0-1.呪われた少女は死へ踏み出す
短編「神様の愛した楽園」を加筆修正して、こちらに0章として上げ直しました。
少女は、石造りの橋の欄干に立ち、何の感情も浮かばない瞳で、キラキラと陽光を反射して煌めく眼下の海を見下ろした。
頬を撫でる潮風、穏やかな波の音。
大海は、“母なる海”と称されるという。その如く、優しさに満ち溢れているように見え、それであれば己の罪も雪がれる気がした。
気がした、だけ。この罪が許されることは、ない。決して。
遠くに水平線を望むことのできる、高台にある街路の石橋。そこから真下に見下ろす、海。
たった一歩。それだけで、世界は反転する。
身の丈に合わない、重たい豪奢なドレスがひらりと舞い、風が黒緋色の長い髪を翻し――――――――身体は、強かに水面に打たれ、沈んだ。
生きることに較べ、死ぬことのなんと容易いこと。
希望を捨てれば、今まで決して踏み出すことのなかった永遠のようなたった一歩は、何の重みも持たなかった。
意識を失う寸前、沈む水中から見上げる空はキラキラと光って、そこには二対の翼を広げた天使が、自分へと手を伸ばしていた。
✳︎
籠の中の鳥は外に世界があることを知っているから、きっと自分を不幸だと嘆くのでしょうけれど、籠の中こそが本当の幸せの在り処だと理解できないのは哀しいことです。
だって、外敵のいない世界は、誰も害さずに済むのですから。
少女は、豪奢な部屋の窓から、ぼんやりと空を眺めていた。
その部屋に相応しく美しく着飾らされたドレス姿は、まるで精巧な人形のように作り物じみて少女然としていて、誰もの目を惹くものだった。けれど見世物として飾られていることを裏切るように、誰の目にも留まらないのだ。
まるで鳥籠のように、格子の嵌った窓。この屋敷に来てから一度も外へは出ていない。少女の姿を目にするのは、使用人を多く擁するこの屋敷の中にあって、彼女の世話をするたったの数人だけだ。部屋を出ることすら許されていない身の上であればこそこのような異常な状況に置かれているが、この異常を少女は何も思わなかった。
この世界は幸せだ。食事があり、衣服があり、温かく眠れる場所がある。閉じ込められていたって、そこに不幸は一つもない。
籠の鳥に、哀しいことは何もない。
だから彼女には歓びがなくとも哀しみもなく、そこには無感情だけがあった。
それは、幸せなことだった。
コンコン、と、重たい造りの両扉を二度叩く音がして、返事を待つこともなくお仕着せを身に纏った若い女中が部屋へと入ってきた。
「アメリア様、昼食をお持ちしました」
女中の顔色はひどく優れない。銀製のトレーを静々と運び込み、しかしテーブルの上を見て、そろり、と視線を少女――――アメリアへ寄越した。
「……朝食は、お下げしてよろしかったでしょうか」
「…………」
手の付けられていない朝食。アメリアもそちらを一瞥した後、女中を見つめた。感情が何も浮かばない、濃藍からアメジストにグラデーションする宵闇を思わせる不思議な色の、人形の硝子玉のような瞳。
びくりと女中の肩が跳ねたのと、アメリアが首を横に振ったのはほぼ同時だった。返事を確認すると、女中は手早く昼食をテーブルの上に並べ、すぐさま踵を返した。
「し、失礼いたします」
扉より手前にある、よく手入れされた為摩擦の音さえ立てない鉄の格子を閉め、格子扉に丁寧に鍵をかけ、再び重い扉を開けて部屋を出て行った。
部屋に不釣り合いで、そして着飾った少女にも全くの不釣り合いな鉄格子は、しかしアメリアにはもう見慣れたものだ。
そんなことをしなくても部屋を出ていくつもりなど微塵もないのに、大仰なことだなとぼんやり思う。
けれどきっと仕方がないのだ。アメリアはご主人様の大事なコレクションだから。
手を掛けて集めた珍しい蒐集品は、誰だって鍵をかけて保管しておくものだろう。
だから、いい。閉じ込められていることも、鍵を掛けられていることも、さしたる問題ではない。
アメリアは食事の置かれたテーブルに着く。今しがた置かれたばかりの仄かに湯気の立つ昼食の横に鎮座する、乾燥から艶やかさを無くしてしまった朝食を、じっ、と見つめた。
「……ごめんなさい……」
食欲がないなどと贅沢を言うつもりはなかったのだ。棄てさせるつもりなど毛頭も。
かちゃりと音を立て、彼女はとうに冷めきった食事を口に運んだ。
「ああ、何度見ても気味が悪い…まるで人形じゃない」
「いくら見世物としては申し分ないって言っても、あんな子を“飼う”なんて旦那様も相変わらず趣味が悪い…」
「呪われてるって聞きましたけど…本当なんですか?」
「ええ、そうよ。生まれた村は不審火で全焼、その後も転々と行く先々で誰かが死んだり、行方不明になったって。きっと本当よ、調査してるに決まってる。じゃなきゃ、あの旦那様が面白がってコレクションに加えたりしないわ」
「それじゃあ私たちも他人事じゃないじゃないですか……! 呪いの巻き添えを喰うなんて嫌…!」
女中たちの口さがない会話を、アメリアは聞いたことがない。けれど、話していることは知っていた。
どこに行ったって、皆同じことを話すから。
それから何日が経った頃だったろう。
「ここにはもうお前の居場所はありません。お引き取りを」
屋敷の執事に慇懃無礼にそう言われ、屋敷の無駄に大きな門扉が閉められた。アメリアが二人重なったって、越えるのは到底無理な高さの大仰な鉄格子の門扉。まるで部屋の中と同じ格子。けれど今度は鳥籠の外側にいる。
「……。ご主人様は死んだのですか…?」
「さすが『呪われた子』ですね。人を殺しておいて、そんな顔しかできないとは…。さっさと消えろ、反吐が出る!」
いつでもわざとらしく丁寧な態度を崩さなかった執事は、主人の死に至って、やっと本性を現した。それも仕方のないことだろう。
けれどそんな態度ができるのだったら、初めから《呪われた子》を飼うと言った主人を止めてくれればよかったのに。取り返しのつかないことになってからどんな罵倒と厭悪をぶつけられたところで、アメリアにはどうしようもできないし、感情さえ動かないというのに。
優しい心根の人ではなかった。多分、非道な人なのだと思う。けれどアメリアにとっては間違いなく優しい人で、死んでほしいなんて思ったこともない。死んで嬉しいなんて、思いもつかない。何も知らない赤の他人。けれど何不自由ない居場所を与えてくれた『所有者』。《呪われた子》であるアメリアに価値を見出した彼であったが、ならばこうして彼にとってのアメリアの価値である“呪い”によって死を迎え、その存在が証明されたことは彼の本望だったろうか? ――――そんなことあるはずもない。
例えあったとして、アメリアにとって、何一つ救いにはならないけれど。
当てもなく、ふらふらと歩く。
追い出されはしたものの、幸いにも剥ぎ取られなかった衣服はやはり豪奢で、すれ違う人々の目を引いた。しかし誰一人声を掛けないのは、あの屋敷の主人が、この一帯を治める地主である変わり者で傲岸で悪評に事欠かない男が、半年ほど前人形のように美しい呪われた少女を引き取った、と誰もが知っていたからだ。
地主が死したのち、姿を見せたかくも美しい少女。
初めて目にする彼女を遠巻きに勘繰るのは当然のことだった。覇気なくとぼとぼと歩く少女は同情を誘ったが、それ以上に強い不審と懐疑が人々を覆っていた。
アメリアは、口々に憶測の囁きを漏らす人々には気がつかない。気がついたところで彼らを恐怖させるだけだと知っているから、気がつかない。
「……。…私なんかに興味を持たなければ、きっと死ぬことなんてなかった…」
アメリアはぽつりと独りごちる。
外に、世界なんかなければよかった。あの籠だけが世界なら、誰も、傷付かずに済むのに。幸せでいられるのに。
皆、みんな、消えていく――――もう顔も覚えていないおとうさんもおかあさんも、引き取られた先で仲良くなってくれた女の子も、ただ近くに住んでいただけの人も、誰も、だれも、だれもが。
もしかしたら今度こそ、この場所でこそ、幸せに暮らせるかもしれないと思った。
人の多い屋敷ではあったけれど、ほとんど誰もアメリアには近づかない。アメリアも何もする必要がなく、面倒を見てもらっている身の上とはいえ、己の自発的な行動のせいで余計に人の手を煩わせるようなこともなく、生きていける。生かされている。
今度こそ。今度こそ。
どうか、誰にも不幸が訪れませんように。
打ち砕かれた。死因も、理由も、ご主人様については何もかも知らないけれど、呆気なく、終わりは訪れていた。
そもそも、あの幸せすぎた世界はアメリアには過ぎたものだったのだ。アメリアは到底、あのように穏やかな日々を与えられていい人間ではないのだから。
それはこれまでの人生を思っても同じだった。幸いにしてアメリアは、その身に余るほどずっと恵まれていた。
生まれ育った村を失い、それから転々とすることにはなったが、時に疎まれることがあっても引き取り手は必ずあり、寝床と食べ物を己の力で見つけなければいけないということはなかった。生まれ持った整った容姿が貧相に痩せ細り、表情さえ生まない美貌が、同情を買うのによく働いたのだろう。馬小屋で過ごすことも、人としての尊厳を踏みにじられるようなこともあったけれど、それは幸せなことだった。
ある時身請けしてくれた情け深い女には未成熟な身体を売り物にされたが、あくまで商品であったアメリアは手厚くもてなされ、それこそ苦労などしなかった。身綺麗を保つためのこと以外は人間以下の扱いをされたとしても、男たちの獣のような欲望で身体を慈しまれたとしても、アメリアには生きていく場所があった。与えてもらえた。客は紛うことなくアメリアを求めていた。
ある時身請けしてくれた奥様は、アメリアの美貌をとても気に入り傍に置いてくれた。それは癇癪持ちの彼女の玩具にされるためで、いついかなる時も歯向かうことなど許されなかったし痛いなどと口にすればそれこそ手酷い仕打ちを受けたものだが、暴力を振るったとしても彼女はアメリアを可愛がってくれた。
どんな境遇にあっても、いつだって、生を、許されていた。
とてもとても恵まれていた。《呪われた子》であり、人を不幸にする娘であったにも関わらず、恵まれていた。
だから勘違いしてしまったのだ。この先もどうにか生きていけるものだと。生きていていいのだと。ありもしない“もしも”を抱いてしまった。
人を不幸にする忌み子が、とんだ勘違いを。
今度こそと、身の程にもない希望を抱き続けて。人の不幸を見なかったことにして。自分のせいで誰かが命を失っていくのを知っていながら、当たり前のように自然に、先があると思い込み続けていた。あまりにも身勝手に。
赦されやしない。赦されるべきではない。
一人で生きようか? 今までが贅沢だったのだ。一人ぼっちでもきっと生きていける。
誰とも関わらなければ、誰も不幸にならないだろうか? そうかもしれない。そうではないかもしれない。
足が、情けなく震える。
見えない明日は嫌だ。見えない明日を、誰かを脅かしながら、たった一人で生きていくのは嫌だ。
死ぬことよりも、嫌だ。
「……もう…終わりにします……」
もっと早くに、こうすべきだったのだ。
アメリアは石造りの橋の欄干にたどたどしく登り、迷うことなく眼下の海へと身を投げた。