002.『名前を交わす』
「知らない」
整った眉根を寄せてこちらを見る、その子の顔は随分と訝しげだ。何を言ってるんだ、と言葉にしなくても伝わる。冷静に考えればそうだ、いきなり初対面の人にそんな事を言われたって困る。
「あはは、そうだよな……」
「貴方が誰か、なんて聞きたいのはこっちの方。強い魔力の波動を感知して警戒しにきてみたら『憐れみの魔術師の森』の奥に1人でなんて、自殺行為」
「強い魔力? 憐れみの魔術師の森?」
耳慣れない単語をつい反復すると、その子の視線の温度が更に下がった。腰に吊るしてある、それ自体は細いが美しい装飾のされている鞘がローブから覗く。いつでもどうにか出来る、という事だろうか。
「それ、本気で言ってる? 」
「いやいや! その、君が言ってる事の半分しか分かってないのは分かるんだけど、本当に分からないから……ごめん」
本当は半分も分かっていないのだが。
魔力なんて自分にとってはファンタジーの世界の話だし、見渡す限りにおどろおどろしい植物や命の危険を感じる生き物の気配など無縁の世界だったと思う、思い出せない記憶の範囲、常識的な部分では。
呆れたようにその子は溜息を付いた。
「水辺も見当たらない平石の上でずぶ濡れになっていて、おまけに自分の事もよく分かってない、とか」
身に付けている水色のワイシャツ、黒いスキニーズボン、革靴だって靴下の中だって全身、濡れていないところはないという体たらく。無造作に放り出されている青色の背中掛けのリュックも、恐らく俺の物なのだろう。つま先から天辺、持ち物までもずぶ濡れだ。もしそんな人を街中で見かけたら、何があったのかと勘ぐってしまう程度には怪しい人だ。
あまり表情を変えないその子の赤い瞳が、品定めでもするかのように真っ直ぐに此方を捉える。
「ーー貴方、何処から来たの?」
「何処から、ってーー」
本質を尋ねるような、強い気持ちの込もった言葉。答え方に寄っては無事では居られないような緊迫感に冷や汗が一筋垂れる。
何とかしないと。何か、自分が答えられる何かを。頭の中で色んな単語が出てくるが、どれも取り止めない。それでも、何か言わないと、と口を開きかけて。
急に頭の中を巡る記憶に、俺は頭を抱え込んだ。意識がごちゃ混ぜになる。現実から乖離する。
ーー反転する月、歪む視界、冷たくなる体、息苦しさ、その前に何か、誰かの、笑う顔が、唇を開けて、呟く、名前はーー
「まこ、と」
「え?」
「そうだ、俺の名前はーーマコトだ」
自分がどんな人間だったのか、何をしていたのか、何がどうなってこんな辺境の地にいるのか、全然分からない。朧げだ。
けれど、名前は思い出した。俺は、俺の名前は、
「マコト、ね」
「ああ、そうだ……他の事は、まだ思い出せないんだが」
「名前には力がある。名付けられる事で、魂が宿る、どんな名前でも。名前を持っているのであれば、貴方は突発的誕生した存在ではない」
「……どういうことか、教えて貰ってもいいか?」
名前を告げた途端、その子の警戒が少し緩んだ、気がした。相変わらずの無表情のままではあったが。
「少なくとも"ボク達"の敵では無いという事」
「そうなる、のか?」
「味方、という事でもまだ無いけど」
名前が分かっている、というだけで何か決定的に違ったのであろう。今すぐにどうこうされる事は無い、と安堵する。知らない場所で初めて会った人に、命を狙われるような事は避けたい。ましてや自分に非があるのかどうかさえ、正直なところ分からないのだ。
しかしボク達、か……仲間がいるって事か?
「あのさ、聞いてもいいか、さっき"ボク達"ってーー」
「静かに」
その子が、口を紡ぐように合図する。それに習って俺も口を噤む。警戒するように辺りを見渡しながら、背後に向けて左の掌を前に差し出した。
「『探知』」
淡い白い光が、その子の身体から発せられる。目を閉じ、その左手をゆっくりと辺りを探るように振り回す。
「仲間が襲われてる、みたい」
手を降ろし、目を開いた後、ぽつりと呟いた。相変わらずの無表情ではあったが、先程よりも少し焦っているように見える。
「それは、行かないといけないんじゃないか?」
「勿論、行く」
走り出そうとするその背中に 象牙色の布が何重にも巻かれた『何か』を背負っているのに気が付いた。そんなに大きくはないが、武器という感じでもない。そもそも彼女は細身の剣を腰に吊るしていた。
一体何なのだろう、と見つめているとその子は此方を振り向いた。咎められらかと思ったがそうではなく、
「マコトも、早く」
「え、俺も?」
「死にたいならこのままでもいいけど」
「あ、ああ、そうだな、このまま此処にいても俺にはどうする事も出来ないし、君についていくよ」
慌てて起き上がる、と土の香りに混じって、何故か海の塩の香りがした。道理でべとべとするな、と思ったが、俺のこの水浸しの原因はどうやら海水らしい。どういう経緯を経て濡れたのかは分からない。
同じように海水にへたった、青色のリュックを見かけて自分のものだと見当を付けて掴む。
立ち上がった俺を先導するように、純金の絹糸と闇色のローブをはためかせながら走り出したその子は振り返る事無く、呟いた。
「リィン」
「え、何が」
「ボクの名前、リィン」
名前が大事、と言ってたもんな。口調も素っ気なく、此方を見る事無いが、気遣いだという事は分かる。
無表情で、初めこそは物騒な事も言っていたが、それは警戒していただけで。本当は優しい子、なのかもしれない。
俺は少しばかり息を切らしながら、応える。
「ああ、宜しくな、リィン」
「うん、宜しく……少し急ぐよ」
「ええ!? おい、ちょっと待ってくれ」
何処かも分からない場所、誰かも分からない自分、何もかもわからないこの世界で、俺は唯一知った『リィン』の背中を必死に追いかけた。