第1話 まものの森
長く伸びた紅色の雲が地平に横たわっている。そんな黄昏の空の下に、森があった。樹齢千年を越しているであろう巨木が、何本も立ち並び、その枝を複雑に絡め合っている。格子状に絡んだ枝と茂る葉で、森の土に光はあまり届かない。
その巨大な樹の、巨大な枝の上に、一匹の生き物が座っていた。
人間の赤ん坊のような姿だが、肌は黒色。そして腕が異常に長く、不気味な仮面を被っている。その生き物が仮面を片手で上にずらすと、大きな赤い目玉がのぞいた。
世間では、“魔物”と呼ばれる生き物だった。
その魔物は、何かの気配を感じ取ったのか、帽子を深く被るように仮面を下ろし、赤目を潜めた。
その直後、魔物の座っている樹のすぐ後ろに、爆音のような羽音を立てて、巨大な蛾が舞い降りた。それを認めた魔物は口元でニヤリと笑った。
蛾は森の上空に降りると、高い樹の上に何かを置いた。蛾が前脚を離すと、そこにいたのは小さな少年だった。
少年は怯えるように目を閉じていたが、やがてゆっくり瞼を上げた。するとそこにいたのは、空の雲にも劣らぬ巨体ではなく、ただの女性だった。女性は仏頂面で少年を見下ろしている。
「あなたはもう、いらないの。」
女性はそう呟いた。そして次第に頬を釣り上げ、歪んだ笑みを浮かべた。
「これで自由だ!!」
女性の絶叫と同時に、女性の皮膚が弾け飛んだ。その中から触角、昆虫の足、そして巨大な羽が飛び出した。女性の目は大きく飛び出し、変色して、女性は蛾の姿となった。
蛾は爆風を起こしながら舞い上がった。その風に煽られ、枝の上から落ちないように必死に踏張っていた少年は、夕闇に消えていく蛾を茫然と見つめていた。
辺りに静けさが取り戻された。未だ同じ枝の上にぽつんと立ち尽くしている少年の目は、焦点があっていなかった。
自分に何が起こったのだろうか。どうして自分はここに立っているのだろうか。全ての謎が、幼い少年の頭を支配した。
黄昏は、無情なまでに沈黙を保ち続けた。しかし、そんな沈黙は突然破られた。
「ケケッ、哀れな子供だね」
少年ははっと我に返り、周囲を見回した。しかし、声の主は見えない。
再び少年が目を戻すと、そこにあったのは、二つの大きな赤い目玉。
「だぁい好きなお母さんに、置いてきぼりにされちゃったね」
仮面の魔物が、少年の顔を覗きながら薄ら笑いを浮かべていた。少年は驚き、顔を強ばらせた。
魔物はククッと小さく笑い、ふっと浮かび上がった。
「本当のこと、教えてやろうか」