2(今年の分)
※
いつの頃からそれは習わしとなったろう。
気温と帰りのことを考え、夕方に自転車で外に出た。
「帽子かぶっていきなさい」と母にいわれたが、つばの広いそれでも眩しい西日、あんまし役に立っていない。
夏の前に冬の間伸ばしていた髪をショートにしたものの頭はすでに蒸れ蒸れだ。
小さなポーチを肩から斜め掛けにし、自転車カゴには仏壇キュウリ。
ビニールに入ったそれは産地だとかの印字されたシールが貼られている。
値段を見て、なんだか情けない気持ちが加速する。
セミとセミとの幾重の鳴き声、青く熟れた夏草のにおい。
熱気を含んだアスファルトから立ち昇る空気がむき出しの手足にまとわりつく。
川に架かる古い小さなその橋は近々取り壊される。
上流の方に車線を増やした新しいのが作られている。
それをきっかけにこんな習慣も終わりにしていいとあたしは思ってる。
橋の手前で自転車のスタンドを立てると、キュウリ片手に真ん中まで歩いていった。
欄干にもたれて川面を見下ろすと、涼しい風が吹き抜けて、しゃらしゃらと流れる水の音が耳に心地よかった。
そのまま暫く川の流れを楽しんでいたかったけれども、晩ご飯の前には帰らなきゃいけない。
この辺りは年に何度か事故があったりする。
伸びっぱなしの雑草で見通しも悪く、外灯もない陰鬱な旧い道。
さっさと用件済ませよう。
ビニールを破いて一本目のキュウリを取り出し、半分に折った。
振りかぶって「今年の分ですー」誰もいないのをいいことに、半ばヤケっぱちで川に向かって投げ入れた。
白い小さな水柱が立って消えた。「よろしくどうぞー」残り半分も放り投げた。
いったいなんの挨拶だ。
バカらしくなって袋ごと残りのキュウリをまとめて折ると、逆さにしてぼたぼたと川に落とした。
キュウリは流れの中に消えた。
空になったビニール袋を縛って小さくしていると、「何の儀式?」背後から声をかけられた。
そのときあたしは、情けないことに文字通り腰が砕けた。
欄干がなかったら川に真っ逆さまだったろう、身体を支えて声の方を向けば、ぬぼーとした風情で町村が立っていた。
抹茶色のTシャツの上に淡いブルーの無地のシャツ。
ベージュのハーフパンツにサンダル履き。
制服姿と違っていたのに、物珍しいよりなんだか奇妙に思えた。
町村は体勢を立て直そうとするあたしを尻目に欄干に近づき視線を川面に落とした。「ふうん」
何を納得した。
「もしかして毎年やってる?」
あたしは気恥ずかしさを隠すように身体をはたき、「別に」つっけんどんに応えた。ふと、誰かに見られたのは初めてだったのではと思った。
「キュウリ? お供え?」
あたしは咄嗟に嘘をつこうと思ったが真っ直ぐ見つめられて、結局素直に答えていた。「そう。お礼。昔、溺れかけたことがある」
「カッパか」納得したように町村は続けた。「尻子玉、抜かれなかったんだな」
「デリカシーって言葉知ってる?」
「聞いたことはあるけれど見たことはない」
最低だ。
あたしは相手がそうと分かるように不愉快な顔をして見せたが、当の町村は「ふうん」と、少しも気にしたようでなく目を細め、「カッパね」欄干に肘を突き、身を乗り出して再び川面に視線を落とした。
その横顔に居心地の悪さと気味悪さを憶えた。
「お礼は誰がいい出した?」
「お母さんかな」実際のところ、忘れた。
町村はふうん、また気のない返事をして、「カッパ、どんなんだった?」
「どうって……生臭かった?」そんな話をしている自分が不思議だった。「だからちょっとそういうの苦手」
「カメとかザリガニとかダメそうだな」
思わず、すっぱいおくびが小さく漏れた。
町村は気が付かなかったか、気付かぬふりをしてくれたか、「水無瀬ってカナヅチ?」
「苦手なだけ」見栄っ張りなのは分かってる。
町村は薄く笑った。「水無しの瀬なのにな」
むっとした。
しかしそれが幸したか、胃の奥の不快感は消えていた。
しばらくふたり並んで川の流れを聞いた。
「水の無い瀬は泥沼かもな」ふと町村は呟くようにいった。「もうやめたがいい」
「なんでよ」
「橋もなくなるし。昔話だから」
自分でもそう思ってたし、実際、それを理由に止めたいと思っていた。
けれども、他人に指摘されると、なんだか子供じみた反抗心を憶えた。「あたしの勝手じゃん」
「まぁそうだけど」町村は自分の首の後ろに手をやり、「あんましいいことじゃない」川の対岸へ視線を向けた。「境界っていうのかな。お盆も近いし──」少し間をあけ、いい添えた。「誕生日も近い」
それは不気味を通り越した。
ぞわっと背筋の産毛がよだつのを感じた。
「……関係ないでしょ」
「まぁそうだ」町村は両手をポケットに入れ、猫背気味に川の上流へ向き直った。夕日が赤々とその姿を燃やしていた。
町村とは橋の袂で別れた。
自転車に乗り、帰る道すがら、あいつは歩きで来たのかとぼんやり思った。
あんなヘンピなところによくまぁ一人で。
帰宅して母にこの妙な習わしを最初に誰がいい出したか訊ねた。
「お婆ちゃんよ」母はややもすると神妙に語を継いだ。「信心深いっていうのかな。私もあの時は確かに助けてくださいって祈ったけれども」やっぱりお供えだとかになるとねぇ、と母の声音は半ばボヤキに聞こえた。
※
翌日、町村が補習に出席していた。
まるで初日からいたようで、教室に違和感なく紛れ込んでいた。
補習中、あたしは席の位置からその後頭部をずっと眺めていた。
素直そうな髪質だとぼんやり思った。
たぶん触れたら川面のようにさらさらなんだろうと思った。
町村は帰りしな、その日初めてあたしを見て、一拍ののち視線をそらし、教室を後にした。