024.『レッサーヴァンパイアの憂鬱』
朝を迎えたばかりの太陽は、分け隔てなく全てをその暖かい陽光で包み込んでいた。動き出す前の街の至る所にも、人々から見放されたこの古ぼけた教会にも。
壁の天井付近には赤、青、緑などの色硝子を嵌め込まれた窓が幾つかあり、透過した光を美しく染め上げる。少し剥がれかけの白い壁や、少し鈍く曇った銀の燭台も、その光の反射できらきらと鮮やかに輝く。
教会の真ん中、アーチ状に膨らむ天井には大きな明かり窓があり、そこからまるで祝福しているかのように陽光は降り注いでいた。
天と地を繋ぐ神秘的な光の柱の、その中心。
「……」
そこに彼女は居た。その姿を見て、俺は言葉を発する事が出来なかった。
闇夜を思わせる真っ黒のローブは所々に留められた小さな宝石が輝き、まるで夜空を思わせ。
純金色の髪の毛は陽光を優しく反射させ、とても艶やかに広がり。
整った顔立ちの白い肌と赤い瞳が、祝福を授かる天使のように見えて。
ただただ、美しかった。
美しいものを見た時、言葉で表す事が出来ないという事を俺は本当に理解した気がした。何も言えないのだ。あれがこうだから、とか、まるで何々のように、といった理由や例えを口にした所で全て嘘っぽく聞こえてしまう。
言葉にしないからこそ美しいという言葉は形にならず、何処までも広がっていくものなのではないか。そんな事を考える。
「どうして」
先程名前を呼んだ時は鈴の音のように高い音だったが、今は抑えるようにいつもと同じ低い調子だ。
振り向いたリィンと視線が合う、その顔は珍しく驚いているように見えた。こんな寂れた教会に人が来る事も、そして来たのが俺だった事も、予期していなかったのだと思う。
「色々あってな」
「……そう」
俺は後ろ手で古ぼけた扉を閉めると、教会の中へと歩みを進める。
木で出来たベンチが真ん中の石畳を隔てて左右に均等に並んでいた。よく見ると幾つかは背もたれの部分が壊れ、ぼろぼろになっていた。
扉から真っ直ぐに伸びた石畳が丁度リィンの傅く中心で十字に広がり、まるで十字架を模して作られているように見えた。
「大丈夫、なのか? こんな所に来て」
「この教会にはもう浄化する力は殆ど無い、だからボクでも入れる」
「そうなのか」
「神聖な力は信仰に宿る。この教会は今はもう誰も訪れないから」
不死者は神聖なものには弱いと言うのが一般的なファンタジー物のお約束だ。吸血鬼の出来損ないであるリィンは大丈夫なのかと不安になったが、特に問題は無いらしい。
「心配した?」
「勿論……なぁ、聞いてもいいか?」
「何」
「……何を、祈ってたんだ?」
リィンはすぐには答えず、ローブの裾をはたきながら立ち上がり、光の柱から一歩外へ出る。そのまま近くのベンチに置いてあった、象牙色の布に包まれた"何か"を腕に抱くとそこに腰掛けた。その荷物、やっぱり外に出る時はいつも持ち歩いているんだな。
此方を見詰めるリィンの瞳が呼んでいるような気がして、俺は空けてくれたスペースへと座る。肩越しに花の甘い香りがした。
「……殺した人の、冥福を」
横目で見たリィンの視線は、いつものようにただ真っ直ぐに前を向いていた。
その視線の先にあるのは、教会の奥の壁には色硝子を嵌め込んだ窓と大きな十字架。まるでその十字架に、自身の罪を告白しているかのようにも見えた。
「そっか」
「うん」
サルナンは言っていた、こういう依頼の後はいつも教会にいる、と。
つまりリィンは、人を殺した後は必ず教会に赴いて自身が手に掛けた人の冥福を祈っているという事らしい。
俺だけが苦しんでいるものだと思っていたが、リィンももしかしたらそうなのかも知れない。
「初めて人を殺した時、ボクもマコトみたいだった」
「リィンが?」
「ボクが吸血鬼のなり損ないになってすぐ後の話」
それが何年、いや、何十年前の事のか、俺には分からなかったが。
「討伐に来た聖騎士達に見つかって、追い掛けられた。必死で逃げようとしたけれども出来なくて、何度も斬り付けられた」
その時の恐怖は、月日が経っても忘れられないものなのだろう。人の一生を超える程の時間が過ぎても、なお。
「痛くて、怖くて、それでも死にたくなかった。気付いたらボクは瓦礫を握り締めてた。床には血に染まった聖騎士達が転がっていて、ボクの体も自分のものが彼らのものが分からない血で、同じように真っ赤で」
「……」
「事が終わった後、身体が震えて暫く動けなかった。なんて事をしてしまったんだろうって、怖かった」
俺はただじっとリィンが淡々と話し終えるまで、じっと見つめる事しか出来なかった。
「化物、って事切れる前に誰かが言ったのを覚えてる。でもボクは、化物になりたかった訳じゃない。人を殺したかった訳でも、ない」
視線に気付くと、リィンは憂鬱そうな面持ちから、少しだけ口の端を緩めて俺を見上げた。
「だから、マコトは凄いと思う。自分の意思で人を殺してでも誰かを守ろうとしたマコトは、偉い」
「……そうかな」
「ボクとは違う、ボクはただ無我夢中だったから」
リィンなりに、俺の事を慰めてくれているのだと思った。しかし俺には寧ろ、そうしなければならなかったリィンの苦しみの方が大きく感じて、自分の事よりもずっと悲しくなった。
殺さなければ殺されるという極限状態で、それでも生きる為に相手を殺す事を選んだリィンの心はどれほど辛いものだったか。
「それからボクは冒険者になった。冒険者として人を殺した。最初の内は躊躇いもあった。殺さなくてもいいんじゃないか、って思った事も」
リィンの言葉に俺は、まるでこれからの自分を見ているかのような感覚に囚われた。
「でもやっぱり殺さなければ解決しない事もあって、ボクはそれにどんどん慣れていった。何人も、何十人も手に掛けて、何も感じなくなるくらいには」
後悔も、反省も、何一つ感じていない顔で。
「だってボクは本当に化物だから」
リィンはぽつりと呟いた、そこには何の感情も無かった。風が吹くように、太陽が昇るように、至極それが当たり前で何も思う所が無いといった具合で。
きっといつからか、化け物である自分と言うものを受け入れたのだろう。そう呼ばれる事にも。
「……リィンは、どうして祈るんだ?」
俺は聞かずに居られなかった。
望まずに吸血鬼のなり損ないになって、必要に駆られては人を殺して。それでも手に掛けた人の為に祈るリィンの事を、俺はもっと知りたかった。
「……ボクがまだ人間だった頃、食べる前も、寝る前も神様に祈りを捧げるようにって両親にいつも言われていた。他の命を奪って生きていく事を神様に赦して貰って、今日も無事に生きてこれた事を神様に感謝しなさいって」
「良い親御さんだったんだな」
「うん。優しくて、真面目で、信心深くて。休みの日は家族で教会にも出掛けたり……」
人間だった頃の話をするリィンが寂しげだったのは俺の気のせいでは無いだろう。
「その時の習慣、って事か」
「……半分は合ってる」
膝の上に置いた布に包まれた荷物を、大事そうにぎゅっと抱き寄せたリィン。
「祈る事でボクは、人間であった時の記憶にしがみついてるだけ」
俺は息を飲んだ。すぐに言葉にする事は出来なかった。ゆっくり、ゆっくりその言葉の意味を考えて、口にする言葉を選ぶ。
「……もしかして、自分が人間であった時を忘れない為、か?」
「うん」
躊躇うかと思ったが、リィンは迷わず肯定した。
「人を殺す事を厭わなくなって、吸血鬼のなり損ないとして生きる事にも慣れて……どんどんボクの中で人間としての感情が、感覚が薄れていくのが分かった」
吸血鬼のなり損ないとなったリィンは、両親に会いに行く事は出来なかったのだろう。自分が会いに行けば両親に迷惑が掛かる、と、抑えていたに違いない。
そして恐らく、そのまま。
「だからボクは祈る、普通の人間として生きていた時と、同じように」
人間としての枠組みから離れた敬虔な少女は。
「神様なんてボクには見向きもしない、ボクも神様なんて居ないと思ってる。それでも」
家族を失い、平穏な日々も途絶え、吸血鬼のなり損ないとなってもなお、微笑んだ。
「私だった頃を思い出せる、大切な儀式なの」
「リィン……」
まるで夢を見るように、いや、覚めた後の楽しかった夢を思い出すかのような表情で。
人を殺しても何も感じないくらいに慣れてしまったリィンが人間としてその死を悼む事の出来る、大切な儀式だと。
「これがマコトの問いに対する答え……満足?」
「ああ、よく分かったよ」
素の自分を出してしまったからからやや憮然とした顔で此方を横目で見るリィン。
「……少し話し過ぎた」
「俺はリィンの話が聞けて良かったよ」
「こんなに話すつもりじゃなかった。マコトは聞き上手」
顔は平静を装っていたが、象牙色の布を握る手が少し忙しなく動いていて、まるで子供みたいだな、と思った。いや、子供だったんだよな、本当なら。その普段よりも少し幼く見える振る舞いに、何だか父性のようなものを感じる。
「そっか、それなら」
「……マコト?」
席を立った俺は、リィンが先程まで立っていた光の柱の中へと入った。カーテンのように包まれる日差しが暖かい。
「……俺も、祈りたくなってね」
生憎、リィンのように敬虔さとは無縁な人生だったが、今この時だけは。
手を合わせ、頭を下げ、俺は静かに祈った。
「……何を祈った?」
「俺が殺した男の人の冥福を。それと」
「それと?」
「リィンの幸福を、かな」
そう言って笑い掛ける。
同情なんかでは無い。救いを求めて幼き頃の習慣に縋るこの目の前の少女に、少しでも幸せな事が起こると良い。ただ、そんな気持ちだった。
祈る、のとはちょっと違う。どちらかと言えばそうなって欲しい、という願いだったのかもしれないが。
「……マコトの馬鹿、格好付け」
顔を俯かせたリィンの表情は見えない。光の中から見ているから余計に。
「はは、そうだな」
ちょっと無神経な事だっただろうか。
人に勝手に幸せを祈られて、気分が良い人も少ないだろう。前の世界に居た時、街頭でそんな事を言って付き纏ってくる人に困った事もあったな。謝っておいた方がいいか。
「でも、嬉しかった」
そんな風に考えていた俺に。
「有難う、マコト」
リィンはゆっくりと近寄り、そして抱き付いた。
薔薇のような甘くて芳醇な香りが、鼻腔をくすぐる。まるで大輪の花束を抱きしめたようだ。
「リ、リィン!?」
「これも、人間だった頃を思い出せる行為」
「そ、それはそうかもしれないけど」
「太陽の光も、ボクにはもう冷たさしか感じられないから」
自嘲するようなその言葉に、俺は少しばかりの躊躇いの後、リィンを抱き寄せた。日除けになればいいな、と思った。
陽光に照らされるリィンを気遣ってだ、他意は無い。それでも、女性に不慣れな自分でもそんな行動が取れたのは、きっとリィンだからだ。
「あんまり、日に当たるのは良くないだろ?」
「闇夜のローブも着てる、マコトのお陰で平気」
俺の影に隠れたからか、お腹に顔を埋めていたリィンは俺の目を真っ直ぐと見上げた。
赤い瞳が、いつもより潤んでいるように見えた。ぎゅっと、回された腕に力が込もる。
「暖かいか」
「うん、暖かい」
ぽつりと言葉を交わす、それだけで何故か満たされた気持ちになる。
人間として生きられないのに人間である事を忘れられない矛盾を抱えたリィンが少しでも心休まるのなら、俺に出来る事はしてあげたいという気持ちで一杯だった。
どうして俺だけを暖かいと感じるのか、それは誰にも分からなかったが、今はそんな事どうでも良かった。
「まだ知り合って間も無い俺が、こんな事を言うのは無神経かもしれないけど」
「うん」
「……よく、今まで頑張ってきたな。凄いと思う、リィンは偉いよ」
この腕にすっぽりと収まってしまう位、小さな身体に色々な業を背負わされて生きてきたリィンに尊敬の念を覚える。
さっき俺を褒めてくれた時と同じように、言葉を掛けたくなったのだ。
「……馬鹿」
腹部に顔を埋めたまま、暫くリィンは顔を上げなかった。なんだかそれが、俺には泣くのを堪えているように見えた。
「マコト」
「どうした?」
「……頭、撫でて」
流石に自分の言った言葉に恥ずかしさを覚えたのか、服を掴む手に力が篭った。それを指摘するなんて野暮な事はしない。求められたなら応えよう、と抱き寄せる為に回した掌で優しくリィンの髪に触れる。
「リィンの髪はさらさらだな」
「ん」
一瞬だけ身体がぴくりと固まったが、リィンは何も言わなかった。自分でも分かるくらい辿々しい手付きで触れた純金の髪は、絹の糸のように滑らかだった。手に引っかかる事も無くて、いつまでも触って居たくなる。
「懐かしい。寝る前、父さんがよく撫でてくれた」
「そっか」
「嵐の夜、怖くて泣きそうな時もそれだけで凄く安心したのを覚えてる。弟も好きだった」
「リィンには弟がいたんだな」
思わず口にしてしまった、とばかりにリィンの身体が固まる。腰に回された腕が解ける。
「……ごめん、今のは忘れて」
リィンの身体は俺から離れ、ゆっくりと後ずさる。夢から覚めるように、自分から温もりを拒絶するように。
「……」
その顔には感情が無かった。絨毯大咬蛇に手傷を負わされても、冒険者達に悪態を突かれてもどこ吹く風だったあのリィンだったが、その時とは違う。無表情なのに、とても苦しそうに見えた。
「リィン、今は聞かないよ」
「……」
「弟の事も、どうしてリィンが吸血鬼のなり損ないになったのか。そして、リィンが何の目的で冒険者になったのか」
本当に大事な、核心に至る事実をまだ俺は何も聞いていない、それでも。
「それでも、俺はリィンと居るから」
俺は今、漸くリィンに向かって一歩踏み込んだんだ。焦る必要は無い。リィンが一歩離れるか、同じように踏み込んでくるかは分からないけれど。例え離れたとしても、近付いてくれるまで待てば良いだけの事だ。
時間はまだまだ一杯あるのだから。
「だから」
「……分かった」
沈黙を守っていたリィンが、ぽつりと呟く。
「分かったよ、マコト。今はまだ、上手く話せない。それはボクの問題だから気にしないでいい」
「あ、ああ、分かった」
「でもいつか、いつか話せる時が来ると思う。それまでは」
言葉を切る。そのまま、ぽすん、と俺に寄り掛かった。抱き着くのではなく、支えにするかのように。
「近くに居て、マコト」
先程よりも軽い触れ合い。でも先程よりもずっと近い距離にいる。そう感じた。
「ああ、任せとけ」
俺は何だか嬉しくなって、リィンの髪の毛を先程より幾分乱暴に撫でた。
「マコト、雑」
「ああ、ごめん、なんかテンション上がっちゃってな」
「変なの」
それでもリィンは文句を言うでも、離れるでも無くされるがまま。暫くそうして戯れあっていた。
「そうと決まれば、これからマコトをきっちり特訓しないと。勝手に野垂れ死んでは困る」
「お手柔らかに頼むよ」
「泣いたり笑ったり出来なくなる程度には」
「それ全然加減されてないな!?」
「冗談」
離れたリィンはローブのフードを目深に被ると、いつものように象牙色の布で包まれた荷物を大事そうに背負った。がちゃがちゃと硬質な物が擦れ合う音がする。
「さ、帰ろう。アリスが一人で寂しがってる。そろそろ支度してサルナンの所にも行かないと」
「そうだな、戻ろうか」
俺は教会の扉を開けた。大通りの喧騒が遠く、でも確かに聞こえる。街はもう動き出していた。
リィンを先に通し、教会の扉を閉める間際、中を覗き込むと光の柱は薄らと消えかかっていた。太陽の位置の所為だろう、後数分もしない内に消えてしまいそうだった。
いつか光の中で、屈託無く微笑む彼女の姿が見えるだろうか。
そんな事を考えながら、俺はリィンの背中を追い掛けた。




