40話 逆光
心臓の重みが取れないまま、ズッシリとした感覚が朝からずっと続いている。
4時限目の授業ももうすぐ終わりを迎えようとしている。今の授業は何だったか。
そんな事すら頭に入らないまま黒板を眺めれば、歴史の授業の様で。
過去、この日本で起きた壮絶な出来事を教師から黒板を伝達して伝えられても、残念ながら俺の胸中は栞先輩の事で一杯だった。
結局の所、病院でウジウジと数日考えても俺の中に的確な答えが生まれる事は無く、それどころか俺の頭の中は更にぐちゃぐちゃに掻き乱されたかのように混乱していくばかり。
どうすればいい、なんて抽象的な問いを自分に繰り返し問い続ける。
こうしてずっと一人で考え込んでいると、どんどん考える方向性はネガティブなものに変わっていく事に自己嫌悪を覚えてしまう。
そんな負の連鎖を断ち切ろうとでもするように様に、授業の終わりを告げる鐘の音が教室に鳴り響く。
キーンコーンカーン……。
開く必要も無かった程に真っ白なそれを見て、溜息を付きながらノートを閉じれば、横から鴇雄介の声が耳に入る。
「涼ー飯行こうぜー。」
「ああ、そうだな。」
特に意識する事も無く返事を返す。
席から立ち上がろうとする仕草を取った所で、不意に後方からチョンチョンと背中を突かれる感覚を感じた。
何気なしにくるりと振り返れば、まあ当然と言えば当然なのだが後ろの席であり、元彼女でもある芹沢優奈ちゃんと目が合う。優奈ちゃんは少し気まずそうな表情を浮かべながらも一応は此方に笑みを飛ばして来ている。
「あ、あのさ……。」
俺は突然元カノに話しかけられるという緊急事態に、明らかな挙動不審ともいえる態度を取ってしまう。
「どどど、どうしたの?」
「う、うーんとね。少し話せないかなと思いまして……。」
正直驚きを隠せない。今後、芹沢さんから話しかけて貰えるとは思っていなかった。
瞬時に雄介に対してジェスチャーで状況を伝えれば。長年の付き合いが功を奏したのか、一応は意図が伝わった様で、近づいて来ていた態勢を変える事無くそのまま距離を取っていく。
「も、勿論ぜぜんイイケド!」
「急になんかごめんね。」
チラチラとスマートフォンを見ながら、此方を気遣ってくれている。
相変わらず笑顔が良く似合う。とても優しそうなその笑みはふと失恋の痛みを少しだけ思い出させた。チクリと胸に痛みを覚える。勿論、未練がある訳では無いが、こうして面と向かって話し合うとどうしても平然を装い切れない。
「いえいえ。お気になさらず……。」
そんな俺の不自然に固まった様子を見て、俺の心境を察してくれたのかも知れない。少し口元を緩ませる彼女は一層気を使ってくれている様に見える。
「最近元気……だった?」
「いやまあ、ぼちぼちって感じかな?」
「そういえば、なんか救急車で運ばれたって聞いたけど、大丈夫だったの?」
「あー、全然大丈夫大丈夫! 大した事無いからさ。あはは。」
「そっか……それなら良かったんだけどさ。」
少しの空白。
周りの生徒が教室の外に向かってどんどん減って行く。
お互いのこのギクシャクした雰囲気の中、ふと一つの疑問が生まれる。
こんな他愛のない話をするために、芹沢さんは話し掛けて来たのではないだろう。俺と話たいがために態々昼休みに引き留めるとも思えない。
「その……さ。俺になんか話があるんじゃないの?」
「んー……。ホントは、足止めしておいてって頼まれたんだけどね。」
「え? 足止め?」
「でもせっかくだし、あの時の事謝ってもいい?」
芹沢優奈ちゃんは少し目を伏せる。
あの時の事。具体的な事は言わなくても流石に気が付く。
恐らく俺が唐突にフラれた時の事を言っているのだと。理由を聞かされる間もなく、一方的に別れを突き付けられた。確かにあの時は少し納得出来ない部分もあった。
それでも俺は、彼女の前では自然とカッコつけてしまう。
「別に気にしないでいいのに。」
「……ダメだよ。私が一方的に決めちゃったんだもん。今はそのことを凄く後悔してる。」
その瞳を真っ直ぐ見つめ返せば、少し鼓動が早くなる感覚が俺を襲う。
つい、此処が教室だという事を忘れてしまいそうになる。
「そっか……。じゃあ芹沢さんがそれで気が済むのなら。」
「ありがとう。えっとね、あの時は急にごめんなさい。」
そう言ってぺこりと頭を下げる。
「うん、いいよ。今更だけど、理由とかって聞いてもいいのかな?」
「そ、それは……。」
その問いに彼女は居た堪れなさを滲ませた態度を見せた。
彼女のその態度を見て俺自身少し後悔してしまう。正直聞きたくない気持ちの方が強いのに。
もしかしたら、他に好きな人が出来たのかも知れないし、言いずらい事を態々聞き出す必要も無い。
俺は慌てて身振り手振りを振るい誤魔化そうと必死になった。
「あーいや、言いたくないなら全然良いんだ。なんかごめんね。俺の事、好きじゃなくなったんなら今更聞いても仕方無いのにね……。」
「ち、違うよ! そういう事じゃないんだよ! 別にそういう事じゃホントに無くて……。」
「え……?」
「む、むしろ凄いその……私は、圷君の事……す、す……。」
そんな彼女の言葉を待ちながら唾を飲み込む。
周りから放たれる騒音も今は全く耳には届かなかった。俺の心拍数は彼女と視線を合わせる程、高くなっていく。
それ故に、俺のすぐ横に迫っている影にも気が付かなかったのは、正直盲点だったとしか言い訳出来ないのだが。
「おいコラ……。ちょっと足止めしといてっつー話が、なんで告る流れになってんだよ。」
よく聞き覚えのある声。
それは俺の知る知り合いの人達の中でも特に聞き覚えのあるもので。
その声が聞こえた途端に冷や汗がドっと噴き出た。自分の動物故の危機感地能力が必死に「逃げろ」と告げて来ている気がした。
それでも恐る恐るゆっくりとその声の方向に視線を向ければ、今にもキレだしそうな表情を此方にギラギラと向けている向日葵の姿がすぐ隣に迫っていた。
「向日葵……なんで此処にいんの?」
そんな俺の質問にまるで無視を決め込む向日葵。
同時にギロリと今にも刺さりそうな目線を芹沢さんにも向ける。
「優奈ー? 何やってんの?」
「べ、別に普通に話してただけだよ?」
少しドモりながら、どこ吹く風な顔をしている優奈ちゃん。
向日葵はそんな芹沢さんの態度に小さく舌打ちを打つと、当てつけの様に此方に鋭い意識を向けてくる。
「まあ今はいい。ちょっと涼ちゃんこっち来て。」
明らかに怒気を含んでいる声でそんな事を言い放ち、俺のネクタイを掴んでグイグイと引っ張りながら教室の外に連れて行こうとする。当然ネクタイを雑に引っ張れば首元がきつく締まっていく。
「おい! 向日葵! そのひっぱり方はやめろ!」
「いいからちょっと来いっつってんだろ!」
怒っている。明らかに怒っている様子の向日葵は俺の言葉を一切聞こうともせず、教室の外にひっぱり出され、廊下の壁に追いやられる。俺はとにかく向日葵を宥めようと両手をヒラヒラと振りながら弁明を繰り出した。
「そんなに怒んなよ! 別に如何わしい事をしていた訳じゃない!」
「ふーん。」
目を半開きにさせて、此方を睨み付ける向日葵はそれ以上何も言わない。
腕を組み、俺の全身を舐めまわす様に懐疑の視線を向ける。
少しの間を置いて、鋭い視線をようやく外してくれたと思えば、ボソリと呟く向日葵。
「て、てか、まだ優奈の事……」
「ん?」
「い、いやだから……まだ優奈の事……好きなの?」
「もう別れてそれなりに時間は経つし、俺は吹っ切れたつもりだけど……。」
「ふ、ふーん。あっそ。」
目を逸らしながら頬を少し染めて、腕を組みながら指をトントンと叩いている。
俺もそんな向日葵を眺めながら、頭をポリポリと掻いた。
少し微妙な空気が二人の間に流れる。
これはやはりあれだろうか。この前の告白から考えて、ヤキモチを焼いているのかも知れない。これは非常に気まずい。正直、こんな時にどうすればいいのか全くを以って分からなかった。
兎に角、幼馴染との不自然な気まずさを吹き飛ばすためにも、話題を切り替えるくらいしか俺には思い付かない。
「それで、足止めって何のことなんだ?」
「あー、優奈に涼ちゃんが昼休みどっか行かない様に、待たせておいてって頼んだんだよ。」
向日葵も俺の一言に本題を思い出した様だ。
「なんで? てか、そんな事しなくてもメールくれればいいじゃん。」
「涼ちゃんメール気が付かねーじゃん!」
「いやまあそうだけど……電話でもいいし。」
「電話なら気が付いた? ホントに?」
鋭い目付き。向日葵さんは再度怒気を一身に顕わにする。
俺はスマートフォンを定期的に確認するタイプでは無い。メールが来ていても気が付かない方が圧倒的に多い。電話についても同様にマナーモードに設定している為か、掛け直すのが数時間後、若しくは次の日になってしまう事も多々ある。そんな俺と連絡を取り合う事が多い幼馴染の心境が今の向日葵の鋭い雰囲気を作り出しているのかも知れない。向日葵は今にも怒り出してしましそうだ。
もし次に文句を言ったら、確実に蹴りが飛んでくる事だろう。
「いや、スイマセン。多分気が付きません。」
「でしょ。私が今まで何回メールと電話スルーされたと思ってんだよ……。」
「い、いや……それは誠に申し訳ないというか……俺あんまりスマートフォン見ないし……。」
「まあ、そゆこと。」
「それで何の用だったんだ?」
そこで向日葵は初めて俺の目を真っ直ぐと見つめた。
「涼ちゃん。体育倉庫に行って。」
俺は訝し気に向日葵を見つめ返した。
「なんで体育倉庫?」
「理由は行けば分かる。今は説明している時間無い。」
時間無いのに、さっき優奈ちゃんの事で絡んで来たのか。という疑問は、あえて口にしない事にした。それでも向日葵のその真剣な眼差しを見れば、そこに何かあるらしい事は伝わって来る。
せめて理由くらいは話して欲しかったが、向日葵の雰囲気を察してその指示に肯定を示す。
「わかった。」
そんな俺の返事に彼女はボソリと呟いた。
俺の耳には小さすぎて届かないとてもとても小さな声を。
「…………唯を止められるのは涼ちゃんだけだから。」
――――――
――――昼休み。
計画通り少し早めに体育倉庫に到着。蛍光院栞を待ちながら。計画を脳内で復唱していく。
私を見張っていた向日葵の眷属達を巻くのにはそこまで苦労は無かった。というよりか皆同様に授業を受けているのだから、授業が終わってすぐに教室を後にすれば良いだけだ。
生徒会長補佐の水島紫は上手く事を運ぶ事は出来ただろうか。
尾行しているのは二人いる事に気が付いているといいのだが。
片足に重心を掛けながら、染められた白い髪の毛先を指でクルクルと弄ぶ。
背後からガチャリという効果音と共に音の方に振り向けば、覇気の無い表情を映す蛍光院栞の姿がそこにはあった。此方をジッと見つめて様子を伺っている。このまま黙っていても向こうから口を開ける事は無さそうだ。私はそんな生徒会長の何とも言えなくなりそうな雰囲気に溜息を付く。
「遅かったね。」
「……。で? 話とは何かな……?」
何とか口調はいつもの体裁を整えて居る様だが、いつものオーラは全く感じられない。それだけこれまでの私の手が効いているらしい。それにしてもここまで精神的に脆い女だとは思っても見なかったけれど。
「そんなに身構えないでよ。そんなんじゃこっちも話しにくいし。」
ここまで来れば、もう敬語なんて使う必要も無い。
これが最後。これで終わり。このやり取りで生徒会長でありこの学院の支配者である蛍光院栞は涼の前から消え失せる。
私は見計らったかのようなタイミングでゆっくりと近づいて行く。
彼女は只々此方見つめ茫然と立ち尽くす。
一見臆している様には見えない。だが、交戦する意志も無いようだった。
「まあ言葉を交わす気も無いけどね。」
冷たい言葉。本当に自分の口から出ているのかと、一瞬疑ってしまう程に。
しかしまあそんな事は今更どうでもいい事で。
私はすぐ目の前まで迫った蛍光院栞を容赦なく蹴り飛ばす。
ガンッ!
前蹴りの様な押し込む感覚で蹴られた彼女は、特に抵抗する気も無いのか。脱力しているかのように思い切り倒れ、背後に置かれた跳び箱に背中を強打しながらコンクリートの地面に尻もちを着く。
その行為を受けても、特に驚いている様子は見受けられない。
前髪が乱れ、表情は伺えない。
そんな気の抜けた態度に強い苛立ちが自分を侵食していきそうになる。
「ふふっ。いきなり乱暴だな。」
ふらふらと立ち上がろうとする彼女の鎖骨の辺りを、体重を掛けるようにして踏みつければ、重心を抑えられた彼女の身体は再度地面に叩きつけられる。
そのままジリジリと踏みつけるとその顔には苦痛の表情が少しだけ浮かんだ。
「誰も立っていいなんて言ってない。」
「普段とはえらく酷い変わり様だな。こんな事をしてタダで済むと思っているのか?」
こんな状況に慣れているのか。そんな事を冷静に返す生徒会長。
私は片手を額に当てながら深い溜息を再度吐いた。
こんな気の抜けた事を言って来ている時点でやり返して来る気は無さそうだ。
勿論、私は暴力という手段は普段あまり取らない。そもそもそういう頭が悪そうな行為は嫌いだ。しかしここまで精神的に追い詰めても何もやり返して来てくれないのなら、これしかもう手は残されていない。そもそもこれまでの全ての布石は私に対して、酷い事をさせるのが目的だったのだから。
これで逆上して手を出して貰えれば勝利は確定だったのだが、そんな気力ももう残っていないらしい。
まあそれでもここまで戦意喪失しているのなら、そんな事もする必要が無い。
戦意喪失している原因が結局の所、涼にある。それならば、今までと何も変わらない方法で十分。涼を盾に取ればそれでいい。
どちらにせよ、私がどうなろうとそれはもうどうでもいい話だった。
「そんな事どうでもいい。それよりもこれ以上、涼に近づくな。」
「指図される云われは無い……。」
蛍光院栞の瞳には未だに微かな光が見て取れる。
あんな事があったのに、まだ下らない夢を見ているのかも知れない。
私は軽く口元を緩ませる。彼女にはこれが馬鹿にしている印だという事くらいは伝わっているだろう。
「もしこれ以上涼に近づくなら、涼は転校させる。」
「何を馬鹿な事を言っているんだ……? お前は只の妹だろう? そんな事を言いだして涼君が本当に了承するとでも思っているのか? 」
「涼の考えは関係ない。あんな事件を起こす様な生徒会長が居るような学校には置いておけない。ましてや、理事まで任されているような人となってはね。」
「只の妹の君にそんな決定権があると?」
「さあ。でも両親が聞いたらきっとこう思うだろうね。「息子が不良とツルんでる」ってね。あんな傷害事件を何度も起こす様な人が近くに居るんだから。そんな学校に息子を通わせられないよね。うちの両親はそういう所、凄く過保護だから。こんな事がもし知られたら、きっとすぐに転校させられちゃう。」
勿論これはブラフ。うちの両親はそこまで過保護なんかじゃないし、そんな事で転校なんてさせる訳も無い。しかしそんな事は家族じゃ無ければ分からない事。
私はあたかもそれがこれから起こり得る未来の様に語る。
「あーあ。涼が可哀想……。こんな人の為に転校までさせられちゃうなんて……。ずっとこの学院に楽しく通って来たのに。貴方と関わったおかげでその責任を涼が取らされるんだよ。貴方と何の関係も無い涼が。」
蛍光院栞の瞳はゆらゆらと揺れる。
それは明らかな動揺。罪悪感が入り混じる様な瞳を此方に向けて来る。
「そ、そんな……。」
私の足で強く押さえつけられても多少の抵抗を見せていたその上半身から力が抜けていくのを感じた。
そんな彼女に目線を合わせる様にしゃがみ込む。
「ねえ蛍光院先輩……もう一度だけ聞くね。……これからも涼に近づくつもりなの?」
疑問形で話し掛けていてもこれが質問では無い事はキチンと伝わっている様だった。少しの間、沈黙が続く。
私は只々ジッと蛍光院栞の俯く目を見つめ続ける。
「…………ない。」
蛍光院栞は小さな声で呟いた。
「ん? なに? 聞こえない。」
「…………もう一切近づかない。」
「は? 誰に?」
「……涼君には……もう一切近づかない……。」
その一言が耳に届いて、口元に笑みを浮かばせる。
「ふふっ。良かった。お願い聞いて貰えて。」
「……ああ、良かったな。これで満足か?」
「ううん、まだ。キチンと涼にそう直接宣言して貰う。もう涼とは一切関わらない、と。それから涼は生徒会には置いて置けない。生徒会副会長を解任させて。」
一瞬驚きの色を見せるもすぐにまた俯く蛍光院栞。
「…………わ、わかった。」
その返事が聞こえてすぐの事だ。
背後の体育倉庫の唯一の扉が開かれる音がする。
ガラガラガラ。
扉の擦れる音が嫌な音を立てて、この体育倉庫に響いた。
「なに……してるんだ……?」
毎日聞いている声。
逆光で未だに顔が見えないが、その雰囲気と声だけで誰かなんてすぐに分かってしまう。
此処に涼が来る予定なんて無い。想定外の事態。恐らく向日葵の手回しだろう。しかし私は後を付けられてはいない筈。それなら水島紫の不手際か。あの女も使えない。
まあいい。これで余計な手間が省ける。
「涼。」
未だ、逆光でよく見えない彼の表情に声を掛ければ。
「ゆ、唯……。これは……。」
「蛍光院先輩が話したい事があるって。」




