4(善意)
※
おっす。あたしだけど。
吉川さぁ、ちょっと訊きたいんだけど。
え?
マリ子だって。水無瀬マリ子。
詐欺ぃ電話じゃないって。
今、いい?
数学が分からない?
分かった、分かった。
帰ってきたら勉強会しようよ──じゃなくて、町村のことなんだけど。
いや、茶化すなって。ちょっと訊きたいんだけど、小学校の頃のこと、あんた、なんか隠してない?
なんでって、いやまぁ、……電話あったんよ。いやホント。あたしが驚くっての。
それで、その……気をつけろって。
ね? 気持ち悪いじゃん。
前に話してくれたよね、いじめっこのこと。
一つ訊くけど、あれで全部? ほんとに?
いや、話したくないなら無理にとは──うん。
ハァ? するとヤツはいわゆる霊感少年って?
いやごめん。
そっか。視えるのか。
噂ね、噂。
でもそれがいじめなるかな。
あんたはどう思ってる?
分からないって──前もいったよね。
ほんとのとこ、訊かせてよ。あんたの、ほんとの気持ち。
いやそんなつもりはないけどさ、なんかあたしがいじめてるみたいじゃん。
うん、うん。……ごめん、無理に訊いて。ありがと。
そっちはどう? あはっ、田舎の大家族ってヤツを地で行ってるんだ。
涼しいってのはいいねぇ。こっちはだいぶ風が出てきたかな。
気をつけるよ、って、嵐の前ってどうしてテンション上がるんだろうね?
お土産楽しみにしてるよん。じゃあね。ありがと。
※
その晩、我が家は早々に寝ることに決めた。
父はラジオを寝室に持ち込み、母は非常用袋をリビングのテーブルに並べ、念のためにと、懐中電灯のひとつを差し出した。
「大丈夫よ」母の言葉に、父はわざとらしいため息を吐いてみせた。「会社、休みにならないかなぁ」ボヤく父に呆れながらも、ちょっとかわいいなどと思ってしまった。
そんな次第であたしは懐中電灯と、お茶のペットボトルを持ち込んで自室に篭城するにした。お菓子は母に没収された。
電気を消してベッドの上で横になる。エアコンは除湿にして、タイマーをセットする。
閉め切った雨戸を雨と風が激しく打ち付ける。ガタガタと揺れ、ザバザバと流れ伝う。
室外機が壊されなきゃいいけれども。
なんだか気分が高揚して、なんだかやっぱり落ち着かない。
右腕を額の上に乗せようとして、こつんとそれが当たった。
手首にきっちり律義に巻き付けたヒョウタン。
薄暗い部屋の隅に置いたクーラーボックスは努めて見ないことにした。
吉川から話を訊いた後とあっては、何もかもが気味が悪いのに、抗えないでいる自分がいる。
嫌なおまじない。
横にした身体を壁に向けた。
心なし家が揺れているようだった。
これはなかなかの大嵐だなぁと思いながら、いつしか寝入ってしまったらしい。その物音にあたしはぼんやり目を覚ました。
外ではかわらずバサバサと風が木々を揺らし、雨どいはジャバジャバと溢れ壊れそうな音を立てている。
湿度のせいか、湿っぽい、濁った水のようなにおいがした。
あたしはのそりと布団から身を起こして、腕に巻き付けたヒョウタンに触れた。
乾燥した表面は硬くて少しざらりとしている。
ガタガタと鳴る雨戸の音は、風の、雨の、嵐の作るそれではない。
空気の中に薄く、生臭い何かを感じた。刹那、ぞわっと総毛立った。
部屋の温度が一瞬にして下がった。
遠慮がちにトントン、と叩くようなその音はほどなくして、タンタンとやや強くなり、やがてダンダンと苛立たしさが混じり始めた。
誰かがいる。
誰かが外から雨戸を叩いている。
あり得ない。
ここは二階だ。
町村が、吉川があんなことをいったからだ。
変な話にすっかり感化され、いつもと違う嵐の晩で、だからそう聞えるだけなのだ。
あたしは腕に巻いたヒョウタンをぎゅっと抱きしめた。
気のせいだ。
全部、気のせいだ。
しかしそれは叩くのを止めるでなく、雨戸をギシギシと揺らし、いまにも外から開けようとするかに聞えた。
気のせいだ。
ぎゅっと目をつむり、自分に強くいい聞かせた次の瞬間──、
「マリちゃ……」
はっきり外から聞えた。
名前を呼ばれた。
ねっとり絡みつくような粘っこい声だった。
ガタガタと雨戸が鳴っている。あたしの身体は震えている。
マリちゃ……。
風に流されながらも確かに外から呼びかける。
恐怖で身がすくみ、洟をすすって目尻を拭い、ヒョウタンを抱きしめた。
滲んだ視界の隅に渡されてからずっと置いたままにしていたクーラーボックスを認めた。
開けずに、知らずに済むならそれでいい。けれども──今は?
絶対に開けてはならないと町村はいわなかった。
あたしはクーラーボックスを睨め付けた。
卑怯だ。
町村は卑怯で卑劣で恥知らずだ。
そんな判断、あたしにできるわけがない。
ガタガタと雨戸をゆする音が強くなった。
部屋の中の空気がいっそう生臭くなった。
ベッドの上であたしは両足を引き寄せ、両耳を塞ぎ、丸くなってヒョウタンを抱え込んだ。
何がおまじないよ、なにが善意よ、冗談じゃない!
マリちゃ……。
再び呼ばれ、不意にあたしは強い憤りを憶えた。
なんでこんな目に遭わなければならないのだ。
町村だ。
全部町村のせいだ。
這うようにしてベッドから抜け出ると、それの前で膝立ちになった。
青いクーラーボックス。濃緑色のベルトでがっちり縛られている。
近づいて生臭い元凶がこれにあるのを知った。
もはや開けずに、知らずにいられるとは思わなかった。
腕を伸ばし、ベルトに触れかけたその時、強い吐き気に見舞われた。
腐った水槽のような不快なにおいが強くなった。
それでもベルトに手をかけ、ほどいて中を開けようとして──手近にあったゴミ箱に顔を突っ込んでいた。せり上がった胃の中身をげえげえ嘔吐いて、消化しきれていない塊を戻し、咽喉が痛くなるまでげえげえ胃を震わせ、胃液だけになってもげえげえと吐き続けた。
口からだらりとぶらさがった胃液に鼻水が混じって、痛みと恥辱がまなじりを濡らした。
がっちりベルトが結わえられたままクーラーボックスはそこにあった。
手の甲で口元を拭う。
もう一度それに手をかけるにはかなり強い意思が必要だった。
それでも、どうにかしなければ。
腕を伸ばしたその時──、
ダン!
激しく雨戸が殴りつけられた。
心臓が跳ね上がり、息が詰まって、あたしはたぶん気絶した。