014.『落ちてきそうな、月』
静寂に包まれた、明かりが消えた室内。窓の外で煌々と照る満月と、真っ直ぐ俺を見つめているリィンの赤い瞳だけが灯る。自分の輪郭すら曖昧なのに、その爛々と光る瞳は闇など何の問題にもならないんじゃないか、と思ってしまうくらいに輝いていた。
「人間じゃ、ない?」
「うん。正確には、元人間だった」
聞き返すしか出来なかった俺に、リィンは躊躇う事なく、淡々と語る。
「今のボクは吸血鬼のなり損ない。人間と不死の狭間に揺蕩う存在」
リィンはそういうと頬に貼っていた布を無造作に剥がす。絨毯大咬蛇との戦いで負った切り傷が、そこには、無かった。まるで元から傷など負っていなかったかのように、何も。
ーーこの子の体は消毒薬の代わりになるんだよ、すぐに傷口が塞がる訳では無いけどねーー
俺が靴擦れを負った時に手当てしてくれたアリスの言葉が蘇る。アリスの言葉が本当なら、傷口自体を治す力は無い筈だ。
「見ての通り、ボクは多少の損傷は問題無い。例え腕を切り落とされたとしても、くっ付けていればその内繋がる程度には」
「……アリスが布を貼ったのはそれを隠す為だったのか」
「元々アリスが世話焼きなだけ」
少しだけリィンの頬が緩んだような気がした。リィンにとってやはりアリスは大事な友人なのだろう。
しかし吸血鬼か、しかもなり損ない、とリィンは言った。ファンタジーとしての存在は映画や小説、様々な媒体で知ってはいる。共通しているのは人間の生き血を啜り、人間では凡そ行使する事の出来ない不思議な力などを持っている事。
そしてーーその力の代償。
「なぁ、吸血鬼は日の光に弱いと聞いたが、本当なのか」
「それは本当。でも、ボクはなり損ないだから純血よりは平気。それにボクが着ていた闇夜のローブは纏うと光に対して抵抗が付く。あれがある限り、昼間でも活動は可能」
「夜だけ出歩く、なんてのも難しいだろうしな……」
幾ら魔法の明かりが存在する世界だとしても、人と生活リズムが違う、という事はそれだけで注目される。冒険者ならもしかすると、誤魔化せるのかもしれないが……。
「この事は、冒険者ギルドの人は知ってるのか?」
「知らない。ボクが冒険者登録をしたのは数十年前、その時はこことは違う所だったし、登録の形態も違う。プレートを使う事になったのもわりと最近。更新の際に書類は作り直したから、ボクが吸血鬼だというのを知ってるのは、アリスだけ」
つまり、それだけ知られないように生きてきたのだろう。それも数十年……数十年!?
どう見ても十代にしか見えないリィンが、実は自分よりも年上だった、なんて思いも寄らない出来事に俺は驚きを隠せなかった。嘘だろ……。
それを見てどう思ったか、リィンの目線が窓の外をちらりと向く。月の光に照らされた横顔が、まるで彫像のように綺麗で、神々しくて、吸血鬼とという禍々しい存在とはどうしても思えない。
いや、美しいからこその怖さ。何処か人間離れしている、という意味ではそうなのかもしれない。
「マコトが驚くのも分かる。吸血鬼はいってしまえば魔物のような存在。人間からしたら恐怖の対象になりえる」
何処か遠くを、リィン自身の過去を見ているように、リィンは自分を嘲るように笑ったのだ。まるでそうなった時を思い出したかのように。
「人間の形をしているのに、容易く人間を殺せる膂力。細切れにしない限りは死なない対死性ーー化け物。マコト、それが今、キミの前に立っている」
赤い瞳が、一際鋭く細められた。瞬間、大咬蛇を目の前にしたような震えが、俺の意思とは関係無く訪れた。いや、それ以上かもしれない。あれだけ暖かさを感じていた先程の時間が嘘みたいに、まるで冷たい深海に放り込まれたかのようだ。
リィンの殺気に当てられただけで、理解した。リィンの語る事は全て本当なのだと。その気になれば、リィンは野花を摘むように、俺の命を容易く断つ事が出来るのだと。
「だから、パーティに入るとマコトもそんな目で見られる。バレたら迫害されるだけじゃ済まない、討伐される対象にだってなる。普通ならそんな愚を犯さない」
「リィン……」
「どうする、マコト。化け物と仲間になんて、なれると思ってる? パーティ加入を取り止めるなら、今の内」
自身を化け物と評したリィンの顔は、出会った時のような無表情になっていた。まるで俺を拒絶するように、ただひたすらに冷たく。背筋に寒気が走るくらいに。
言葉にするのは難しいが、ここで何も言わずに背中に触れているドアから外に逃げれば、それでこの話は終わるだろう。そうなればリィンは追ってくる事は無い。もう、会う事は無い。
でも、と俺は身体に力を込める。こんな時こそ、不適に笑うんだ。
「驚いていたのは、何十年も生きていたって所だな」
「……死体は歳を取らないから」
「そもそも、死体は動いたりしないんじゃないか? なんて、リィンの前で言っても説得力ないか」
震える足で、ゆっくりと一歩、前に踏み出す。リィンがぴくり、という体を震わせた。
最初にリィンが吸血鬼だと告げた時、眉根を寄せたのを俺は見逃さなかった、とても忌々しそうに。
何に対して?
それは多分ーー吸血鬼になってしまった事だ。
元人間とリィンは言った。そうだ、人間だ。傷口は塞がると言った。でも、痛みを感じない訳では無いだろう。バケモノだとも言った。でもそれは違うな、と思った。
とても脆い人間の心を持ったまま、体だけ人間じゃないものに変えられてしまった。リィンが望んでいないというのに。
そんな、辛い事だったのではないか、と思う。
「俺は、確かにリィンの過去を知らない。リィンがどうして吸血鬼のなり損ないになったのか、その後どうやって過ごしてきたか」
一歩、一歩とゆっくりと、リィンに近付く。気付けば、震えは消えていた。迷いはもう無かった。
「アリスとどうやって知り合ったのか、どうして冒険者を続けているのか。どうして……そんなに、俺に優しくしてくれるのか」
「優しくなんかない」
「なら、なんで俺にこの事を打ち明けてくれたんだ? 黙っている事も出来た、誤魔化す事も出来た。それなのに教えてくれた、自分が辛い思いをするかもしれないのに」
俺に教える事で、自分が化け物だとバラされるかもしれない。アリスが、自分の大切な友人が、それに巻き込まれるかもしれない。俺が人に言いそうにないから、だけじゃ説明が付かないその事実は。
気付けば、俺はリィンの目の前に立っていた。純金の髪が月光に照らされて淡く輝く、白い肌だって同様に、ただただ美しかった。
「約束するよ」
「……何を」
「この秘密を墓場まで持っていく事を。リィンが俺を信用して自分の事を打ち明けてくれたように、俺もリィンのその信頼に応える事を、誓う」
リィンの赤い瞳が揺れる。もう、その目に鋭さは無かった。そこには、年相応というには少し違うけれども、子供のようにあどけない少女がいた。
「だから、リィン。いや、リーダー。俺を君のパーティに入れてくれ」
俺は頭を下げた。例え、リィンが自分で言うように化け物だとしても、それが一体なんだというのだ?
沈黙が耳に痛い。数秒か、数十秒か、その長い静かさの後に、
「……仕方ない」
リィンは、ぽつりと呟いた。顔を上げると、困ったような眉根を寄せて、でもーー何処か嬉しそうにリィンは笑った。
「もし約束を破ったら、死ぬまで、なんて言わない。死んでからもこき使うから」
「リィン、それじゃ」
「うん、改めて宜しく、マコト」
そう言って、小さな、本当に小さな手をおずおずと前に差し出した。この手にどれだけ重い宿命を背負ってきたのか、俺には分からなかったが、優しく握り返す。相変わらず、冷たい手だった。
「暖かい、ね、マコトは」
「さっきの握手の時も言ってたな、それ」
「一度死んだ者に温もりは伝わらないから。この身体になってからずっと、ずっと寒かった……」
次の瞬間、まるで咲き誇る大輪の花のような香りが鼻腔をくすぐる。リィンが、俺の胸にその身を預けたのだ。
「リィン、何して」
「こんなに暖かいのは、何十年振り」
まるで夢を見るように呟いたリィンは俺の胸に顔を埋めたまま、まるで眠るように目を閉じた。こんな美しい女の子が自分の腕の中にいるという事実に、体温が急激に上がるのが分かる。心臓が、聞こえるくらいに強く脈打つ。
そんな俺の変化が、リィンには丸分かりだったのだろう。胸元に耳を押し当てて、微かに笑ったのだ。
「心臓の音、煩い。生きてるんだ、ね」
「リィン……」
「ーーお願い、もう少しだけ、このままで」
しがみつくように服を掴まれて、俺はもう振り解く事が出来なくなった。まるで母親に甘える、生まれたての赤ん坊のようだ。離れないでとねだるように。
最初に握手した時、なんて冷たい手だ、と思った。それはリィンが吸血鬼のなり損ない、人間としての生命活動を殆ど止めてしまっているからなのだろう。こうして触れ合ってる箇所でさえ、寝巻き越しに冷たさが伝わる。
リィンは、ずっと、この冷たい現実を抱えて生きてきたのか。
出会って間も無い、まだどうして吸血鬼になったのかも知らない。それでも、この冷えた体を、リィンの冷たくなってしまった心を、こんな俺が少しでも暖められるなら、と思い、そぉっと両手を背中に回して遠慮気味に抱き締める。リィンからの拒絶は無い。
気の利いた言葉の一つでも掛けてあげられるならば良かったのだが、何も言えずに、お互いに何も言葉を発せず、それが気まずいとも思わずに、暗い部屋の中で俺とリィンは静かに抱き合っていた。
今にも落ちてきそうな満月だけが、俺達を見守っていた。
◇
暫く抱擁していたボク達だったが、どちらとも無く身体を離した。離れた瞬間に、今まで触れていた熱がゆっくりと冷めていくのを感じて、思わず手を伸ばしかけたが自制する。これじゃ、初めて砂糖菓子を与えられた幼子と一緒じゃないか。
「じゃ、その……ゆっくりおやすみ」
「吸血鬼は眠らないから平気」
「それなら、また明日な、リィン」
「ーーまた明日」
彼、マコトはそう言って微笑み、部屋を出て行った。ぱたんとドアが閉まり、軋む足跡が十分に遠ざかったのを確認してから、ほうっ、と息を吐く。
マコトは、不思議だ。この辺じゃ珍しい、黒い髪。瞳だって同じように黒だ。気の弱そうな幼い顔付きに寄らず、ここぞと言う時は意思が強い。そして、私が感じる事の出来る温もりを持った、人間。
出会ってまだ一日も経っていないというのに、付き合いだけは長い他の冒険者や人間達よりも、気を許してしまっている自分がいる。それは今までで一番の友人、アリスとも少し違っている。
アリスが太陽のような明るさで引っ張ってくれるなら、マコトは月のような優しさで受け止めてくれる、そんな感じだ。振る舞いの端々に余裕、というよりかは落ち着きがあって、それは生死がすぐ隣にあるこの世界とは違う世界の人間だから、なのかもしれない。
先程まで触れていた手を、満月の光に晒す。透けてしまいそうな程に白い掌で、まだ微かに残る温もりをぎゅっと握り締める。胸元に抱き寄せ、ただその温もりが消えるまで、その余韻を感じていたかった。
「……」
数瞬、すっかりと冷たくなった体をソファーへと沈める。その隣には、布で厳重に包まれたもの。その沈んでいた物体に手を伸ばし、いつもするように、手慣れた手付きで、巻かれていた象牙色の布を解く。
ずっと、背負っていたもの。そしてこれからもずっと背負っていくであろうもの。
最後の布が、はらりと床に落ちた。布を解いたその中には、人骨が収められていた。小柄な頭蓋骨に空いた眼窩の闇は深い。深いと感じる。その二度と合う事が無い視線を偲ぶ。遠い、遠い記憶だ。それでも忘れる事が出来ない程に。
「大丈夫、こんな目に合わせたあいつは私が必ず殺すから。だから、まだ待っていてね、カーネ……」
ボクは双子の弟の遺骨に触れる。その自分と同じ大きさをした亡骸は、自分と同じように冷たかった。そうだ、一緒なのだ。握り締めながら窓の外に視線を動かす。
ああ、もう月は落ちていた。




