022.『幼い頃の無知さを知ってなお』
テーブルに備え付けの魔法灯の明かりに照らされて、桃色の短毛に包まれた兎耳が、ひょこひょこと揺れていた。同じように、暗い空色した瞳も黒縁眼鏡の奥でゆらゆらと揺れていた。
それでも、その口元に精一杯の笑みを浮かべて。
「私の昔の話、聞いてくれる?」
アリスはじっと俺の顔を見つめて、そう言った。俺はソファーに身を預けながら、その瞳と向き合う。
「勿論、俺で良ければ」
「……ふふー、有難う、マコトくん」
初めて人を殺した夜に、思い詰めて震えて眠れなかった俺に、アリスは会いに来てくれた。きっとそれは優しさでもあり、信頼でもあるのだと思う。
初めて会った時は、敵だと思われていた。仲間に、リィンを害するなら息の根を止めると暗に脅されていた。しかし誤解が解けたその夜、アリスは俺をパーティーに加入しないかと誘ってくれた。そして一緒に冒険者としてやっていく事を喜んでもくれたのだ。
人間である、俺を。
虐げられ、恨みを抱いているだろう人間の、俺をだ。
「断られたらどうしようかと思ったよー」
アリスは甘い林檎の香りのするハーブティーに口をつける。リラックスしている状態での所作が実に自然で、見惚れてしまいそうだ。
「断ったりしないさ」
「うん、マコトくんならそう言ってくれると思ってたけどねー、でもやっぱり色々考えちゃうじゃない?」
同じソファーに寄り添って座る。互いの肩が触れ、薄い寝巻き越しに体温が伝わって、心臓が早鐘を打つ。
アリスは今、自分のカップに視線を落として、ゆっくりと言葉を選んでいるように見えた。俺が急かす必要は無い。アリスの話す準備が整ってからで良いと思った。
そのまま、少しの沈黙。でもそれを嫌だとは思わなかった。ぬるま湯に使っているような心地の良さがあった。
会って間も無いというのに、俺はリィンやアリスを信頼しているのだな、と改めて思う。アリスもそうであれば良いのだが。
「マコトくんはさ、誰かに大切な物を奪われた事、あるかなー?」
ぽつりとアリスは此方を見ないで呟いた。
「誰でも無い、自分の所為で全部壊されちゃって、取り返しが付かなくて……そうなった原因に復讐するしか、生きる意味が無くなっちゃって」
「……アリス?」
「今からするのは、そんな幼くて愚かだった私の、昔話だよ」
◆◇◆◇
私はね、ヴォーパルラビットっていう種族なの。この街よりももっと北の方で暮らしてたんだー。
大昔にね、大勢の魔物を統べる王と人間達との争いがあって以来、獣人達への当たりが強くてねー。見た目が違う獣人達も敵に回るかもしれないって、迫害される事も多くて仲間達は皆ひっそりと隠れるように過ごしてた。
それでもね、私達は平和だったし、幸せだったんだよー。御先祖様が作った里で、畑を耕したり、獲物を狩ったり、時には他の獣人族達と交流したりして、普通に暮らしてた。
実は私、族長の娘だったんだよー? 人間で言うならお姫様だね、そんな風には見えないと思うけど。え、通りで品が良いと思ってたって……ふふ、お世辞でも嬉しいよー?
お父さんもお母さんと可愛がってくれたし、色んな人達に大事に扱われてて凄く甘やかされたんだー。
世間知らずで、悪意に鈍感で。だから、あんな事が起きたのかもねー。
私が九才の誕生日を迎えて数日経ったある日、森の中で傷だらけの人間を見つけたの。木にもたれ掛かって眠ってた。薄汚れた金髪で、外套もぼろぼろで、武器も防具もくたびれて何日も魔物の生息する森の中を彷徨ってたように見えた。
放置したら、多分魔物に食べられちゃってたと思う。
だから私は助けなきゃ、って思ったんだー。
今自分達が隠れるように暮らしている、その原因の『人間』だったとしても。困っている人を見捨てる事は出来ないって思って。
勿論、里の皆には反対されたの。当然だよね、厄介事を持ち込まれるのは望んで無かったし。隠れて住んでいた訳だから、場所が知られるのも嫌だったんだと思う。
それでも私は無理を言って、手伝って運んで貰って看病したの。
次の日には目覚めたかな、その人は。私の姿を見て凄い驚いてた、まさか獣人に助けられるとは思ってなかったんだと思う。
私、頑張って看病したんだー。傷に薬草貼ってあげたり、身体拭いて上げたり、ご飯を運んだり。その甲斐あってか、すぐにその人は良くなった。
綺麗な金髪碧眼の、若い男の人だったよ。君のお陰だ、有難う、なんて言われて有頂天になってたりした。
お姫様扱いばかりで、自分で何かをするってなかなか出来なかったから。自分のした事を褒められる、それだけで嬉しかったんだー。
目立った外傷も無かったから、二、三日したらもう動けるようになってた。でも休んでる内に体が鈍っちゃってたから、もう少し居たら、って引き止めたの。里の大人達はすぐに追い出す気だったみたいだけどねー。
それから数日、その人と一緒に里や森を散歩したの。普段歩いている里の中や、里を見渡せる高さの木が生えた秘密の場所、近くを流れる川、色んな所を案内した。
色んな話もしたよ。その人が、とある国の身分の低い騎士の出で、作戦行動中に魔物に襲われて仲間達とはぐれた事。本当は騎士じゃなくて自由な冒険者になりたかった事。
そうそう、ファスタリアの話も初めてそこで聞いたの。冒険者達が集う街だって。何度か足を運んだ事があるけど色んな冒険者がいて、自分もそこで暮らしてみたい、って子供みたいに目を輝かせてたのを覚えてる。
その人の話がどこまで本当だったのか、嘘だったのか、今じゃもう分からないんだけどねー。
私がその人を拾って十日位経ったかな、もう体もすっかり良くなって、里を出て行く事になったの。今度は迷わないように、人の使う街道付近まで案内して。見送る人なんて私しか居なかったんだけど。
また会おう、なんて言われたよ。私も同じような事を言った、と思う。
恋、かと言われると分からないけど……うーん、好きだったのかなー? 九歳なんてまだ恋に恋してるようなものだし?
退屈だった日常に、私を肯定してくれる非日常が刺激的だったのかもしれない。多分、それだけだったのかもしれないね。
その人と再会したのか、って?
うん、すぐに会えたよ。
その人が帰った五日後、里に、騎士団が侵略してきたから。
私はその時、森の中を散歩していて異変に気付いた、だから助かったの。
一望出来る高い木に登って、里がめちゃくちゃにされるのをずっと見てた。
汚れた血に制裁を、なんて掛け声を上げながら、鎧を着た騎士達が雪崩れ込んできた。武器を振り下ろす度に、里の仲間達が一人、また一人と死んでいった。
難産で生まれるか分からないって言われて、それでも無事生まれて皆喜んだ赤ん坊も。
私が人間を助けた事を、アリスはいい子だね、って撫でてくれたおばあちゃんも。
あいつらは死に掛けの、いやもしかしたらもう死体だったかもしれない子供やお嫁さんや、家族を盾にして。里の大人達は抵抗したけど、駄目だった。
お父さんは最後まで大きな声で、逃げろ、って叫んでた。あれは多分、そこに居ない私へ向けてたんだと思う。自慢の綺麗な桃色の毛並みを真っ赤に染めて、お母さんが剣を振り回してた。二人とも囲まれて、刺し貫かれて地面に倒れるまで、息絶えるその瞬間まで、皆を逃そうと必死だった。
笑ってたんだよ、あいつら。
ざまあみろって。人に害する人外めって。
私達が何したのかな。人間達が迫害するから、ひっそりと生きてきたのに。その人間を、死に掛けていた人間を助けたのに。
火矢が、炎の魔法が、暮らしていた家を、育てていた畑を、皆の亡骸を燃やしていった。私の住んでいた里は、半日も経たずに灰になった。
その中に、居たんだ。金髪碧眼の彼が。
俯いていたから表情は分からなかったけど、見間違える訳無い。そして、分かったんだ。
彼が、あいつらを連れてきたんだってね。
◆◇◆◇
「それが、私の過去の話。人間を心底嫌いになった出来事」
お茶はすっかり冷めていた。そんな事が気にもならない程、俺はアリスの話に耳を傾けていた。
「他の種族の集落に行って、惨状を伝えて保護して貰ったの。そこで生きていく道もあったとは思う、でも私はどうしてもその人を許せかったの。ファスタリアに行けば、いつかその人に会えるかもしれないって思ってねー?」
アリスは最初と同じように、俯いてカップの水面を眺めていた。時折揺れていたのは、きっとその時の感情が湧き上がっていたからだろう。
「最初は人間達に囲まれて生きていくのが酷く苦痛だったよー。でも依頼をこなしている内にファフやアラネ、ブエルやラウムに出会えてね」
先程の過去の話をしている時よりも幾分明るい声色だった。
「ファフは森の奥で他の冒険者に盗まれた卵を保護して、アラネは身体が白くて他の仲間達から爪弾きにされていた所を、ブエルやラウムは敵に襲われていた所を、私が助けたの」
そうか、仲魔達にとってアリスは命の恩人、それ以上の存在なのだ。だからこそ、甲斐甲斐しくアリスの世話を焼き、共に戦いへと赴くのだろう。
「冒険者になったお陰で、リィンちゃんとも会えたしね」
互いに秘密を抱える者同士、通じる何かがあったのだろう。リィンもアリスの事を信頼しているのはこの二日間一緒に過ごしていれば分かる。
「そして、マコトくんにも」
自分の名前が呼ばれて、思わず隣を見る。アリスは、優しく微笑んでいた。つん、と俺の寄ってしまった眉根を指で突く。
「だから泣きそうな顔、しないでいいんだよー?」
「……う」
想像以上に重い、アリスの過去を聞いて心が掻き乱されていたのをあっさりと見透かされていた。
助けた恩を仇で返される。真偽は分からないが、結果としてアリスのした行為の所為で、アリスは家族も仲間も帰る場所も失ったのだ。
なんて酷い話だろう。アリスはどれだけ苦しんだのだろう。
「ありがとね、マコトくん。私の話を聞いてくれて。そしてごめんね、こんな話聞かせちゃって」
「どうして、俺に話してくれたんだ?」
先程ティーカップの水面を眺めていた時に震えていた、何年経っても忘れられない苦い痛い思い出の筈だ。誰かに話して、昇華出来るような内容では無い。
それなのに、アリスは笑ったのだ。
「ふふふ、なんだろうねー、私なりの覚悟、なのかな? 今でも知らない人間は嫌いだし、私の里をめちゃくちゃにした人達を八つ裂きにしてやりたいって気持ちもあるよー? だけど」
「だけど?」
「私の為に、自分の手を汚してくれる人がいたから。私も向き合わないと行けないのかなーって。マコトくんに聞いて貰ったら、気持ちの整理がつくかなー、なんてね」
「……そっか、アリスは強いんだな」
「強がってるだけだったりしてー?」
軽口を叩きながら、アリスは冷めたお茶を口にする。辛い過去を飲み込むようにも見えた。そんなアリスを見習って俺もカップの中身を一息に飲み干す。冷めても十分に美味しく、仄かに甘く瑞々しい果実のような香りが残った。
こんな風に、アリスの未来が変わっていければいいと強く思った。
「あー、いっぱい話したら何だか眠くなっちゃった」
アリスが来てから一時間は経っただろうか、まだ夜が明ける気配は無いが大分遅い時間だ。
アリスは背伸びを一つ、そのまま立ち上がるかと思いきや、黒縁眼鏡をテーブルに置き、その場でごろんと横になる。丁度俺の太腿が枕になるような態勢だ。アリスが華奢な脚を伸ばしても十分に横になれる程の広さがあった。
柔らかな癖っ毛の薄桃色の髪の質感を、寝巻き越しに伝わる肌の温もりを感じた。
「アリス、眠いなら部屋に戻った方が」
「ええー、もう動きたくないよー」
どうやら動く気は無いらしい。どうしようか、と辺りを見回すとソファーのすぐ横にブランケットが畳まれているのが見えた。手を伸ばして二枚取ると、一枚をアリスの身体に掛けてやる。もう一枚は自分の肩に羽織った。
「わぁ、マコトくん紳士だねー?」
「茶化すなよ」
「あ、ねぇ、一つだけお願いしてもいい?」
「ん?」
「……頭、撫でて貰っていい、かなー?」
照れた顔を隠すようにブランケットで顔を隠すアリス。昔の話をしたからか、いつもより何処となく幼く感じた。いや、実際はまだまだ子供だ、前の世界なら制服を着て学校に通っているような年頃だ。
その歳で親を亡くし、頼れる仲間も失い、一人で生きてきたんだ。そう思うと、愛情に飢えているのだろう。
俺は返事の代わりに、アリスの頭に触れる。兎耳を潰さないように、優しく。薄桃色の髪の毛がさらさらと指の間を通って気持ち良い。
見上げてくるアリスの暗い空色の瞳が少しだけ、潤んでいた。
「マコトくんは、裏切らないよね」
ぽつりと呟いた。
弱々しく、儚げで、縋るような響き。
「当たり前だよ。だから安心しておやすみ、アリス」
「ん……おやすみマコトくん」
そんなアリスの不安を和らげようと、俺は出来るだけ優しく声を掛けた。その言葉を聞いてアリスは穏やかな微笑みを浮かべ、瞳を閉じた。
そっと手を伸ばして、テーブルの魔法灯を消す。暗くなった室内で、すぐにアリスの寝息が聞こえる。
今日は色んな事があった。初めての依頼に、追い剥ぎ達との戦闘、初めて人を殺して。
そして、アリスの過去の話。自分が悩んで苦しんでいるように、アリスもまた悩みや苦しみを抱えていた事を知れた。
こんな日々も、想いもいつまでも忘れないでいたい。
起こさないように撫でていたが、漸く眠気が襲ってきた。アリスの暖かな体温のお陰かも知れない。
その心地良い温もりをその膝に抱えながら俺は意識を手放した。




