「逃げてください。外に人の気配のない今しか逃げられません」
「何を言っているんです! 貴女は!?」
「私はあの人を置いていけません。それから、この人たちを“呪い”で死なせることも駄目です。だからここに居ます」
視線で、悪魔の納まる檻を示す。
「尚更離れた方が賢明でしょう!?」
「違います。駄目なんです。この人たちをユキトに引き会わせたいんです。お願いします」
話の最中も尚、男は抵抗を続ける。片手で己の身体を支えて、痛む身体を僅かに捻ってアメリアのワンピースを掴む。
その様子にグレースは一層浮き腰になる。動揺から周囲をサッと見回して、結局何もできない自分に歯噛みすると、追従の返事をした。感知できないアメリアの聖者としての力と人を殺す呪いに因果関係があることも、アメリアの思惑通り察してくれたかもしれない。
「必ず連れてきますからこれ以上無茶をしちゃ駄目よ!!」
言って、彼女は手首が未だ不自由なまま、その手にナイフを握りしめて荷台を飛び出して行った。
アメリアは出来る限り時間を稼ぐ腹積りでいたが、少しの気の緩みからの隙を突かれ、身体を引き摺り下ろされてしまった。首にかかった手ごと床板に倒れ込んだので、男も首を引っ張られ同じように倒れ込んだ。
激しく噎せ返る男はアメリアの手から逃れると、そのまま腕を引っ張り上げ、乱暴にアメリアを横薙ぎに振り飛ばした。
「っ!!」
狭い庫内では勢いを殺す間もなく荷物に頭を強かに打ち付けて、声も出なかった。
「あ――――――――――――っ、いっっ……てぇ……」
男は打った顎を摩り、容赦なく痛手を負わされた首と背骨を労るように背中を丸める。
ああ、この様子なら足留め出来なくともグレースは逃げられるだろう、頭を打った衝撃で視界の霞む中、アメリアは転がったまま見上げる。打ち所が悪かったらしく視界が徐々に狭くなってきて、起き上がることも出来なかった。
男はそんなアメリアの頭の横に立つと黒緋色の髪を鷲掴みして、グイ、と無理矢理引っ張り上げ、顔を覗きこんだ。目が霞んではっきりとは見えないが、これまでになく無表情だ。
「こんなことをしてどんな目に遭うか分からない莫迦なのか、それとも覚悟の上なのか……お前は後者だな。それを厭わない神経、嫌いじゃないが憐れだ、自己犠牲などと」
ごとり。手を放されると、アメリアの頭は無抵抗で床へと転がる。
「あんな子ども騙しの嘘に騙されるとは…面目丸潰れだ」
最後に男が吐き出した言葉はアメリアの耳には届いていたけれど、混濁し薄れていく意識の泥に溶けて、意味を成すこともなく消えていった。