存在意義
終業間際のこの時間、この部屋には誰も来ないのを知っている。
それでも私は、部屋の隅の物影に隠れてひざを抱える。
社会人になって、この職場にきて五年。
始めて職場で泣いた。しかも上司の前で。
思うに、人の前で泣くなんて、負けを認めるようで、惨めな感じがするから。
だから私は人前で泣かないようにしていた。
もし泣くなら、人目のないところとか、家に帰ってから泣く。
実際今までは、かえり道で泣いたことはあったが、ほぼ、家に帰ってからだった。
考えてみると、今の時代職場で、上司の前で泣く人は珍しくないらしい。
一年目の時、ある日給湯室に駆け込んだ私に先輩が声をかけた。
きょとんとする私に「泣いてるかと思って」と先輩はいった。
よく思い出してみれば、小6の修学旅行の時も班決めでもめて、籤引きとなり私だけ意にそぐわぬ班になったことがある。
その時も私は泣かなかった。泣きたくて、泣きたくて、でも、そこをぐっと我慢した。
後ろから肩を叩かれた私は、我慢して笑顔で振り返った。肩を叩いたのは、担任だった。
担任は、泣いていると思ったようで吃驚していた。
だから、目上の人からは、私は泣かないと思われるらしい。
でも今日は限界だった。
どうも今の主任と合わないのだ。
色々毎日言われるし、会議でみんなの前で責められたりする。
もちろん、全員が同じように言われるならわかる。
しかし、同じくことを先輩が言ったら通って、若手が言ったら却下なのだ。
それを主任は、「私は、若手育成している」と思っている。
そんな毎日を過ごしている中で、今度ある発表の原稿、書類のやり直しをひたすら指示されていたのだ。果てには休みの日に、メールがきたり、ファックスまで来たのだ。
そして、今日、リハーサルをしていたのだが、リハーサルの最中に来て、引っ掻き回していったのだ。
そして、帰り間際呼び出されてみんなの前でお説教。
「今日のあれは、どう思ってやったのか」から「普段からちゃんとしてない」「頑張ってるのが伝わってこない」「しゃべり方がおかしい。声が大きくなったり、小さくなったりしてうゎんうゎんとなっていて、何を言っているのかよくわからない」などなど、否定され続けた。
泣くものかと思っていたけど、どうにも無理だった。
もし、私があの時のメンタルなら、泣かなかったかもしれないけど、年をとって涙腺が弛んでいるのかもしれない。
結局、「どう?」と聞かれて絶賛落ち込み中の私は、
「どう?と聞かれても自分の浅はかさが露見するばかりです。ダメすぎて、この仕事が向いてないことがよくわかりました。私なんて死ねばいいのに。」
と答えた。
何時も思うことだけど、主任の言い方は遠回しに「この仕事、向いてないんじゃない?やめれば?」と言っているように聞こえるのだ。
落ち込み、涙をこぼす私に、泣かないと思っていた相手は慌てる。
その場にいる人たちもざわざわとしている。
きっと、この子には何を言っても大丈夫と思っていたのだろう。
何に対しての大丈夫なのか、知らないけど。
私が泣いてしまったことにより、話は切り上げられた。
話が終わって、誰も来ない部屋の隅で体育座りをする。
そして静かに袖を濡らす。
私が存在する価値はあるのだろうか。
いくら考えたって答えはでないけれど、これからの自分の行動の予想はできる。
きっと、残業をして残りの仕事を片付けて、帰ったら書類の手直しをして、明日も何時もと同じようにここに出勤するのだろう。
私を二十数年やってれば、簡単に思い付く。
そうおもって、涙を拭いて、暗い足取りで仕事に戻るのだった。