1.Ⅲ
いつまで汽車に揺られているのだろう。
そう思ったのは、個室に用意されたそれなりに豪華な夕食を口に入れながら車窓の外の夜の帳が下りた空を眺めていた時で、それも終わって暫くすると、座席の背凭れを倒したら長椅子がベッドに早変わりして、たった一日で何度蒸気機関車に驚かされるのか、とアメリアはとうとう自身の無知ぶりを痛感した。
残念なことにそれを恥じ入る心は麻痺して消え去っているが、もし《聖女》を目指すのなら多くを知っていかなければ、“誰かを救う”などと宣うのはとんだ大言壮語だということだけは、ユキトを見ていれば分かった。
アメリアは人を救わなければいけない。これは義務なのだ。聖女になろうがならなかろうが、その一点は変わらない。でなければ、“生きる”とは到底言えない。免罪符にならずとも、贖罪にならずとも、その道を歩かなければ。
誰かを救うには、まず自分の足で立たなければ無理だ。その為に必要なこととは何だろう?
「うん、聞いていたような腫れは引いているな。あと二、三日もすれば痛みも綺麗さっぱり無くなるだろ」
ベッドに腰掛けたアメリアの足許にジャン=ジャックが跪き、怪我した足の裏の様子を診てくれる。
騎士役というだけあって怪我には慣れているのか、手当ての様も鮮やかだ。薬を塗り、あっという間に包帯を巻いてしまった。ユキトやセファードも手当てにまごついていたようなことはないが、ジャン=ジャックは抜きん出て器用だ。
「ありがとうございます」
「いえいえ。姫のおみ足に触れる栄誉をいただけて光栄ですとも」
「ジャン=ジャックは時々意味の分からないことを言います」
「うん。君が自分の価値を分かっていないんですよ?」
「私の価値…? 《呪われた子》ですか? あなたも私をコレクションしたい変わり者ですか? 死んでしまっては嫌だから、駄目です」
「……………」
ちょっとどういうことか説明して、と鬼気迫るオーラで主張しながら、ジャン=ジャックはユキトを振り返る。
ユキトは目を伏せ視線を交差させないながらも、毅然と言う。
「繊細な問題でしょうから、まだ聞けていません。むしろこの状態の彼女に問い質して良いものなのか、判断できかねます。彼女自身の心と判断力を養ってから訊くべきではないかと」
「確かに…言いなりで聞くのは卑怯だ…」
ジャン=ジャックの唸るような返事を聞いて、ユキトは貴方もそう思いますか、と零し眉尻を下げた。
「彼女は卑下をしません。本当に自分が“そういうもの”だと思っているのです。追々ではありますが、貴方にもその価値観を改める手伝いをしていただきたい、ジャン=ジャック」
「それはもう。心から。喜んで。我らが偉大なる父、ミラに感謝を」
深刻な様子で両手を胸の中心に当て、己の胸のロザリオを掴み、次いで指を絡めて握った両手を額に運び、天に祈りを捧げるジャン=ジャック。
自分について話されているのは当然分かるが、何を問題視されているのかがアメリアにはさっぱり分からない。訊きたいことがあるのなら、分かる限り何だって答えられるのに。
「さあ、もう休みましょう。私と同じ部屋というのは申し訳ないことですが、今日ばかりは我慢してください」
「大丈夫だ、アメリア嬢。神父の魔の手からは俺がしっかり護るとも!」
「貴方を信頼しているつもりでしたが、私に疑いを抱けと仰るんですね?」
「やだなぁ、俺が魔の手になるなんて、そんな。根も葉もない。ちょっとした可能性を言っただけじゃないですか。え? 頭を過ぎることが問題? そんなそんな」
にこにこと言いながら、ジャン=ジャックは扉の横に置いたスツールに腰掛けた。内鍵が掛かるはずだが、どうやら一晩中ここで警護を続けるらしい。
ベッドに潜り込みながら、魔の手って何だろう、とぼんやり思う。アメリアの分かることが少ないとはいえ、ユキトとジャン=ジャックの会話は何だか難しいことばかりだ。ユキトと同じ部屋に居るのだって、我慢することなど何もない、むしろアメリアにはほっとすることなのに。ああ、ここにセファードが居たらもっとよかった。そう思うくらいだ。
ジャン=ジャックが灯りを消す。
「お休み、アメリア嬢、ユキト神父」
「お休みなさい、ジャン=ジャック、アメリア」
「おやすみ、なさい、ユキト、ジャン=ジャック」
こんなに安らかに、そして誰かにお休みと言ったのは、一体いつ振りだろう。
カタカタと揺れる車体、音が心地いい。
もぞ、と身体を縮める。穏やかな空気に包まれているのに、何だか落ち着かなくて、なかなか寝付けない。
ユキトはもう寝てしまっているだろうか? 腕を組んで目を伏せているジャン=ジャックはきっと寝てはいないだろうけれど、とはいえ寝付けなくてもアメリアは話す言葉を持ち合わせていない。
セファードはちゃんと寝ているだろうか? 絶対的な味方であるユキトの傍に居らず、安らかな気持ちでいられているのだろうか。彼はユキトのことをとても大切にしているように見えた。ユキトに対してガミガミ怒ってばかりいたけれど、多分。ユキトの優しさが分かり易くも時に遠回りであるなら、セファードの優しさはぶっきらぼうで直接的なのだと思う。これも、多分。
だからこそ離れているのを不安に思っていやしないか、気になってしまう。
不意に、対面のベッドで寝ていたユキトが、むくりと身体を起こした。
すぐにジャン=ジャックが目を開ける。
「どうした、神父?」
気配を探っているようなユキトを窺うジャン=ジャックが、ややして何かに気付き、ゆったりと立ち上がりながら辺りを警戒するように重心を落として何時でも動けるような姿勢を取った。まさか《魔》だろうか、とアメリアも浮き足立って上半身を起こす。
ユキトはジャン=ジャックを手で制し、ベッドから降り、窓に掛かったカーテンをめくり上げる。
「え、セファード殿?」
臨戦態勢を取っていたジャン=ジャックが、拍子抜けした声を出す。
窓の外で強風に煽られていたのは、屋根から逆さまになって部屋を覗く、天使姿のセファードだった。
彼は部屋の様子を窺うなり、驚いた顔をした。ユキトが窓を開け、ばたばたと風が鳴る音の中少しばかり硬い声を出す。
「何かあったのですか?」
「何故、此処にいる、ジェームズ」
セファードはジャン=ジャックに刺々しい言葉を浴びせ、険しく見た。
「セフ、彼が貴方を厭悪する人間ではないことは分かっているでしょう。態度を改めろとまでは言いませんから、一言目に喧嘩を売らないでください」
「俺が元々警護の予定じゃなかったのは事実ですよ、神父。卿は何事かおありなのでは?」
説教にセファードはむすりとし、フン、と不服そうに鼻を鳴らす。ユキトが懸念するような緊急性のある用事ではないのか、急いでいる様子はない。
「セフ?」
首を傾ぐユキトに再度促され、セファードはベッドの上で成り行きを見ていたアメリアへと目を向け、窓の外から手を伸ばしてきた。
「アメリア、来い」
「え…」
「空が広い。星が綺麗だ」
相好を崩すセファードに、部屋に居た三人が揃って目を瞬く。
アメリアが状況を理解しかねていると、ユキトに手を引かれベッドから降ろされ、肩にストールを掛けられたかと思うとセファードの前に押し出された。
「程々にしてくださいね」
「分かってるさ」
「へぁ……!?」
窓から身体を持ち上げられ走行中の車外に引っ張り出され、まさかそんな無茶苦茶なことをされるとは思いもよらず間抜けな声を出したのも束の間、アメリアは有無も言わさず屋根の上に引き上げられた。
「いやぁ…あの人でも、あんな顔するんだな」
ジャン=ジャックの驚いたような声は、風音に攫われたアメリアとセファードには聞こえなかった。
✳︎
「――――――――…」
「どうだ、なかなかだろ?」
膝を立てて座ったセファードの脚の間に小さく収まり、アメリアは言葉もなく満天の星空を見上げていた。
これまで何度となく星を見上げたことはあったけれど、星を見る為だけに空を眺め想いを馳せたことは終ぞなく、綺麗だと知っていたとはいえぼんやりとした印象しか持たなかった星空が、こんなにも燦爛と広がっているものだとは思いもしなかった。
汽車が走っているのは見渡す限りの草に覆われた平地で、所々木が生い茂っていたり、ポツポツと建物が建っていたりするものの、空を遮るものは何もなかった。人の作る灯りもないのに、月と星々の降ろす光で周囲の様子はまざまざと窺える。
前へと流れていく景色は今通ってきた道で、この遠い先に昨日までアメリアがいたシズルがあるなんて、とても信じられなかった。
セファードが背を丸め、風に邪魔されないようにアメリアの耳許で口を開いた。
「星座を知ってるか?」
「せいざ?」
「過去の人間は、星の並びに形を見たんだそうだ。幾つかの星を繋いで、そこに物語を作る。あそこには神さえいるらしい」
どれだけ眺めても、アメリアには形も物語も見えそうにない。セファードはアメリアの視線の先を、人差し指で十字を切ってみせた。
「あれが白鳥なんだと」
「…? ロザリオの方が似ています」
「はは、俺もそう思う。ロマンがないんだろうな、俺たちは」
セファードはからからと笑った。
「今度は地上の星を見せようか」
「地上の星?」
「人々の暮らしの灯り。生命の灯火、だな。空の星より余程物語が見える。空を飛べる者の特権だぞ」
「……ゆっくり飛んでくれるのなら、見ます」
「フ、そうか」
アメリアは、喜色を浮かべるセファードを肩越しに振り返り、じっと見つめた。
「ん?」
「ジャン=ジャックのこと、嫌いですか」
この人が誰かを見て、あんなに険しい顔をするとは思わなかったのだ。アメリアに向けるものとは到底似ても似つかない表情。憤りでジュリアンをこき下ろしていたのともまた違う。セファードは気付かなかったろうが、アメリアはそれなりに驚いていた。
唐突な言葉に、セファードは意表を突かれた表情の後、苦々しそうに眉を寄せた。
「……俺は教団のヤツらが嫌いなんだよ」
「でも、ジャン=ジャックはセファードのこと、怖くないって言っていました。あと、セファードにはファンが多いって」
「そういうところを含めて信徒が嫌いなんだ。……俺だって、あれが悪い人間じゃないことくらい分かってるさ。《神呑者》の人格など関係なく一様に恐れ穢らわしいと思う信徒と、自分が同じことをしているのも分かっている。けどこれは理屈じゃない。俺は絶対に歩み寄れない」
アメリアはほんの少しだけ眉尻を下げた。
「私が信徒になったら、嫌いですか?」
「お前は違うだろ。そうじゃない。…………だから、そうじゃないのは、分かってるんだよ。お前は真っ直ぐで、刺さる、本当に」
セファードはアメリアの肩口に顔を埋めてしまった。
傷付けてしまったのか、それは分からないけれど、言われたくないことを言ってしまったのかもしれない。
「あの、ごめんなさい。ユキトが居なくて、セファードがひとりぼっちで哀しかったら嫌だなって思ったんです。聖人様みたいな人ばかりじゃなくて、良かったって」
「………」
「ごめんなさい」
「……俺がジェームズを嫌いなのは、嫌か?」
「嫌ではありません。でも、ジャン=ジャックはいい人だと思います。セファードの“嫌い”で傷付くのは、哀しいことだと思います」
「そうか……」
アメリアの腰に腕を回して、軽く抱きしめるセファード。だがすぐに何かに気が付くと、彼は顔を上げて訝しげに眉を寄せた。
「ん…? お前、何持ってる?」
問われてワンピース内側に着けたポーチから取り出したのは、ユキトに持たされた古めかしく、アメリアの手には少々大振りな銃だ。
「ユキトの銃?」
「予備を預かりました。もし誰も傍に居ない状況で《魔》と行き会った時、身を護るために使いなさいって。あと、加護の力を弾にして撃ち出す訓練もするから、それまで手に馴染ませて、イメージを固め易いように常に身に付けているよう言われました」
「銃、使うのか? 聖者って言ったら、大体破魔矢が定番だが」
「弓は神聖に見えても、持ち運びが便利なのは銃だからって、ジャン=ジャックに説明していました。弓だと私の力に耐えられないかもとも言ってました。照準? が、ズレそうって。訓練を始めるまでは、最終的にどうするか判断できないから、今は銃に慣れてくださいって、くれたんです」
「成る程な。コイツはお前には無骨すぎるが、もしお前が銃を使うことになるなら、特注の、聖女の手に似合う物を創ってもらえるだろ」
両手で持ち上げた銃に、セファードがその大きさに見合う手を添えて言ったが、アメリアにはそれが酷く意想外のことで、瞠目した後にかぶりを振った。
「他はいりません」
「ん? だってデカいだろ。その分反動もあるんだぞ」
「これがいいです。ユキトがくれた、これがいいです」
今度瞠目したのはセファードの方で。
彼は小さく息を零してひとつ笑い、アメリアが大事に持つ銃を、アメリアの手ごと大切そうに包み込んで、星空に掲げた。
自分の言葉に含まれた意味を知らないアメリアの側頭部に、こつり、とセファードのそれが寄せられる。
「そうか。そういうところから、徐々にでも育っていくといいな。何かを大切だと、好きだと、護りたいと想えたら…それが増えていくと、いいな。大事にしてくれ」
優しく微笑んだセファードの顔はアメリアからは見えなかったし、彼が何を伝えたかったのか半分程も理解できなかったけれど、声音がとても優しかったのは、風に吹かれる屋根の上でも充分に伝わっていた。
片腕にアメリアを座らせ窓の外にぶら下がったセファードから、窓から身を乗り出して身体を受け取ってくれたジャン=ジャックによって、アメリアは三十分にも満たない危険な旅から帰還した。
しっかりとした地面に足が着いて、人心地つく。走行している汽車の外側に張り付くなんて経験、多くの人はしたことがないだろう。空を飛ぶよりは怖くなかったけれど、実は怖かったというのは、星空が綺麗だったから伝えないでおこうと思う。
「夜空は楽しめましたか?」
「はい。とても綺麗でした」
微笑みながらアメリアの乱れた髪を整えてくれるユキトに、素直に頷く。
窓の外のセファードを振り返ると、彼は先程までの穏やかな様子と違って、不服さで固めた顔で、じっとりとジャン=ジャックを見ていた。口許がこれでもかというくらい引き結ばれて、目が据わっている。
刺々しい態度には平然としていたジャン=ジャックだったが、こうなっては対応できず、当惑した様子を見せていた。
「………………………非礼は、詫びる」
「………………へ?」
一言、風に掻き消えるかそうでないかギリギリの境界の声で、ぶっきらぼうに言い置いたセファードに、ジャン=ジャックは間抜けな顔で間抜けな声を返した。それが謝罪の言葉だと理解しているはずなのに、まさか彼の口から自分に向かって発されるものとは思ってもみず、意味を掴みあぐねている。
ユキトも同じように驚いていた。
ジャン=ジャックの脳の再起動を待つ前に、セファードは言い逃げのように屋根の上へ引っ込んでしまった。
アメリアはすぐに窓から顔を覗かせ、セファードを見上げる。彼はちょっとの間にターコイズのピアスを付け、少年姿へと戻っていた。
「セファード!」
「どうした」
「おやすみなさい」
今日は何度見ただろう、彼は少し目を見開いて驚いた顔をすると、すぐに目を細めて笑った。
それはもう、アメリアの知っているセファードの表情で。
「お休み、アメリア。いい夜を」
ひらりと手を振ると、彼は星空の中へと消えていった。