2.悪魔が戴くは神の宝冠 Ⅰ
ガタゴトと揺れる不快な感覚に、アメリアは閉じていた瞼を徐に持ち上げた。
身体が思うように動かせない。今一体何をしていただろう、と一瞬考え、ああそうでした、とすぐに思い至る。
考えごとをしているうちに眠ってしまったらしい。我がことながら図太いと思うが、これしき――――人攫いに遭うことくらいは、アメリアの生きてきた人生とそう違いはなかったのだ。
だが今、たったひとつ、しかし比較にならないほどひとつ、これまでと違うことがある。帰る場所があるということ。帰ることを赦されている場所。アメリアを包んでくれた人たちが居る場所。
だから、頭を働かせなくては。
今までは流されるように生きてきたから、きっとこの状態から抜け出そうなどとは思わなかった。攫われた先、そのどこかで与えられた暮らしを享受して生きていたに違いない。
だが、今は違う。帰りたいのだ。何より、アメリアがあの人たちの元に帰りたい。
帰って、誰かの命を護って、誰かに報いて、そうやって生きたいと願ったのだ。
そのためには何としても、教団の、セファードとユキトの元に帰らなければ、全てが瓦解してしまう。再び呪いを振り撒くだけの存在になってしまう。そうなれば選ぶ道は一つしかないのだから。
アメリアは身体を揺らす板張りの床から、むくりと上半身を起こした。身体のあちこちが、ギシ、と痛む。板の上に寝ていたというのもあるが、手足を縛られているために硬直しているようだ。
今は一体何時だろう。グレースに駅を連れ出されてから、どれくらいの時間が過ぎたのか分からない。
周囲は暗闇ではっきりと物は捉えられないが、真っ暗ではないことから完全に陽が落ちている時間ではないように思う。だが、本来ならとっくに王都に到着していた時間には違いない。あの駅から残り一時間で王都に着く予定だったのだから。であれば、それ以上の時間揺られた馬車で、どこに連れられているのだろう。
沢山の荷の積まれた箱の中。木箱、樽、その他にも色々なシルエットが、この中に放り込まれた時と同じく見える。
その箱の隅では、身体を縮こまらせて座る少女の姿があった。寝ているのか、アメリアが身を起こしても、ピクリとも動かない。
随分と汚してしまったワンピースの腰の部分を触ると、無骨な感触。大丈夫だ、ちゃんとある。
ユキトに貰った銃。
人攫いに取り上げられそうになったが、弾を抜いても構わないから銃だけは返してほしいと懇願――――他人から見れば必死な様子には見えなかったけれど――――すれば、森でアメリアを見つけた男はすんなりと返してくれた。呪いのことといい、銃のことといい、おかしな発言をする変わり者が甚くお気に召したらしい。その上大声を出すでもなく、暴れるでもない、変な娘。好事家の貴族なりが悦びそうだと、男は下卑た笑みを浮かべていた。
人攫いであるが、彼らは商人という身分らしい。情報収集に事欠かないのか、アメリアとグレースの身に付けるロザリオだけで彼らは二人がミラリュキアの人間であることも理解していた。その上、信仰心を尊重してやればそれなりに御し易くなるだろうと、ロザリオを取り上げずにいた。この国でどれ程の人間が宗教を識るのかは分からないが、相当目端が効きそうなのは確かだ。
今考えなくてはいけないのは何でしょう。
彼らが商人だというのなら、売られるために攫われたのは間違いない。逃げ出すためには、確かな機会を窺わなければ。それはいつ? 売られる前か、売られるその時か、売られてからか。アメリアの確認できた男たちの人数は最低でも三人。姿を見たのが二人と、もう一人は声だけ聞いた。姿を確認した男二人はそれはそれは屈強そうで、小娘二人で抵抗してもびくともしないだろう。三人が揃っている時に逃げ出そうなんて無謀が過ぎるし、例え抵抗するにしても、まず拘束を解くことも必要だ。指で解くのは無理があるから、刃物を手に入れなくてはいけない。
考えるだに、途方もないことだった。
別の角度から考えようと現在地を推測してみようにも、アメリアには地理がない。攫われたのは確かロッドジェリという工業都市の外縁部にある駅の、反対側に聳える森の中だった。男の話によれば、あの森では人がよく消えるため立ち入りを禁じられているという。果たしてそれは彼らの仕業であるのか、それとも。
ともあれ、この国は天然資源、中でも鉱物資源が豊富で、蒸気機関車もロッドジェリで生産されているもので、国の主な産業であることから、他国よりも工業技術が発展している。貨物車としても運用している汽車に王都へ届ける生産品を積み、併せて機関車の補給をしている最中に、不覚にもアメリアはグレースに連れ出されてしまったのだ。
体感では半日以上が過ぎていると思う。ロッドジェリに居たのは朝八時頃。外が明るいなら、丸一日経っていることも考えられた。
その時間、馬車で移動する場所。やはり考えても元の知識がなければ無理だ。無知が悔やまれることになろうとは過去に考えもしなかった。普通の教育を受けている子どもであればこの程度のことは知っているのだろうか、それを羨む心はないけれど、今に限っては少しの足掛かりも惜しい。
不意に揺れが止まる。馬車が停車したようだ。
外で男が何事か話しているが、耳を済ませても内容までは分からない。攫った人間を載せるくらいだ、防音には優れているのだろう。
暫くして、ガタガタと鳴った荷台の戸が開いて一人の男が姿を現した。眼鏡を掛けた、如何にも知的そうな男。屈強な二人の男に較べ上背もそれ程なく、体格も随分と細身だ。
外は真っ暗だ。陽の光だと思っていたのは、街の灯りだったらしい。ここは路地の裏で、生活の灯りや街灯すら見えないところだった。遠くの街灯や仄かな月明かりで、それとなく周囲は窺えた。
ギシ、と床板を鳴らし、男が荷台へと踏み込んで来る。
荷台の一番奥で隠れるように身を寄せていたグレースは、その音にビクリと肩を震わせた。眠っていたわけではないらしい。
「っ……」
男はアメリアの前に屈み込み、有無も言わさず床に俯せに押し付けた。膝で背中を圧迫され息が苦しくなっていると、遽に手首の拘束がきつくなったと思った瞬間、バラ、と縄が切れ腕を解放された。
何をされているのか理解する前に、今度は強引に腕を引っ張り上げられ身体を起こさせられた次には、身体の前で両手首を拘束された。
訝しむアメリアの首に、眼鏡の男は酷薄な笑みを浮かべて小刀を突きつける。
「生命を失ってもいいと思うなら、好きなだけ大声を出せ」
そして猿轡を外される。
「食え」
膝の上にパンを一つ放られ、膝の横にはカップに入った、おそらく水だ。
ああ、成る程。アメリアはすぐに納得がいく。用途は分からないが、商品として売る娘を、やつれた状態にしては価値が下がるということだ。男達はグレースの纏う気品や、アメリアの洗練された容姿を気に入っていた。特にお気に召したのは二人の毛艶で、“育ちが良くないとこうはならない”と会話しているのを聞いた。それを損わせたくないのだろう。
「…………!!」
眼鏡の男がグレースに近づくと彼女は喉を痙攣らせて息を呑み、それ以上何処へ退がろうというのか、隅の隅へ身体を押し込む。そんな見るも憐れな少女の眼前に、数センチで涙の溢れる眼球を貫く距離に、冷酷にナイフを突き付けた。
「抵抗するか? それとも、喚くか?」
「っ、………っ!」
グレースはナイフから目を逸らせぬまま、小刻みにかぶりを振る。大きく顔を動かせば、その切っ先が顔を斬り付けると恐怖しているのだ。
大人しく脱力したグレースの後ろ手の拘束も解き、正面で結び直し、猿轡を外した。彼女にも食餌を与え、荷台の中にあった小さなランタンに灯りを点け、男はさっさと出て行ってしまった。
戸の鍵か管ぬきを閉めているのか、再びガタガタと小さな音がしてからは、しん、と何の音もしなくなった。
隅々に影を作るぼんやりとした頼りない光の中、アメリアは膝の上のパンを見下ろす。
食欲はない。男たちの目論見通り食べてやるのも癪なことだ。けれど、今後動くことを考えたら? その時エネルギー不足で満足に動けなくては、元も子もないのだ。
アメリアは、数日の空腹による力の抜けた感覚を知っている。力の湧きようのない、底の底。アメリアを玩具にしていた奥様は、時折癇癪でご飯を与えてくれなかった。その後にはご機嫌に沢山食べさせてくれたので命に関わることはなかったが。
ともかく今、あの状態に陥ってはいけない。体力的にも、知力的にも。ただでさえ役に立たないアメリアの思考力を奪われては、機会の訪れようもないのだから。
「食べてはいけません!」
アメリアがパンを口に運ぼうとすると、それに気付いたグレースが必死の形相で大声を出した。
彼女は自分のしたことにハッとすると口許を手で覆い、怯えた瞳で荷台の扉を注視する。暫くしても男が現れる様子がないことを確認すると、少しだけ安堵したように息を吐いた。
そして今度は潜めた声でアメリアに訴える。
「何が入っているか、分からないのですよ…!?」
「入っている…?」
ただのパンと水を見て首を傾ぐアメリアに、グレースは顔をくしゃりと歪めた。
「私たちを廃人にする薬や、何か悍しい薬です。あのような男たちに出されたものを、不用意に口にしてはなりません!」
「廃人とは何ですか」
「まともな精神活動ができないような状態にされる、ということです…! 正常な思考を奪われて、良いようにされたらどうするのですか……!」
必死の様子の彼女は、どうやらアメリアの身を案じて忠告してくれたらしい。そんな可能性のかの字も思いつかなかったアメリアは素直に驚くしかなかった。
商品にそんなことをするだろうか。知らないだけで、壊れた玩具の方がいいという好き者が世の中にはいるのかもしれない。グレースの言うように多くの可能性を考えて用心するに越したことはないのだろう。
「分かりました」
頷き、パンを傍の木箱の上に置く。
しかしどうしたことか、忠告したはずのグレースの方がアメリアの対応に眉を顰めた。
「…貴女、どうして私の言葉をそんな簡単に受け入れるのです。私が貴女に何をしたのか、お忘れになったの?」
「森に置き去りにすることと、忠告をすることは、別のことです。それともまた嘘を吐いているのですか?」
「吐いておりません! でも、わた…私は、野垂れ死ねばいいとまで、言ったのよ。貴女を餓死させようとしているとは考えないのですか」
「……? 分かりません。少し食べなくても人は餓死しないし、あなたが逃げ出すための手駒を自ら減らすような愚かな人には見えません」
「愚かにも、貴女を森に置き去りにした女よ」
「今はそのことに拘っている時ではないと思います」
「拘っている時よ…!!」
何を言っても淡々として響かないアメリアに、グレースは堪らず声を上げた。
「私があんなことをしなければ、今こんなことにはなっていないの…! 貴女だって攫われずに済んだのですよ! 全部私の所為…!!」
「声が大きいです」
冷静さを欠くことのないアメリアの声。自責と後悔に苛まれるグレースは、ひぐっ、と喉を鳴らし、鼻を啜る。
少なくともアメリアの身を案じる彼女は攫われたという副産物ではなく、森に連れ出して捨て置こうとした愚行自体を後悔しているようだ。
いや、こうして彼女自身が危険に晒されなくては、そんな考えが浮かんでいたかどうか、あの時の彼女の剣幕を思えば今となっては分かりやしないが。確かに彼女が今怖い思いをしているのは彼女が原因に他ならないのだから、良心がどうあれ自分を責める他ないだろう。
だがそんなもの、アメリアは一つだって要らない。
「今、後悔は犬の餌にもなりません。あなたは戻りたくないのですか? 私は戻りたいです。だから逃げる手立てを考えたいのです」
あまりの言い草にぐっと喉を引き絞るグレースだったが、割り切れないとはいえ被害者にこう言われては納得する以外赦されないのは理解したのだろう、弱々しくかぶりを振った。
「逃げる、なんて……そんなの不可能です…。周りの様子が分からないのでは、大声を出しても、その前に殺されてしまうわ…」
「? どうして大声を出すのですか」
「誰かが気付いて助けてくれるかもしれないでしょう…!」
眼から鱗、である。そもそもアメリアには、“誰かに助けてもらう”という発想自体がなかった。他人はアメリアをどういう形であれ助け養ってくれるものだったが、自分から助けを求めるものではないのだ。森に放置された時も同じだった。
外にいる全くの他人に助けを求める――――その他人の良心に賭けることにはなるが、無理難題ばかりの現状を考えれば、最も現実的な方法だろうか。
セファードが外にいるとするなら、迷わず声を出せたのかもしれない。アメリアにとって自分を助けてくれると思える人はセファードとユキトの他にはいないのだ。もしくは護ってくれると言ったジャン=ジャックも。彼らの像を目蓋の裏に結んで、しかし今叶わないことを想うのは首を振って払った。
「あの人、ナイフを持っていました。それがあれば、縄を切ることができます」
「奪うなんて、私たちでは到底無理」
「私があの人を抑えて、あなたが奪う」
「貴女、命知らずよ…!」
「教団へ戻れなければ、私は死ぬしかありません。それに、あの人たちも連れて行かなくては、死んでしまうかもしれない」
グレースが訝しげに目を細める。
「……貴女、何を言っているのです…? 信徒じゃない者を連れて行っても、査問会には掛けられません。査問に掛けられるべきは私で………――――っいいえ、今は、言いません。罪を問えるのはこの国の法です。人身売買だけでは、死罪にもならないでしょうし…」
彼女は後悔を吐露しそうになった自分を、強く歯噛みすることで耐えながら、先を続けた。
しかしその内容は、アメリアにはさっぱり分からなかった。無知で理解できない自分に問題があるのは分かっているが、それにしても教団の人たちは“査問”だとか“魔の手”だとか――――思えば会話の流れから意味を汲み取れないことばかり言っていたのはジャン=ジャックだけだった気もするが――――難しいことばかりを言うと思う。
査問が“聖者の移り香”を祓ってくれるものだと言うならユキトに信徒以外でもどうにかしてくれるよう掛け合わなければいけないが、どうにも違うようだ。
「死罪…? 違います。私の移り香で《魔》に殺されてしまうかもしれないから、ユキトのところに連れて行かないといけません」
「“聖者の移り香”のことを言っているのですか? そんなの心配されるのは、ジュリアン様ほどの方に長らくお供をされている方くらいです。貴女じゃ移りもしないし、こんな短い時間では教皇聖下ですらあり得ないことだわ。いえ、そんなことより貴女、自分を攫った悪人を気遣おうというの…?」
「私の所為で誰かが死ぬのは、もう嫌です。駄目です、絶対に」
力についてまだ口外しないようにとユキトに言い含められているから、詳しいことは説明できない。この先起こり得る現実だけを伝えることくらいは、きっと赦されるだろう。
アメリアの存在は間違いなく厄災で、紛うことなく呪いだ。それを頭から信じていないあの男たちにも、今一度言わなくてはいけない。
「貴女の所為でって、何を――――――――……!!」
グレースが問い掛けようとしたところで、再び扉がガタガタと音を立て始めた。
話の最中、アメリアの方へ僅かに身を向けていたグレースは、身体を強張らせて再び隅にへばり付くように逃げる。
今度入ってきたのは、アメリアを森で捕まえた男だった。彼は入るなり二人には構わず、荷台の中を整頓し始め、グレースの縮こまる側とは反対の奥まった場所にスペースを確保していた。男が容赦なく動く度荷台が左右に揺れ、カップを満たしていた水が少量ずつ溢れていく。
次いで眼鏡の細男が入ってきて、立ったままアメリアを睥睨した。
「何だ、食べてないのか。折角用意してやったのに。お嬢さんたちにゃ悦ぶことをしてやったつもりなんだが」
「何か薬が入っていますか」
「薬?」
男の冷えた視線にもアメリアは臆することなく、率直に尋ねた。男は片眉を上げて、いかにも不思議そうだった。
「廃人にする薬」
小娘がそんなことに思い至るとは思わなかったのか、彼は意外そうに一度瞬いた後、にんまりと笑みを作った。
「訊かれて、正直に答えると思ってるのか?」
「思っていません。でも、訊かなければ答えてもらえません」
眼鏡の男はクッ、と喉を鳴らして、さも愉しそうに嗤った。
「確かに、違いない。その莫迦正直さに免じて答えてやろう。何も入ってない。お前が信じるならな」
「なら、食べます」
「信じると?」
「高く買ってもらうために、商品は大事にするものです」
アメリアの経験から出た淡々とした言葉に、男は今度こそ意外そうに眉を持ち上げた。そして訝しむように、考えるように自らの顎を摩る。
「どう育ったらそうなるのか、奇妙な娘だな。痩せちゃいるが奴隷育ちというには磨かれすぎてる。愛玩奴隷ならまあ、なくはないか。そういや呪いだとかも言ってたんだって? 愛玩物として洗脳でもされたか? “ソレ”がアルカディアの教育だってんなら、この国の神よりも余程狂ってやがるな」
グレースを一瞥して、こちらは一般的だが、と再びアメリアの頭から足までを舐めるように観察する。
アルカディアの教育とはミラリュキアの教えについてだろうか? とアメリアは首を傾げるも、整頓を終えた男が荷台の外から眼鏡の男を呼び付けた。
「バロー! そんなんいいから、こっちを手伝え! こりゃ何度見てもすげぇ。今までで一等の掘り出し物だ!」
「お前たちだけで持ち上げるくせに、何言ってんだよ」
体格のいい男二人が持ち上げた巨大な箱が、どしり、と荷台を揺らす。
「――――――――――――…………」
ランタンの仄暗い灯りに照らされたそれに、アメリアは言葉を失った。
「ひ…………っ!!」
自らの横まで移動させられたそれを見て、グレースが思わず悲鳴を上げる。
四角く、アメリアとグレースが二人入っても充分に余りある大きな檻の中に囚われている物。
暗くてはっきりとはわからないが、おそらくその長い毛は人には終ぞ見ない薄桃色で、身体を覆うように流れている。
それよりも何よりも目に付く。
身体を優に超える大きさの、背に掲げる、鷹のような模様の一対の翼。
側頭部から生える凶悪な大きさの、前に捻り出るヤギのような角。
ランタンの光に揺らめく、猫のように尖った瞳孔の瞳。
人の倍は尖った耳、覗く牙、二本の足先は、まるで狼のよう。
誰が喩えずとも誰もが呼ぶだろう。
悪魔、と。
そんな、アメリアよりも幼い少女の姿が、そこにはあった。