42話 家族
ふと気が付けばすっかり日も落ちて、人工的な光だけが辺りを照らす。
今日は月は顔を見せてくれない様で雲が空を覆い、暗さに拍車を掛けさせている様にも感じた。いつの間に曇りになったのかは分からないが昼間の空は雲一つ無かった様にも思える。空に執着していた訳では無いから確信がある訳では無いけれど。
この慣れ親しんだ生徒会室で一人、最奥の席に座る。
椅子に顎肘を付いて足を組む。誰も居ないこの部屋は決まっていつもノートPCの画面が生む光が仕事をしないまま発光し続けていた。
結局、今日の生徒会会議は中止。私が生徒会長に就任してからは今までそんな事は一度も無かった事から役員達は酷く驚いた様子だったが理由を聞く事もしないままに皆、渋々帰宅して行った。
会長補佐の紫も自分の役目を果たそうと、残ろうという仕草は見せたものの、私の目を見た途端に飛び上がるようにしてこの生徒会室から姿を消した。
別に、生徒会に何か問題があった訳でも、業務に支障をきたした訳でも無い。ただ単にやる気が起きなかった。めんどくさかった。何をすることも無く、何をする気も起きない。只々椅子に座って天井の片隅を見つめれば時計の秒針が加速していく。凝縮した体感時間の対価として脳裏には彼の表情が浮かぶ。
もうこうして何時間夢想すれば私の心は自己満足を覚えるのか。
4年前。
数人の不良男子生徒がいつもの様に喧嘩を売って来た。私の態度が気に食わないと。その喧嘩も勿論私が売る様に仕掛けた訳だが。
幼少時より武道を嗜んでいる私が負ける訳も無く、数人相手なら結果は瞬殺。
当時、中等部2年生の私は未だに喧嘩を最高に楽しんでいた時期。今思えば、少しやり過ぎていた。喧嘩が終わった頃には、一見すれば誰が誰なのか顔で判別出来ない程に痛めつけた。これで終わりにしたくない私は、キチンと報復したくなるように丁寧に踏みつけて罵倒すれば、相手の堪忍袋の緒が切れるのは当然の事だったのかも知れない。
喧嘩をそれなりに嗜んでいて、暗黙のルールをキチンと知っている彼らでもそれを破らせるくらいに。何を言っているのか分からないくらい激情してポケットに忍ばせていたナイフを取り出す。
愚かな私はそれすらも楽しんだ。殺す気で来ると言うのは、私に対して本気になっている証。社会性を捨て去って私という個人しか見ていない証拠。そんなキチガイの様な愉悦に浸っていた。
勿論私には相手を刃物で刺す気なんて毛頭無かった。只、その瞬間を楽しめれば良かったのだから。武道を嗜んでいるからと、高見の見物を決め込み天狗になっていた故に背後からもう一人迫っている事に気が付かないまま、その瞬間は訪れる。
感情は人を伝っていく。その激情が仲間に伝染していた。
刃物をヒラリと躱せば行き場を無くした刃は、背後に迫って私を捕らえようとしていたもう一人に突き刺さる。
辺り一面、血。真っ赤に染まったコンクリートの赤い模様が徐々に広がった。救急車のサイレンが響き渡り、人が集まる。
結果、全治6か月。気が付けば、蛍光院家が動いており事件そのものの存在が抹消されていた。
そんな事があっても、私自身何も変わらなかった。ただ次の喧嘩を探しただけだ。
結局、たった今涼君の事を未練がましくこうして思い浮かべて想いを馳せても、私には実際その資格は無い。考えたくないと言えば嘘になる。それでも出来れば考えたくはなくて、それなのに考えない事はどうしても出来そうにない。
今思えば、この一年は本当に不思議な時間で。
冗談と笑顔に塗れた日常が続いていた。私自身、少しづつそれに同調していく感覚が嫌いじゃなかった。ふと気が付けば、楽し気に笑っている自分を自分で嘲笑しながらも、もう少しだけ続いても良いかなんて偉そうに。
それがどんなに掛け替えの無い物かも知らないくせに。
無くしてから初めて気が付く。それが宝物だという事に。
価値とは人それぞれ。それでも皆同様に求めるものがあり、そのために体裁を取り繕う。それを失わないようにと。
人間大人になるにつれてそれを少しずつ学んでいく。人は一人で生きていけないというのは嘘だ。それでも一度誰かと心を通わせれば、それが心に強く残ってしまう。
無意識に誰かを好きになってしまう。
幸せとは、お金でもステータスでも無い。ましてや、複数の異性から好意を向けられる事でも無い。
たった一人の誰かと嘘偽りない気持ちで関わる事がどんなに困難で幸せな事かなんて私が一番分かって、痛感して来た筈だったのに。そんないつまでも忘れられない小さな理想すら気が付けば消えていた。
そんな事に今更気が付いても、それすらももう全ては手遅れで。
自己嫌悪と後悔が一心にこの身を襲う。
誰も居ないこの生徒会室で私は今日も立ち上がれないまま、空に目を向ければ未だに曇り空は晴れそうにも無い。机に置かれた今週〆の生徒会の作成資料は綺麗に真っ白。それを手に取れば、自然とまた彼の顔が脳裏に浮かぶ。
もうとっくに終わりの筈なのに、身体は未だに諦めきれないのか頬を一筋の涙が伝う。
この涙を流し終えたら、もう涼君の事を考えるのは最後にしようと、もう何度目か分からない決意を心に立てる。
コピーされた資料。インクの文字が涙で少しだけ滲んだ。
―――――
街灯が帰路を照らす。見慣れた道をいつもと違う景色に見せる。きっとこの景色の見え方の違いようは俺自身の変化によるものなのかも知れない。
もうすっかり日は落ちて、普段ならもう夕食を食べている時間帯。
ポケットに入っているスマートフォンを再度確認すれば、唯からの返信は未だに無い。それでも「既読」のマークが付いている事から察するに一応見てはいるみたいだ。
唯と栞先輩。
俺は二人の関係性は知らない。今までの二人はそこまで仲が悪かった様には見えなかった。別段、仲が良かった風でも無さそうだった訳だが、唯と向日葵の関係の様に表面に表す程のものとも思えない。
勿論これは推測で実際の所は分からないが、それでも今回の事は少し腑に落ちない。唯のあの顔色はいつもの唯じゃない。どう見ても冷静を装い切れていない唯の表情。兄妹ゆえに分かる微妙な機微。
唯と栞先輩はもしかしたら喧嘩しているのかも知れない。
だとすれば、俺の中の心当たりは一つしか無い。
俺が階段から落ちた一件。タイミング的に考えてあれが引き金になった様に思える。今思えば、あの件で唯が憤りを感じていても何ら可笑しくは無い。それ以前に栞先輩を警戒していた事も、今になっては今回の事と関連付けられている様にも思えた。
唯の性格も踏まえれば、それは可能性として十分にあり得る。
我が家に到着すれば、傍から見て家の電気が付けられていない事に違和感を感じた。
いつもなら、外からリビングの明かりが玄関外に漏れて来る筈だ。時間的に考えても、夕食の準備をしていると思ったのだが、リビングに今は居ないのかも知れない。
家に居ないという事はあまり考えられない。約束している訳では無いが夕食を共にしない事は滅多に無いし、もしそうだとしても必ずお互いに連絡を入れ合う。それが喧嘩中だったとしても必ず。
鍵を差し込み回す。
一度の開錠で開かれる扉。
家の中はリビングだけで無く、一つも灯りが灯されていない。2階の自室に行く前に普段そこに居るであろうリビングを覗く。電気を灯すスイッチをカチリと押した。
誰も居ない。勿論、夕食の用意もされていない様だった。
妙な感覚に襲われながらもリビングを後にして、2階に続く階段を登る。
いつもはさして気にならない、家が軋む音が嫌に響く。自室を通り過ぎて、唯の部屋の前まで歩みを進めた。
ここからでは物音は聞こえない。
コンコン。
2回ノックを鳴らす。
「唯? 居るのか?」
少しの静寂。返事は無い。扉の向こうには人の気配は感じられなかった。
それでも唯が無断で夜に出歩く事は今まで一度も無い。俺は不躾ながらゆっくりと彼女の部屋の扉を開く。
扉を開いた反動で空気が外に送り出され、妹の香りが少しだけ鼻孔を擽る。室内に目を向ければ、そこは真っ暗では無かった。それでも明るくも無い。飾り気のない学習机に設置された小さなライトのみが光を発している。
少し視線をズラせば唯が無表情でベッドに腰を掛けていた。
俺が入って来ても此方に視線を移す事も無く、ただ茫然と彼女はそこに座り続ける。まるで俺に気が付いて居ないかのように。
「唯。」
彼女の名前を呼ぶ。
それでも唯は微動だにしない。
その雰囲気はまるで息をしていないのでは無いかと思ってしまう程、生気を感じられない。きちんと目を開いているのに、その瞳には感情という色を全く感じなかった。
こんな妹を見るのはもしかしたら初めてかも知れない。そんな考えが頭を過る。
ゆっくりと近づき、唯のすぐ横に座る。
彼女の肩に手を添えれば、ようやく少しの反応が返って来る。それと同時に唯は口を開いた。
「……涼。先に言っておく。私は辞めるつもりは無いから。」
その一言に自分の予想が的を得ている事を確信した。
やはり唯と栞先輩はもめ事を起こしている。彼女は間髪を入れずに、次の言葉を発する。
「涼がこういう事が許せない事は分かってる。でもそれと同じ様に私にも許せない事がある。何を言われても私は辞めない。」
まだ何も言ってはいないのに、唯は俺がこれから言うであろう言葉を予想して先読みしている様だった。
唯の目を見つめれば、その瞳には強い怒りが込められている。
唯の許せない事。
それはきっと凄く簡単な理由だろう。
――――家族を傷つけられた。だから許さない。
きっと俺も唯と同じ立場に立ったら同じ気持ちを持つのだろう。
唯が誰かに傷つけられたら同じ怒りを覚えるのだろう。きっとそれが唯の近しい人でも。俺達は中の良い兄妹同士。感じる感情もきっと似ている。
今回の件について唯が取った行動の全てを把握している訳では無い。しかしそれらが正しいものでは無かった事は、彼女の雰囲気を見れば薄々気が付く。本来ならば唯はキチンと怒られる立場にあるのだと思う。
この後何かしらの処罰を覚悟している様な口ぶりと雰囲気。
しかし俺はそんな妹を見ても叱る気になんてなれないし、叱るつもりも毛頭無かった。それが例え、唯があの階段での出来事以前に唯が何かしらの行動を取っていたとしても。
唯の手を両手で包み込む様に握る。
この無色透明の様な表情も刺々しい口調も、今はとても愛おしく思えてしまう。
「唯、ありがとな。」
その一言に瞳を大きく見開く。驚く表情と共に此方を見る妹に笑顔を返す。
「―――っ! な、なんで!?」
「だって俺の為に怒ってくれたんだろう?」
「……え……?」
「俺が怪我をしたから唯は怒ってくれたんだろ? それで栞先輩に仕返ししようとした。違うのか?」
「い、いやそうだけど……そうなんだけど……そういう事じゃなくて! 涼はこういう事大嫌いでしょ!? 聞いたら怒るでしょ!?」
唯は虚を突かれたかの様に動揺している。
「まあ……そうかもな。確かに本当なら俺は怒らなきゃいけないのかも知れない。でも俺の為を想ってしてくれた事を怒る気にはなれないよ。ましてやそれが可愛い妹なら尚更な。」
そんな俺の言葉に少しの間驚く事に忙しい唯はハッとしながら慌てて体裁を整える。染められた髪を手櫛で撫でるようにといている。
此方の様子をチラチラと伺いながら、恐る恐る唯は俺に問う。
「じゃ、じゃあ……止めないの……?」
「いや、勿論止める。」
キッパリと言い放つ俺の一言に再度唯は素っ頓狂な声を上げる。
「――っえぇ?」
「当たり前だろ。妹にそんな事してるのを俺が許す訳が無いだろう。」
「意味わかんない。結局どっちなの?」
「俺はただ俺の為に怒ってくれた妹が可愛くて仕方ないだけなんだよ。そんなに俺の事に向き合ってくれた事は本当に嬉しい。……でもこれ以上はダメだ。そんな事をするのは家族として許さない。」
包み込む様に握っている手を強く締める。
強い視線を唯に送れば、彼女もまた負けじと見つめ返して来る。
「それはダメだよ。私も涼が想ってくれる以上に涼の事大好きだよ。でもそう思ってくれればくれる程、私も譲れない。私も家族として許せないんだよ。」
「唯、わかってる。」
「涼……涼は、わかってないよ……。」
ポツリと呟いたその言葉には痛いくらいに唯の気持ちが籠められているいる気がした。そんな妹の顔を見ていると心が締め付けられる。
「わかってるよ。だから……だから代わりに俺が話しに行くよ。」
それを聞いて唯は飛び上がる様に顔を此方に向ける。
「なんで!? なんでそうなるの!? それが一番だめだよ! あんな酷い事言われてなんで話しに行こうと思えるの!?」
叫ぶ様な悲鳴にも似た妹の声が部屋に響いた。
唯がこんな大声を荒げるのは珍しい。それでも今は強い気迫を放つ唯に臆する事は出来ない。ここで視線を逸らす事は許されない。
「俺がそうしたいから。後悔したくないから。」
「私が……そんな事、許すと思う?」
「許して欲しい。俺は自分の意志で栞先輩と話しに行くつもりだよ。唯にも家族として同意して欲しい。妹の反対を押し切って行かせないで欲しい。」
「そんな言い方ずるいよ……。」
「ごめん。でも絶対に行くよ。例えどんな邪魔が入っても、どんな想定外な事態に陥っても、何があっても行く。」
その台詞を最後にお互いの間には沈黙が訪れる。
握っている手を離す事も無く、それでも決して穏やかな雰囲気とは言い難い、張り詰めた空気。しかしそれもいつまでも続くわけじゃない。唯はこういう時、我慢強くない事は俺にはよく分かっている。
交差する視線に熱が籠れば、唯は少しずつたじろいでいく。
彼女の瞳が小さく揺れれば、根負けしたかのように息を深く吐いた。
「涼は、こうと決めたらホントに聞かないんだから……。」
「それは、お互い様だろ。」
「さあね。でも私は何を言われてもあいつを許さないから。」
「ああ、いいよ。でも一つだけ俺のお願いを聞いてくれないか?」
唯は首を傾げる。
「なに?」
「怒った唯はもう見たくない。別に許さなくたっていい。でも機嫌は直してくれないか? 俺の妹はご機嫌の時が一番可愛いんだよ。」
俺の笑顔に初めて唯が視線を逸らす。
頬を少し赤く染めている所を見るに照れている様に見える。もしかしたら少し臭い台詞過ぎたかも知れない。それでもこんな妹の恥ずかしがっている姿が見れたのなら、偶にはこういうのもいいだろう。
いつもの様に妹の頭を優しく撫でる。猫の様に気持ちよさそうに目を細める様を見れば、普段の柔らかい雰囲気に近いものを感じた。
握った手を離そうとすれば、ぎゅっと握り返される。
唯の顔を覗けば、少し悪戯そうな笑みが映し出されて。
「ねえ涼。」
「ん?」
「そういえば、まだご飯作ってないや。どうしよっか。」
「うーん。折角だし、偶には一緒に作ろうか。」
そんな妹を間近で眺めてふと思う。
きっと俺はどんな状況に陥っても、妹の味方になってしまうのだろう。
何時如何なる時も今までずっとそうだった様に。
今回だって唯が栞先輩にした事について詳しくは何も知らないが、それでもやはり思う所はある。しかしそんな状況でさえも俺の事を必死で考えてくれる唯を見ると嬉しくて仕方が無い。やはり俺にはシスターコンプレックスの毛があるのかも知れない。
そんな俺の心中を察するかのように妹は言う。
「うん。それは無い。」




