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ハムトラの二本足

「この道なら好きなだけ走っていいよ」

「わぁ! 何だかドキドキして来た」


 ハムトラに何かやってみたい事は? と、訊ねるとハムトラは「二本足で走りたい」と、即答したのだ。

 食後の重たい腹は運動に不向きだと感じたが、キラキラと輝いた黒い瞳で見つめられては、断る勇気が持てず、俺達はそのまま出たついでに近場の公園へやって来たのだ。

 この公園は適度に広く、周回できるランニングコースも整備され、走りたいハムトラと走らせる事に不安のある俺にも、うってつけの場所だった。


「いくよー!」

「俺は自信がないからゆっくり……」


 ついていくよ、そう言い切る前にハムトラは猛ダッシュで駆け出した。


「転ぶなよー!」

「ダイジョウブ!」


 ハムトラが着ている俺のジャージはブカブカで、ズボンの裾は何重にも折って、七部丈。

 そこから見える足首は、折れそうなほど華奢だったのに、地面を蹴って跳ねると、バネの様にしなやかに見えた。

 いや、ハムスターの姿の時だって、綿棒の軸のような細い足で、狂ったように走っていたのだから、大差ないのかもしれない。


 ハムトラは人間になっても早かった。

 後ろ姿は、あっという間に視界から消えた。俺も慌てて後を追い走る。

 しかし、少し走っただけで、わき腹に差し込むような痛みを感じた。

 呼吸する度に襲う痛みに、走るペースがじわじわと落ちていく。

 ランニングコースには脇に逸れる道も幾つかあるが、ハムトラは素直に真直ぐ走るだろう。

 追いかけるより、追いつかれるのを待つ方が早そうだ。

 しかし、ぼーっと立ち止まり、ハムトラを待っているだけと言うのも心配で、つい、たらたらと走ってしまう。

 こんなペースでも、息は上がるのだ。

 ニート生活のツケだ。これからは適度に運動をしよう。ついでに筋トレでもすれば、ひょろガリと呼ばれたこの身体とも卒業できるかもしれないな。

 新緑に見下ろされた心地よさから、つい長続きしない目標を立てていた。


 どん! と背中に衝撃を感じ振り返る。ハムトラだ。

 嬉しそうな笑顔が向けられる。


「遅いね!」

「ハムトラが早いんだって。で、どうだった?二本足」

「二本足も中々いけるね! 景色が変わるのも良かったよ」

「だろ?」


 ハムトラは、するりと俺の腕に絡み付き、俺の進路をくるりと変えた。

 柔らかく女の子らしい体と髪に触れ、意図せず胸が高鳴ってしまう。

 獣のような香りがするのは、ハムトラの体臭なのだろうか……。


「ねぇ、変な匂いがしたよ」

「え?」

「あっちから」


 視線の先には「ふれあい動物園」の看板がある。


「ああ」


 ハムトラの体臭じゃなかった。


「動物園があるんだよ、たいした動物はいないけど……行く?」

「わ! 行く行く! ハムスターいるかな?」

「ハムスターはいなかったはず」


 前に来た時に見たのは、馬とヤギ、そして膝に乗せる事の出来るウサギとモルモット。動物の種類が増えているとは思えない。


「人気ないのかなぁ」


 不満そうな声を出しながらも、ハムトラは俺の腕をぐいぐい引き、先を歩いていく。

 単独行動をするハムスターが仲間のハムスターに会いたいなんて思うのだろうか。


「ハムスターって可愛いけど、噛むからなぁ」

「そりゃ噛むでしょ! これ何? って思ったら、もう噛んでるんだよ!」

「止めてよ、痛いから」

「そう? サトシ嬉しそうだったけど?」

「……そんな事ねーよ! 噛むにしても血が出るほど噛む事ないじゃないか」


 ハムトラは「んー」と少し考える仕草をしてから、何か思い出したように、


「怖いハムスターでちゅねー、痛い痛いでちゅよー」


 そう言って歯を見せて笑った。

 かーっと耳まで赤くなったのが自分で分かった。

 ハムトラは俺の口真似をしてみせたのだ。

 横顔を睨みつけたが、ハムトラはさらに頬を緩め、うんと目尻を下げ「こんな顔で」で、とケラケラと笑う。

 正直その顔を可愛いと思ったが、恥ずかしさがさらに募り、頬をつまんでやった。




 ****




「調子はどう? 私はかなり良いよ。早く走ったからね。人間になったわけ」


 ハムトラはウサギを膝に抱き何やら話しかけている。


「アンタも高く跳ねたら人間になるかもね。居るでしょ? 神様的なヤツ」


 ウサギは一方向を向いたまま、無表情で鼻をヒクヒクさせているだけで、とても会話をしているようには見えない。

 それでもハムトラは「へぇー」とか「色々あるね、ウサギも」と世間話でもするように独り言を続けていた。

 俺はハムトラの隣で、モルモットのごわごわとした毛を撫でていた。

 その温もりは心地良く、ただ撫でながら「癒される」と口走っていた。


「お前も人間になる可能性とかあるの?」


 聞いては見たが、モルモットはただモゴモゴと口を動かし、咀嚼を繰り返している。

 のんびりした生き物だ。

 ハムスターのように手の中から逃げ出そうともしないし、ウサギのように跳ねたり、気まぐれを起こす事も無いように見えた。


「まぁ、人間になるより、ぼんやりニンジンでも食ってる方が良いよな」


 首の根を擦ると気持ちが良かったのか、モルモットはキュイキュイと鳴いた。


「サトシ凄いね! モルモットの言葉が分かるの?」

「へ? まさか。わかんないよ。ハムトラこそウサギの言葉が分かるのかよ」

「んー、分かるような、分かんないような。でも雰囲気で、なんとなーく、だいたい分かるんだよ」

「そんなもんかな」

「そうだよ。サトシだって私に色々話しかけるでしょ、例えば――」

「ちょ……! 口に出すなよ、恥かしいから」


 ハムトラは含み笑いをしながら俺を見た。


「だってー! 私、嬉しかったんだよね。空がピカピカ光ってゴーゴー音が鳴って、家がグラグラしてた日さー」


 きっと春先の嵐の夜を指している。

 雨は激しく窓や天井に打ち付け、室内にも轟音を響かせ、雷が近くで幾つも落ち、アパートは古さゆえに風に煽られ、ハムトラのケージもカタカタと音を立てて一晩中揺れ続けていた。


「俺、何か言ったか?」

「えー? 忘れちゃったの? 酷いなぁ、私あの時、すごーく感動したんだよ! あー私、ここのお家に来てよかったぁって! えへへ」


 ハムトラの心に残るような事を、俺は言ったのだろうか?

 日常的に、「おはよう」や「ただいま」と、挨拶をしたり「今日も可愛いね」と、ハムトラを褒めてはいたが、そう言う事ではないのだろう。


「思い出せないけど、口に出すなよ?恥かしいから」

「自分で言ったのに恥かしいの?」

「言うのと聞くのじゃ全然違うんだよ、それにハムトラがハムスターだから言ったんだし」


 今のハムトラに「可愛いよ」なんて、面と向って言うにはかなり勇気が要りそうだ。

 まして「可愛くて食べちゃいたい」とは口が裂けても言えない。


「そんなものかな? 人間って不思議だね」

「そうそう、不思議な生き物なんだよ。ハムスターと同じだよ」


 ハムトラは「そうだよね」と納得したように、ゴツゴツと俺の肩に肩をぶつけてきた。

 モルモットの背を撫で「お前もな」と声をかけた。ハムトラと同じようにコイツも人間の言葉をなんとなく雰囲気で聞いて、それなりに理解しているのかもしれない。


「俺、売店で餌を買ってくる」


 モルモットを牧草の上に戻し、俺と一緒に立ち上がろうとしたハムトラに、座っているよう伝える。


「座って待ってて。そこの、あの赤い屋根の店まで行くだけだから」

「じゃあ私はウサギと遊ぶけど、ヤキモチやかないでね」


 ハムトラは前歯を見せて笑った。


「なんでだよ」


 苦笑いを浮かべ、ひらひらとハムトラに手を振ると、同じように白い手が振り返された。

 あまり良い思い出のない公園だったが、それがハムトラのおかげで楽しい記憶に塗り替えられていく。そんな気がする。

 百円と引替えに受け取ったカップには、見るからに鮮度の落ちた野菜が少量入っている。

 ハムトラも好物のキャベツとニンジン。もしかして「ずるい」とか「私にも」と、欲しがるかもしれない。

 無意識に頬を緩めながら、ふれあいコーナーの方へ振り返ると、激昂した女の子の声が耳に飛び込んできた。

 ハムトラだ!

 慌てて戻り、脱走防止の柵を跨いだ。


「ハムトラ! 何があった!?」

「アンタ最低な人間だね!」


 ハムトラは五歳ぐらいの小さな女の子の襟首を掴み怒鳴っていた。

 中腰の姿勢でいるのは、座ってと言った俺の指示を守っているからだろうか。


「あ! サトシ! コイツ酷いんだよ、大馬鹿人間!」


 コイツと呼ばれた女の子はわんわん泣き、逃げようとしているが、ハムトラは女の子を逃がすまいと容赦なく引っ張り、これでもかと揺する。


「泣いたってダメだからね!」

「ハムトラ、分かったから、とりあえず離してあげて」

「嫌だよ! 絶対許せない」


 騒ぎに気が付いた飼育員と、女の子の母親らしき女性が悲鳴をあげて走ってきた。


「ママー!」

「うちの子に何してんのよ!放して!」

「嫌!」

「危ないから止めろって」


 二人はもみ合いを始めたが、俺は真っ先に足元にいたウサギを退けた。母親の履いているピンヒールの靴に踏まれそうになっていたのだ。


「ハムトラ、少し落ち着いて」

「お客様、どうされました!?」


 俺と飼育員が間に入った隙に母親が女の子を取り上げ、その腕にハムトラが噛み付こうとしたので、俺は慌ててハムトラの腕を握った。

 細い腕が振るえている。


「ハムトラ! 大丈夫だから、この子のお母さん来たから理由を教えて」


 ハムトラは黒い目を三角にして、親子を睨む。


「モルモットを蹴った! ウサギの鼻を指で弾いた! びっくりして逃げた子を追いかけて、耳を引っ張ったの」


 飼育員は動物たちを見回し「どの子ですか」と表情を硬くさせた。


「うちの子がそんな乱暴な事するわけないじゃない!」

「したよ! アンタみたいに体の大きい人間に蹴られたら痛いんだよ!」

「ねぇ君、ウサギやモルモットに乱暴をしたの?」


 母親の影に隠れた女の子に声をかけるが、女の子は泣いて答えない。


「よしよし、怖いお姉さんとお兄さんが居て可哀想だったね」

「可哀相なのはウサギとモルモット!」

「なんなのよ! うちの子が悪いみたいに決め付けて」

「ハムトラが嘘をついてるとでも言うのかよ!」


 穏便に済まそうと思っていたはずが、叫んでいた。


「親が子供に正しい事を教えてあげないから、動物に意地悪するような子供になったんじゃないですか? その親の責任をハムトラに押し付けるなよ」


 俺がさらに声を荒げると、飼育員が慌てて間に入り「すみません」と俺達と親子に頭を下げた。その胸には鼻先が充血した黒いウサギが抱かれていた。


「お嬢ちゃん。動物さんたちを触る時は優しくなでてあげてね。そうしたらお友達になれるんだよ」


 慣れた口調で女の子に諭す。こういう事例は少なからずある事なのかもしれない。


「友達になんてなりたくない!」


 ハムトラが叫び、母親は「不愉快だわ」と瞼を吊り上げているが、子供を信じきっているわけではないのだろう「もう、帰りましょう」と、逃げるように去っていった。


「……この子達のために有難うございます。私が目を離していたせいでお客様にもご迷惑をお掛けしてしまって」


 飼育員は深く頭を下げ、硬い笑顔でハムトラに「ありがとうございます」と礼を言ったが、ハムトラは頬を膨らませ、ぷいと横を向いてしまう。


「ウサギの怪我、どうですか?」

「少し擦り剥けちゃたみたいだけど、血も出てないみたいです。ノノちゃんごめんね」


 ノノちゃんとは黒ウサギの名前なのだろう。その背を優しく撫でていた。


「ウサギ、いつもより美味しいご飯くれたら、ちょっと許すって」


 ハムトラは不貞腐れたような言い方でウサギの鼻を擦った。


「モルモットは?」

「もう忘れちゃったって」


 飼育員が少し困ったように笑い「彼女さん動物お好きなんですね」と微笑み、気恥ずかしさを誤魔化すよう、ぎこちない笑顔を顔に貼り付けた。


「すみません、お騒がせして」

「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。事故が無いよう気をつけますので、また遊びに来てくださいね」

「はい。じゃあハムトラ行こうか」


 何度も頭を下げる飼育員と同じ数だけ頭を下げながら、俺達はふれあいコーナーを後にした。


 ハムトラは沈黙している。

 人間になってから、アレは何だ、コレは何だと喋り続けていたハムトラが急に静かになり、二人の間に妙な緊張感を感じる。

 大きなショックを受けただろう。

 考え込むよう目を細めた横顔が、今朝より少し大人に見えた。


 ハムトラにかける適切な言葉が見つからない。


 この場所は、動物とふれあう事で生き物の大切さを得ようという人間の為の情操教育の場で「学びの場では仕方が無い事なのだ」と、ハムトラに伝えるのはおかしいだろし「あの子供は性悪で酷い」と、ただ同調するのも違う気がする。


「……ハムスターが居なくて良かったな」


 頭にふと思い浮かんだ事が口に出た。ハムトラがこちらを見たので慌てて目を逸らす。

 ハムスターが居なくて良かった。そう思ったのは本音だが、そういう事じゃない。


「ごめん。何でもない」


 ハムトラは何も言わずに、俺の手を握る。一瞬ドキッとしたが、反射的に手を引いた。

 しかし遅かった。ハムトラは両手を使いガッチリ俺の手を捕まえると、口元に引き寄せたのだ。


「ハムスターなら噛めるけどね」

「痛ってぇ!」


 ハムトラの気が晴れるなら。と、覚悟もしたが覚悟で痛みは誤魔化せない。


「本気で噛んだだろ!」


 血は出ていないが、親指の付根にはハムトラの歯の形がクッキリと付き、早速赤く腫れている。


「私、サトシの家の子で良かったよ」

「え?」

「ヒマワリは沢山くれないけど、優しいし」


 手をフーフーと吹きながら、恨み節の一つでも嘆いてやろうかと思ったが、そんな事を言われては言い返せない。

 しばらくは黙って横に並んで歩いていたハムトラだったか、何を思い立ったのか小走りで俺を追い抜くと、くるりと向き直り俺の正面でピタッと止まった。

 両手を背で組み、今まで見た事のない少し恥かしそうな顔で、上目遣いに、はにかんで見せた。


「ねぇ、サトシ」


 淡い栗色で毛先の黒い不思議な毛色が陽に透けて輝く。


「ねぇ、お父さんって呼んでいい?」

「え?」


 俺の頭の中に疑問符が幾つも浮かぶ。


「どうして……」


 俺が父親なのか? 言いかけたところでハッと思い出した。

 俺は言ったのだ、嵐の夜。ハムトラに。


 ――外は風が吹いて怖いけど、お父さんが居るから大丈夫だからな――


 恥かしさに脱力して膝が折れた。

 俺はハムトラが彼女と間違われる度に浮かれていたが、ハムトラにとって俺は「お父さん」だったのだ。

 ハムトラに目を向けると、嬉しそうに「言っちゃった」と照れている。


「お父さんと呼ばれるのは辛いかも……」


 想定外だったのだろう。ハムトラが丸い目をより丸くした。


「……ごめん」


 ハムトラは「……そっか」と唇を尖らせたが、少し考えて、


「じゃあ、私の事トラちゃんって呼んでよ」


 と、笑顔を見せた。


「私、女の子だから、トラちゃん。ノノちゃんも女の子だからノノちゃんでしょ」

「あ、そっか」

「うん」


 ハムトラはモジモジと体をよじりながら、髪をぐしゃっと掻きあげ、チラチラと俺を見た。

 呼んで欲しいのだろう。


「……トラちゃん」

「はーい!」


 ハムトラが大きく手を挙げた。


「トラちゃん、可愛いね」


 ハムトラは口元を緩め「えへへ」と、さらに体をくねらせた。

 言った俺は全身に鳥肌が立ち、耳まで熱くなっていく。顔は赤いだろう。ハムトラの目が見られない。


「食べちゃいたい?」

「そうだよ、バカ」


 ハムトラはケラケラと腹を抱えて笑った。そして「ねぇ、あれ見て」と俺の背後、ふれあい動物コーナーの方を指差した。

 振り返ると、黒い塊がぴょんぴょん大きく跳ねているのが見えた。

 黒い塊には長い耳が二つ。


「ノノちゃん人間になる気なのか?」


 ハムトラが堪らず噴きだした。

 ハムトラが人間になったのだから、ウサギだってなるかもしれない。

 もしノノちゃんが人間になったら、やっぱり復讐に行くのだろうか。


「トラちゃんに意地悪しなくて良かったよ」

「でしょ」


 ハムトラは俺に肩をぶつけながらニヤニヤと笑った。


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